友達
凛音との関係が解消されて一週間ほど経つ。六月はつまらない月になりそうだなと思うが、七月も同じだろうし、これからはずっとこんな感じなのだ。これが日常になるのだ。
平瀬くんが四組に遊びに来る頻度も減るが、そもそもが来すぎだったため、これくらいでちょうどいい。毎回欠かさず来るのが必ずしも正しくなんてない。お互いに疲れてしまうだろうし、無理のない範囲で関わるべきだ。
檻本さんとのことを考えていかなければならないのに、頭がちっとも働いていない。心がその方角へ向かっていこうとしてくれない。俺はずっとぼんやりしている。
四組のクラスメイトで友達の、海堂敦士が話しかけてくる。「おい博希。最近全然白都さんと話してなくない? どしたんだよ」
「ああ……」今更だなと思うが、敦士も気を遣って今まで訊いてこなかったのかもしれない。「凛音に恋人できそうだから、距離置いてる。俺がいたら邪魔になるだろ?」
「恋人ができそうだからって……お前、白都さんとはただの友達なんだろ? 距離取る必要なくない?」
「……ケンカもしたし」
「はあ? なんで……ってまあそこまでは訊かないけど」敦士は凛音の席を見遣る。「恋人ってのは、最近よく遊びに来る、あの腹立つほどイケメンな奴だろ? あれ、恋人かあ?」
「将来的に恋人になりそうな相手、だな」
「俺から言わせると、そんなに白都さんとお似合いじゃないんだよな。自然じゃないっていうか、不自然っていうか」
「それはお前がイケメン嫌いだからだろ」
「イケメンが好きな男子なんているかよ」と返してから、「でもそういう話じゃなくってだな」と続ける。「前にも言ったけど、俺だって白都さんのこと好きだから、白都さんのことはよく見てるんだよ。でも、全然楽しそうじゃないぞ?白都さん」
「楽しいっていうか、愛しいみたいな感情が勝ってるんじゃない?」
無視される。「っていうか白都さんは誰といても別に楽しそうじゃないけどな。お前といるときだけだろ、あんなに楽しそうにするのは」
俺は……なんだ、「ありがと」と言う。「さすが敦士。ありがたいことを言ってくれる」
「真面目に言ってんだけどな」
「…………」
「俺は納得いかないよ」
「…………」
「……それに、恋人ができそうかもっていうおめでたいときに、そんな顔してる奴は友達なんかじゃねえよ。博希」
「……ごめん」
「はは! 俺に謝られてもな。俺は怒ってるわけじゃないし、責めてもないぞ? ただ、教えてやってんだよ。自分の顔なんか見てもないだろうからさ、博希は」
「……俺は凛音の友達なんかじゃないのかもしれない」
「真に受けんなよな。所詮、俺の言葉だ」
「うん……」
「おう。まあわからないけど、よく考えてみろよ」敦士は俺の肩を叩いてくる。「白都さんがあのイケメンと付き合いたいっつってて、それを尊重してやるのもまあ間違っちゃいないだろ。でも、お前の方はどうしたいのかについてもちゃんと考えろよな。白都さんの気持ちが大切だからそれを優先するのももちろんありだろうけど、そんなふうに思いやってるお前の気持ちが蔑ろにされるのは、違うかもしれないだろ?」
「俺は……そんなにいい奴じゃないよ」
凛音に男も捨てたもんじゃないってことをわからせて、本当の愛情を取り戻させた上で本命とゴールインしてもらう……そういうつもりでいたのに、そんな目標を意気揚々と掲げたのに、俺は今どうしてこんなに最低な気分なんだろう? 凛音を平瀬くんのもとに送り出せて、本来ならば大満足をして達成感の余韻にでも浸っていなければいけないんじゃないのか? だけど全然、頭で思ったことと実際に湧き起こってくる感情は違う。それはそうだ。俺はいずれ凛音が離れていってしまうことが恐くて寂しいから、それを自分の手柄のようにして、自己犠牲の美徳に酔いしれることで紛らわせたかっただけなのだ。きっと。もしも俺が本当の『友達』だったなら、「うおお! 凛音! よかったな!」で終わる話なんだから。
そういえば凛音も以前、大切な人だから幸せになってほしいと俺に言い、俺を檻本さんとくっつけようとしていたが、あれは本心だったんだろうか? それとも、俺を手放すのが惜しい気持ちを強がりで隠しただけなんだろうか? 大切な人だから幸せになってほしいという思い自体はすばらしく尊いと思うけど……。
俺はどうしたいのか。
現国の授業中、黒板にチョークを走らせながら小説の解説をしていたおじさん先生が生徒側を向き、ぎょっとした表情になる。目線の先には、凛音。凛音は教卓に程近い座席なので、教師の目は届きやすい。「白都さん、大丈夫?」とおじさん先生が尋ねる。
なんだ? 俺の胸がざわつく。大丈夫?って、何が?
