解消
暫定恋愛の関係が解消されたら友達に戻るだけだし、戻ればいい……と思っていたが、そんなことができるんだろうか? そもそも俺が凛音に向けている感情は、友達に対するそれなのか? いや、恋しているとか愛しているだとかではない。それはわかる。俺は凛音に好きだよとも愛してるよとも別に言いたくならないし、そういうんじゃないってことははっきり理解している。しかし、体の関係なども絡んで、感情がよくわからない領域に入り込んでしまっているのは間違いなさそうで、俺はこの気持ちの処理の仕方についてまるで見当がつかない。
自宅前で凛音を待ち、いっしょに登校するのもまたルーティーンのひとつなんだけど、今朝は待たずにそのまま一人で学校へ行ってしまおうかと思ったくらいだ。心が平たくなっていて、凛音と顔を合わせるのがなんだか億劫だ。
凛音は当たり前だけど普通そうで、普通に歩いてきて、普通に言う。「おはよ。体調は平気? 昨日はごめん。電話がかかってきてて、なかなか話し終わらなくて……」
「別にいいよ」と俺は平静さを維持しつつ返す。「どっちみち昨日は電話しなかったし」
笑われる。「五回もかけてくれてたじゃん」
「…………」え、着信記録って他人と通話していても残るのか。電話なんて普段使わないから知らなかった。思いがけず俺は頬を熱くさせられる。「……平瀬くんと長電話してたんだろ?」
凛音は俺をしばらく眺めてから「うん」と認める。
俺は学校に向けて歩きだす。「楽しかった?」
凛音もついて来る。「うん、まあ」
「そんなにたくさん何話すの?」
「いろいろ」
「いろいろか」
「いろいろとしか言いようがないかな」
「エロい話もすんの?」
「そういうのはしないよ。平瀬くん、真面目っていうか、純粋だし」
「ふうん」俺は人知れず息を吐く。「すごいよなあ、平瀬くん」
「すごいよね」と凛音も同意する。「すごい頑張ってくれてて、可愛いなって思うよ」
「…………」どうして頑張ったら可愛いんだろう? 「顔が可愛いだけじゃん。美形なだけだろ」
「や、こう、私を楽しませようと頑張ってくれてるのがありありとわかって、いじらしいなって」
「…………」
「何事にも誠実なんだろうね。いやらしさがないもん」
「じゃあ平瀬くんと付き合ったら?」と俺は言ってしまっている。「暫定恋愛を解消して、平瀬くんの方へ行ったら?」
俺は何を口走っているんだろう?と内心緊迫する反面、この展開を冷静に受け止めてもいる。このままズルズルと凛音が平瀬くんに寄っていき、最終的に暫定恋愛を解消されてしまうより、今すぐに断絶した方が俺も惨めにならなくて済む。凛音が平瀬くんに惹かれていく様を微妙な距離感で眺め続けるのは俺的にきつい。凛音としても、早々に平瀬くんに移った方が効率的だろう。
「は?」と凛音がちょっと笑う。「平瀬くんのことは好きとかじゃなくって……」
「いや、好きじゃん。顔も好みだし、性格も可愛らしいし、おまけに誠実そうなら男性不信な凛にぴったりだろ」条件がほぼ揃っている。相性も悪くなさそうだ。学校ではずっと喋っているし夜には電話もしている。「暫定恋愛の解消でいいんじゃない? そしたら俺も檻本さんのとこ行くし」
「は?」とまた凛音が言うが、今度は少しも笑っていなくて、真っ赤だ。「なに? 博希ってやっぱり最初から京架のところ行きたかったの? 関係を解消しなかったのは私が一人ぼっちになって可哀想だったからなの!?」
「いや、そんなんじゃ」
ないよ、と返そうとするが「そんなことしなくていいって言ったよね!?」と怒鳴られる。「バカにしないでよ」
「バカにはしてない」
「私のこと可愛いって言ってくれたの、あれ適当だったの? 私といろいろしてたときもホントは京架のこと考えてたんだ?」
「いや……」
「京架のこと好きだったんなら、私にあんなことしないでよ……」
「いや」俺は動転していて考えもなく喋ってしまう。「暫定恋愛中は恋人扱いするし、恋人同士がすることならなんでもしていいってルールだったろ」
「…………」凛音が青褪めてうつむく。「そうだけど……」
「…………」
「うん、そうだ。私が最初に決めたルールだ。ごめん……」
「ううん」でも俺はそんな揚げ足取りがしたかったわけじゃない。しかしこれは結果オーライで、凛音は平瀬くんの方へ行きやすくなったはずだ。俺への情というか、惰性感を断ち切りやすくなったはず。「……平瀬くんとこ行けよ」
「…………」凛音が歩道の植え込みブロックにストンと腰をかける。「……わかった。関係を解消するね。これで博希は自由だよ。京架とも付き合える」
「…………」
「京架のとこ行きたいけど、私が可哀想だから待っててくれたんでしょ? もう心配しなくて大丈夫だから。行きな?」
