三日目 昼
「――どうして、」
「「!」」
レナードが命の危機を脱したことで、場に張りつめた緊張感が緩んだはずだった。
私もノックスさんも、肩に入った力を抜いて、完全に気を抜くことはできずとも一息つけるはずだった。
……けれど、そうできなかったのは、ひとえに第三者の声が小屋の中に響いたから。
その声に反応した私とノックスさんがバッと振り向けば、戸口に寄りかかるようにして佇んでいるバチルダの影が視界に入る。
逆光によって読み取りづらいものの、彼女の浮かべている表情は感情ひとつ読み取れない虚無、とでも言えばいいのか。
瞳孔の開いた目が瞬きひとつせずに私たちを、……私を一心に見つめ、物言いたげな視線を投げつけてくる。
「どうして、どうしてどうしてどうして?」
「……、」
「わ、悪い、のは、そのひとなのに。私が、私が被害者だったのに、なのにどうしてジゼルさんはそのひとの味方をするの? 私の味方をしてくれないの? 私は何もしてないのに、レナードとハンスが悪いことをしているのに、私が傷ついているのに、私が泣いているのに、私が、私が私が私が――」
「……こっわ」
親指の爪をガリガリ噛みながら、淡々とした声のトーンでブツブツ呟くバチルダの様子ははっきり言って異常だった。
とても正気には見えないし、冷静さや穏やかさといった言葉とはまるでかけ離れていて、常軌を逸している……と例えるのが一番ぴったりな気がした。
ノックスさんが思わず、といった様子でこぼした声も明らかに引きつっており、彼女のあまりの異様さにはノックスさんも戸惑っていることがよくわかる。
薬の副作用で深い眠りに落ちているレナードを庇うように抱きしめれば、それを見たバチルダがピタリと口を閉じ、のっぺりとした能面のような表情を浮かべた。
……さきほどの虚無の表情がこちらを身構えさせる異様さを感じさせるとするなら、今の表情はゾッとするような底知れない恐ろしさを感じさせるもので、ぶるりと背筋が震える。
「……ねえ、ジゼルさん」
ゆらり、と。
戸口に寄りかかるようにして立っていたバチルダが一歩、小屋の中に入ってくる。
その手にはとても見覚えがある刃物を……私の家から持ち出したらしい包丁を握っていて、ゆらゆら、ふらふらと揺れながら一歩、また一歩と私たちに近づいてくるバチルダはまるで、チープなホラー映画に出てくる殺人鬼のよう。
服にべったりとついたレナードの血が、瞳孔の開ききった目でうっすらと微笑むその顔が、いっそうそれらしい雰囲気を醸し出している。
「ジゼルさん。ジゼルさん。ジゼルさん……」
「……」
「どうして何も言ってくれないんですか? どうして何も応えてくれないんですか? あんなに私のことを可愛いって言ってくれたじゃないですか。血みたいな色をしたこの目は宝石みたいにキラキラしてるって、ぼやけた色の髪は優しい色をしていて素敵ねって、すぐに赤くなる顔は林檎みたいだしいつもオドオドしてばかりで自信のないところもリスやウサギを思わせて可愛いわって褒めてくれたじゃないですか。ねぇ、ジゼルさん。私には貴女だけ、貴女だけなんですよ、そうやって私を褒めてくれたのは。私に優しく声をかけてくれたのも怪我を気遣ってくれたのも泣いている時に慰めてくれたのも寄り添って肩を抱いてくれたのも、全部ぜんぶ私には貴女だけだった。ねぇ、ねぇ、聞いてますか? 聞こえてますよね? 私にはジゼルさんだけだってずっと言ってるのに、どうして貴女は何も応えてくれないんですか!? ねぇッ!?」
まくしたてるように早口で話しながら、バチルダはどんどん一人で勝手にヒートアップしていく。
……私だけ、と何度も何度も繰り返すバチルダの目は、表情は、妙な熱に浮かされて恍惚としていて、とてもじゃないけどマトモな精神状態をしているとは思えない。
こんな方向性で常軌を逸しているタイプの人間に直面するのは初めてだから、『何も応えない』と言うよりも『何も応えられない』――有り体に言うなら絶句している、と表現するのが正しいんだけど、今のバチルダにその微妙な違いがわかるはずもなく。
しっかりと包丁を握ってこちらに迫ってくるバチルダに、私の頭の中はただ、『ヤバいヤツが村に入り込んでしまった!』という今更の混乱でいっぱいになっていた。
……何がなんだかよくわからないけど、どうやらバチルダからおかしな執着を向けられていたらしい、とここまで至って私はようやく気が付いた。
私はただ、娼館から逃げて来た可哀想な女の子に手当てをして、将来の約束された美少女なのに自己肯定感が低いからと励ましの言葉をかけただけ。
たいして特別なことをしたわけじゃないし、なんならごく普通の対応をしただけなのに、どうしてここまで執着されることになっているのか。
(わけがわからないよ……)
森の中で迷って、ぼろぼろの姿で泣いている子どもを放って置くのは心苦しいからと声をかけたのが、そんなに悪いことだった?