凛音は「はい」と答えるが、すぐにわかる。涙声だ。凛音が泣いている? どうして? 何かあったか? だけど俺からは、凛音はただ黙って授業を受けていたようにしか見えなかった。例えば、スマホなんかを眺めていた様子はなかったし、急に泣く意味がわからない。
おじさん先生は心配そうだ。「保健室で休んどく?」
「いえ、大丈夫です……」と言いながらも凛音は手で顔を擦るようにして涙を拭っている。「すみません」
「いやあ、だけどだいぶ調子が悪そうだ」と先生は判断する。「保健委員の人はいますか?」
「博希」俺の左斜め後方から敦士が小声で呼んでくる。「行け。お前が連れてけ」
「いや、無理だって」と俺も小声で返す。俺は保健委員じゃないし、そもそも凛音とは一週間も口を利いていないのだ。凛音を傷つけて怒らせてしまってもいる。今更どのツラ下げて名乗り出ろというんだ? 凛音にしたって俺の同伴は願い下げだろう。
敦士と小声で言い合っていると、順当に保健委員の女子が手を挙げてくれて、凛音を教室から連れていく。
「あーあ、バカ」と敦士にあきれられる。「せっかくの仲直りのチャンスが……」
「できないよ」
仲直りなんて。したとして、どうなる? 暫定恋愛の契約は切れているのだ。平瀬くんが傍にいる凛音は、俺をもう必要としていない。
だけどどうして凛音は授業中なんかに泣いたりしたんだろう? お腹や頭が痛いとかではなさそうだったし、心の問題だよな? なんだろう?
凛音は次の授業も欠席したが、気付けばいつの間にやら戻ってきていた。一大事ではなかったようだ。ならいい。
そのまま、そわそわとした落ち着きのない気分で過ごしていると放課後になる。生徒玄関で靴を履き替えていると平瀬くんが走って追いかけてくる。「岡部くん、ちょっと待って……帰るの早すぎだよ」
俺に用事か。珍しい。「なに? どした? 平瀬くん、部活は?」
「部活は通常営業だけど、そんなことより大事な話があるんだ。こっちに来てくれる?」
せっかく靴を履き替えたのに俺は再び校舎内に連れ戻され、二階の渡り廊下を経て、体育館のギャラリーの奥地へと誘われる。埃っぽいそこで平瀬くんと向かい合う。
「どうかしたの?」と俺は再度問う。
「それは僕の台詞だよ」と平瀬くんが言う。「どうして凛音ちゃんと仲良くしなくなっちゃったの? 最近いっしょじゃないよね?岡部くん」
「ああ……」敦士みたいなことを平瀬くんにも言われている。
「どうして?」
「いや、凛音は平瀬くんといっしょにいるし、邪魔しちゃ悪いかなと思って……」
「邪魔になんてならないよ」
「凛音は平瀬くんのこと好きだから。仲を深めるなら俺は近くにいない方がいい」
「凛音ちゃんは僕のこと、好きなわけじゃないよ?」
「でも平瀬くんは凛音のこと、好きでしょ?」
「僕は……」平瀬くんは躊躇いがちにおずおずと「好きだよ」と言う。
「うん。凛音も今に平瀬くんのことが好きになるから、もうしばらく待ってなよ。俺がいるとややこしくなるから、俺は離れてるし」
「離れなくていいよ」と平瀬くん。「凛音ちゃんには岡部くんが必要なんだよ。また前みたいにいっしょにいてあげてよ」
「俺なんて要らないよ」
「凛音ちゃん、岡部くんの話ばっかりするから」
「…………」
「凛音ちゃんは岡部くんのこと、大事に思ってるよ? 話せなくなって寂しがってるし、ときどき泣くんだよ……僕の前で」
「…………」
「僕はそんなの対処できないからすごく困っちゃうんだけど、凛音ちゃんはホントにわんわん泣くんだよ。岡部くんがいないから。岡部くんにいてもらいたいから」
「…………」
「凛音ちゃんは岡部くんのことが好きなんだよ」
「……そんなわけない」と俺は首を振る。「そんなこと、言われたことないし」
「じゃあ逆に、僕のことが好きだって言ってた?凛音ちゃん」
「…………」
言ってない。好きだとは言っていない。可愛いと言っただけだ。俺が勝手に凛音は平瀬くんが好きなんだと決めつけただけだ。いや、違う。いつか実際に凛音が平瀬くんを好きだと言い始める可能性に恐ろしくなって逃げ出したのだ。