私の中の倫理観に則って行動しただけなのに、それが本当はいけないことだった?
わからない、わからない、わからない。
混乱でぐるぐると渦を巻く思考では、冷静な判断を下すことも客観的な事実を推し量ることもできず、だけど、それでもひとつ確かなのは、私にひどく執着しているらしいバチルダが、私の腕に抱かれて眠っているレナードを憎々しげに睨みつけていることで。
「ああもう、本ッ当に最悪……!! 私の方が間違いなくジゼルさんを好きなのに私の方がもっとずっとジゼルさんのことを愛しているのに私の方が絶対に絶対にジゼルさんのことを大切にできるのにいつもいつもお前らばっかり……!! 汚いくせにケダモノのくせに男のくせに私のジゼルさんにベタベタベタベタしやがって、くそ、せっかく殺せたと思ったのになんで生きてるんだ、なんで、なんでなんでなんで――」
「……ぁ」
今まで聞いたことのない汚い口調でレナードを罵るバチルダに、ふと、気付いてしまったのは。
――レナードが刺されたのは、もしかしたら、私のせいなんじゃないかってことで、
「うるせぇよ」
「あがっ!?」
「……!」
小さな小屋の中に、突然、酷く鈍い音が響いた。
ガンッ、とも、ゴンッ、とも聞こえる、なんとも形容しがたい音。
私が気付いた時には、口汚くレナードを罵っていたはずのバチルダが白目を剥いて、ふらりとよろめき、その場にばたーんと背中から倒れ込んでいた。
そのはずみでバチルダが手に持っていた包丁は抜け落ち、カラカラと金属特有の高い音を立てて転がって……こちらも最終的には、静かに床の上に横たわった。
倒れたバチルダの傍には、左足を高く振り上げた――ううん、左足を高く蹴り上げたノックスさんのうしろ姿があって、遅ばせながら、彼がバチルダの顎を蹴り上げて昏倒させたらしいことに気付く。
……多少、意識が逸れた部分があったとはいえ、私の視線はずっとバチルダに固定されていたはず。
にもかかわらず、ノックスさんがバチルダの傍に移動したところも、ノックスさんがバチルダの顎を蹴り上げたところも視認できなかった。
まるで忍者か何かのように素早い動きを見せた彼に、私が驚きで目を白黒させている間にも、ノックスさんは床に落ちた包丁を軽く蹴って部屋の隅へと移動させる。
たぶん、昏倒したバチルダがすぐに目を覚ますことになっても、包丁が手に渡らないようにと気を回してくれたんだと思う。
……ノックスさんって、見た目に寄らずこういう荒事に慣れている人なのかな、なんて。
場違いにも、そんな感想を抱いた。
「ジゼルちゃん」
「……のっくす、さん」
くるり、と踵を返して、ノックスさんがこちらに振り向いた。
ノックスさんが私を視界に捉えると同時に、一瞬、琥珀色の瞳がわずかに歪んだように見えて――だけどそれは、きっと私の見間違いだったのだろう。
錯覚はすぐに掻き消え、ノックスさんは私の傍に戻ってくると、その目に浮かぶ心配の色を隠すように……あるいはじっとりと重苦しい場の空気を切り替えようとするように、にっこりと明るく私に笑いかけて来た。
「だーいじょぶだって! 悪いのはジゼルちゃんじゃなくて、どう考えたってアイツだろ? ジゼルちゃんが気に病むことなんて何もねーよ」
「でも、」
「でももへったくれもなし! そりゃあ、ジゼルちゃんは当事者だから色々考えちまうかもしれないけどさ、横で聞いてた俺からすれば『何言ってんだアイツ?』ってことしか――えーと、バチルダ? だっけ? とにかくコレは言ってないんだわ。正直、八つ当たりも良いところっつーか、自分本位が過ぎるっつーか、身も蓋もない言い方するとアイツの主張はマジで身勝手な妄言なワケ」
「……」
「ジゼルちゃんにとっての当たり前の優しさを、自分だけの特別だと勘違いして思い上がったアイツが悪い。だからジゼルちゃんが自分を責める必要なんてないし、レナードだって、ジゼルちゃんを責めたりなんかしねーよ」
でも、だって、と。
ネガティヴな言葉ばかりが頭を占めている私に、ノックスさんは『あくまでも悪いのはバチルダだ』と言う。
……確かに、レナードを刺したバチルダが悪いに決まってる。
それは絶対、間違いないと思う。
でも、バチルダがレナードを刺すきっかけになったのが私だと言うなら、バチルダの勘違いが原因でレナードが刺されたのなら、彼女に勘違いをさせるような真似をした私もやっぱり悪いんじゃないだろうか?
最初からバチルダに優しさなんて見せずに突き放していたら、泣いていたバチルダを見捨てて知らんぷりしていたら、こんなことにはならなかったんじゃなかろうか?
私がそう考えることは、もう、やめようと思ってやめられるものではなくなっていて。
ぐるぐるぐるぐる、自問自答の堂々巡りを繰り返している。
(でも、だって、……だから、)
私の頬をそっと撫でる、優しい手のひらの熱に甘えたかった。
……私が、私のせいで、大切な家族を傷つけてしまった。
それがどこまで真実であれ、嘘であれ、一人で背負うにはあまりにも重い事実だったのだ。
普段であれば、どれほど重い事実に押しつぶされそうになっても、両足で踏ん張って耐えられたかもしれない。
だけど今は、シモンが殺されそうになって、レナードも死にかけて深い眠りに落ちているから。
……ハンスだってどこまで無事でいるかわからないこの現状、なんの支えもなく辛い事実を前に一人で食いしばって立ち続けることは、私にはとても難しかった。
どれだけ長い時間を生きていても、瀕死の人間を蘇生させる薬を造ることができても、結局、私の性根は弱いままだから。
私は悪くないのだと、ハッキリそう言ってくれる誰かに……ノックスさんに、今にも折れそうな心を甘やかして欲しかった。
涙袋をなぞるノックスさんの親指が、水気を帯びてしっとりと濡れる。
そのぎこちない指の動きに、私はようやく、相好を少しだけ崩すことができたのだった。
――ほどなくして、騒ぎに気付いていたアドリアーヌとクリセルダが、恐る恐ると私たちがいた小屋に顔を出した。
白目を剥いて床にひっくり返っているバチルダに彼女たちは最初、ぎゃあっと大きな悲鳴を上げて腰を抜かしてしまったものの、それがノックスさんの仕業だと知るや否や様子が一転。
よくやったわ新入り、なんて大きな態度で彼を誉めそやしたかと思えば、嬉々としてバチルダを縛り上げるための縄を探しに向かった。
……どうやら二人は身体が小さいぶん、包丁を持ったバチルダと対峙することになった時に太刀打ちが難しいからと、どうすればいいか困り果てていたらしい。
最悪、捨て身で私たちを助けることも考えていたらしいけれど、ノックスさんの華麗な活躍でその必要はなくなった。
おまけに私とレナードにも傷ひとつないものだから(レナードに関しては、正確には一度瀕死に陥っているのだけど……)、彼女たちの中でノックスさんの株はうなぎ上り。
ノックスさんはコミュ力が高いので双子との関係もそこまで悪くなかったし、この件ですっかり打ち解けた、と言っても過言ではなさそうだ。
それから――四人で力を合わせてバチルダを麻縄で縛り上げ、物置に押し込んで鍵を閉めたあとは、レナードを私の家の客間に運び込んだ。
ノックスさんが使っている客間にはベッドが二つあるので、その片方、空いていたベッドに寝かせておく。
薬の副作用でぐーすか眠っているだけとはいえ、怪我が完治したわけではないので、療養のためにも私の家に寝かせておくのが一番だったからだ。
もし夜中に容体の変化が見られた時はノックスさんが教えてくれるそうなので、本当に彼には頭が上がらない。
……大したお礼にもならないだろうが、今夜も食事は奮発しようと思う。
レナードを運び込んだあとは、四人で手分けしてハンスを探した。
といっても、このあたりの地理に不慣れなノックスさんを一人にするわけにはいかないので、二人ずつに分かれてって感じだけど。
組み合わせはもちろん、アドリアーヌはクリセルダとだし、私はノックスさんと組む。
あの子たちは昔からニコイチで、何をするにも一緒だから、これが一番自然なチーム分けの仕方だ。
ハンスがいる場所には大体見当がついていて、昨日、シモンが倒れているのを見つけたあたりを重点的に探した。
なにしろ昨晩、ハンスがバチルダを連れ出すために使った口実は『ハンスを襲った人狼がどちらに向かうのを見たか現地調査し、手がかりを探す』――というものだったはず。