「……岡部くんは凛音ちゃんのこと、なんとも思ってないの?」
「…………」
「そこまで岡部くんを慕ってる凛音ちゃんに、思うことはないの?」
「…………」
「ねえ、岡部くんって、別に好きな人がいて、凛音ちゃんのことをずっとその人の代用品にしてたなんて、嘘だよね?」平瀬くんが訊きづらそうに尋ねてくるが「本当だとしたら……」と言う頃にはもう表情が変わっている。大きく開かれた目で俺を射抜くように見据えている。「僕は岡部くんのことを絶対に許さない」
平瀬くんの最後の台詞と、俺の「そんなわけないだろ!」が被る。ぶつかり合う。「凛は俺にとってかけがえのない相手だっつの! 凛は誰の代わりにもなり得ないし、誰にも凛の代わりなんてできねぇよ!」
たぶん凛音は檻本さんの話をしているんだと思う。凛音と暫定恋愛を解消したときに、俺が檻本さんのところへ行くと言ったのをそういうふうに受け取っていたし、それを平瀬くんに少し話したんだろう。でも、凛音はバカなんじゃないのか? なんでそんなふうに思い込むんだろう? 俺が凛音にしてやった行為は凛音だけのものだし、俺が凛音に言った言葉は凛音だけのものだし、俺が凛音に思っている何もかもは凛音だけのものなのに。俺が凛音といっしょにいて、凛音を誰かだと思ったことなんて一度もない。凛音は凛音だ。二ヶ月間ずっとそういうふうに接してきたのに、わからないのか? バカ。
「…………」今度は平瀬くんが押し黙る。
「俺だって凛の傍にいたいよ? でも俺なんて全然たいしたことないし、俺には何もないし、どれだけ凛のことを思ってても凛にはちっとも届かないし、平瀬くんにだって簡単に負けちゃうんだよ」
「なんにもなくないよ」と平瀬くんが小さく笑う。「凛音ちゃんと知り合って間もない僕ですらわかるもん。凛音ちゃんは、岡部くんばっかりだよ。本当に悔しいくらい、羨ましいくらい、凛音ちゃんは岡部くんのことばっかりだよ」
「…………」
「だからこそ、僕は岡部くんときちんと勝負したいんだ」と平瀬くん。笑顔が少し明るくなる。「僕もまだあきらめてない。凛音ちゃんのことは今も好きだよ。でも、岡部くんのいないところで、仮に凛音ちゃんを振り向かせることができたとしても、そんなの意味ないよ。だって、凛音ちゃんの心には岡部くんが居座り続けてるんだから」
「…………」
「だから岡部くん。岡部くんもちゃんと凛音ちゃんと向き合って。……自分を何もないだなんて言わないで。岡部くんの気持ちは、凛音ちゃんに届いてるよ。きっと、当たり前すぎて誰も気付かないだけなんだ」
「…………」俺はちょっと泣いてしまいそうだ。まだ泣いていないけど目を擦る。鼻を啜る。「平瀬くんは、負けるのが恐くないのかよ。負けて失うのが、恐くないの? 俺は恐いよ。尽くしに尽くした思いも報われず、そんな無力感の中で、平瀬くんと凛音が結ばれるところを拝まされるなんて……想像しただけでも気絶しそうなぐらいに恐い」
「僕も恐いよ。もちろん恐い」平瀬くんは苦笑しながら言う。「だけど、戦いもしないまま、負けることからすらも逃げ出すような、弱い自分に成り下がってしまうことの方がずっと恐い」
「…………」
「せっかく大好きだって心から思える人と出会えたんだ。負けるにしても、とんでもなく惨めに無様に負けるにしても、ここで頑張らなかったら、ずっとあとになって、僕は僕をぶん殴ってやりたくなるんじゃないかなって、そう思うから」
本当に平瀬くんのエネルギーはすごい。最初からわかりきっていたことだが、今このときにも思う。俺にも平瀬くんのエネルギーが流れ込んできたような気がして、これか……と少し感動さえする。たしかにこの体験は、誰かに嬉々として話したくなるかもしれない。
「…………」俺はもう、凛音に関しては心が決まっている。だから別の話をする。「平瀬くん。男がわざわざこんなことを言うのは変かもしれないんだけど、俺、平瀬くんと友達になりたい。なれるかな」
「僕は最初からそのつもりだったよ。そしたら岡部くんが離れていっちゃうんだもん」平瀬くんが右手を差し出してくる。「改めてよろしくお願いします」