バチルダが『シモンを襲ったのは人狼だった』と発言したことを逆手に取り、いるはずのない人狼の幻影を追いかけることで、レナードが証拠を探すための時間を稼ぎつつ危険人物を村から引き離すのがハンスの役割だった。
……元々、時間稼ぎ以外はハンスに求めていなかったし、むしろ昨日の時点では『危険人物(暫定)』だったバチルダを村から引きはがすためにまるまる一晩二人きりになる、なんて危ない橋を渡って欲しくなかった。
それでもハンスは『シモンが不在の間、自分が村を守らなければいけないから』と言い張って、バチルダを村から引きはがす役割を頑として譲らなかったのだ。
その結果がハンスの生死不明……なんて事態になるとわかっていたら、絶対に許さなかったのに。
そう考えたところであとの祭りだってわかっているけど、ハンスが見つかるまでは私も気が気じゃなかったので、しょうがないことに思考を巡らせるのも許して欲しい。
――そう、とても無事、とは言い難いけれど、ハンスはちゃんと見つかった。
私と一緒にいたノックスさんが、茂みの中で頭から血を流して倒れているハンスを見つけてくれたのである。
ハンスの傍にはこぶしぐらいの大きさの石が転がっていて、こびりついた血が既に半分乾きつつあった。
……バチルダはきっとこの石を使ってハンスの頭を殴りつけ、ハンスが倒れた隙に村に戻ってきたところを、家の中でレナードと鉢合わせしたのだろうと推測する。
どうしてこんな酷い真似ができるんだろう……と引く思いだけど、それを言ったら当たり前のように家探しを企んだ私たちにも盛大なブーメランが返ってきそうだ。
いやでも、私たちの場合はバチルダがほとんど犯人だって確信していたようなものだし、家宅捜索の一種のようなものだからね、ウン。
……言い訳をして取り繕っている時点でやっぱりアウトな気もするが、こちらも必死だったのだと主張させてもらう。
殺人(狼)未遂の危険人物を早いところ自分たちの村から追い出したい、と思うのは、ごく当然の心理だと思うのでね……。
どうやらしこたま殴られているようだからと、頭を揺らさないように気を付けながら声をかければ、ハンスははっと目を覚ました。
その際、自分に襲いかかってきたバチルダにバチバチにキレながら飛び起きようとしたハンスを慌てて宥める羽目になったのは言うまでもない。
とりあえずバチルダはノックスさんのおかげで拘束できたと伝えれば見るからに安心していたし、レナードが刺されて危うく死ぬところだったと知れば落ち着いた怒りが瞬間湯沸かし器さながらのスピードでぶり返したようで、淡い色の瞳を剣呑な光でぎらつかせていた。
「あいつは絶対ころす」
「……ねぇ、ハンス。私、弟に人殺しにはなって欲しくないわ」
「だがジゼル、」
「でも――不幸な事故に遭ってしまったら、それは仕方ないわよね?」
物騒なことを言い出したどころか、安静にすべきところを動き出そうとするハンスをどうどう、と落ち着かせ。
不満げに唇をへの字に曲げて、それどころか今にも臍すら曲げそうな様子のハンスにニコリと笑いかければ、ぽかんと虚を突かれたような顔をした。
けれどそれも一瞬のことで、そうだな、と私の言葉に頷くと。
「不幸な事故なら、それは仕方のないことだろう」
ふ、と微笑むハンスはひとまず、溜飲を下げることにしたらしい。
びりびりと迸るような怒気を抑え、『何か』を考え込むようなそぶりを見せる。
(……あくまでも『事故』じゃなきゃ駄目だからね?)
そんな際どい会話をする私たちに、ノックスさんは何も言わなかった。
咎めることもなければ、『じゃあこうすれば?』なんて案を出すこともなく、ただ楽しそうに――興味深そうに、笑みを浮かべて私たちを観察しているばかり。
そんな彼の様子にハンスもようやく肩の力を抜いたようで、「肩を貸してくれないか?」と自分から頼み、パーソナルスペースの内側にノックスさんを招き入れていた。
――二つ並んだ大きな背中を、散歩後ろから追いかけて。
長い永い夜がやっと明けたような、そんな気がした。
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