「凛、そういうんじゃなくってだな……」
「あと、先に学校行って」と言われる。「私はあとから行くから。先行って」
俺はまた、凛音を一人で歩かせて平気だろうか?と過保護すぎる思考に反射的に囚われてしまうが、振りきる。俺はもう凛音の面倒は見ない。見ることができない。
わかりきっていたことだけれど、もうもとの友達に戻ることすらできないんだなと悟る。檻本さんのくだりは完全に凛音の勘違いだったが、凛音は恥を掻かされたと思っているだろうし、傷ついてもいるだろうし、大激怒していたし、俺達が駄弁ったり笑い合うことは二度となさそうだ。ちょうどいい。後ろ髪を引かれることもなくなった。
一人で登校し、四組の教室へ行くと早くも平瀬くんがいる。平瀬くんは俺を見とめると軽く会釈する。「おはよう、岡部くん」
「あ、おはよ」なんか気まずい。でも平瀬くんに罪はない。「凛音ならもうしばらくしたら来るよ」
「ああ、ふふ。ありがとう」平瀬くんは照れ笑いし、頭を掻く。「それより岡部くん、体調はよくなった?」
「ん? 体調……?」俺、昨日平瀬くんと何か喋ったっけ? 覚えてない。
覚えていなくて当然だった。「あ、いや、凛音ちゃんが昨日の夜、電話で話してたとき、岡部くんのこと心配してたから。体調よくないんでしょ? 僕も気になっちゃって」
「あ……」なんだよ、それ。「だ、大丈夫だよ。心配してくれてありがとな」
「ううん。凛音ちゃんにも大丈夫だよって言ってあげてね」
「ああ、うん……」俺はリュックを机に降ろす。「平瀬くんは、いい奴だな」
「えぇ? いや、別にそんなことないよ。いい奴だとかいい子だとか言われるのは、あまり好きじゃないかな」
「そうか?」でも、本人が望むと望まざるとに関わらず、というやつだ。「凛音にも優しくしてやってよ」
「え? う、うん……?」
「あ、凛音来たよ」少し遅れて凛音も教室に入ってくる。「ほら、行け。早くしないと他の友達んとこ行っちゃうかもしれないぞ、凛音」
俺が平瀬くんの肩をクッと押すと、平瀬くんはそれを原動力のようにして凛音の方へ駆けていく。俺は着席して一息つく。見ないようにしようと心がけるけれど、どうしても喋り声は聞こえてしまうし、ついつい二人の方に目をやってしまう。
いたたまれずに六組へ逃げる。檻本さんも既に来ており、教科書やノートの整理をしている。俺は檻本さんに声をかける。「おはよ」
「わ、びっくりした~」と檻本さんは朝から華やかな笑顔だった。「珍しいねー。博希くんから会いに来てくれるなんて。どういう風の吹き回し?」
「ん? うん」としか俺は言えず、なんか意味もなく微笑んでしまう。
だけど檻本さんはそれをぼーっと眺め、なんとなく察してくれたようで、突っ込んだ詮索はしない。「いいよ。なんだって嬉しいよ」
「ねえ檻本さん、今日の放課後って暇?」
「ん? 放課後は、一応部活……」
「え、檻本さんって部活やってたっけ?」凛音と三人でいっしょに帰ったりしたことなかったっけ?
「ひどいなー博希くん。わたし、吹奏楽部だよ」
「そうなんだ……」全然知らなかった。
「たしかにわたしからは何も言ってなかったけど、知ってくれてるのかと思ってたよー」
「ごめん……」
「ま、知らないよねえ」檻本さんは気を取り直したふうに「ときどき平日がお休みになったりするけど、だいたい毎日活動してるよ。まあまあ忙しいんだよー」と教えてくれる。
「そっか」
「もしも暇だったとしたら?」
「え? あ、檻本さんがよければ、ウチで遊びたいなって思ったんだけど」
檻本さんが目を丸くする。「……どうしたの?博希くん。いきなり博希くんちに呼んでくれるの?」
「あ、変な意味じゃないよ?」
「変な意味でも、いいよ?」と檻本さんは笑っている。
「檻本さん、土日は忙しそうだし、帰宅部なら平日は会えるかなと思ったんだけど……吹奏楽部だったし」
「うん。帰宅部じゃないんだー」檻本さんは困り笑い。「でも博希くん、本当にどうしたの? 様子がおかしいよ? 大丈夫? ……わたしだよ? 博希くんが博希くんちに呼ぼうとしてるのは、わたしなんだよ? 誰かと間違えてなあい?」
「間違えてないよ」自分でもわかるが、俺の声は今、すごく力ない。頼りない。「檻本さんを呼ぼうとしてるんだよ」
「ふうん」檻本さんは俺の瞳を覗き込むようにしてから、「じゃ、お言葉に甘えて、遊びに行こうかな」と言う。
「んん? あれ? 部活は……?」
「今日は平日だけど部活お休みだったよ、よく考えたら」
「ふ、嘘だ」
俺がちょっと笑うと、檻本さんも「ふふふ」と笑う。「せっかく博希くんが誘ってくれたんだから、今日は部活休むことにするよ、わたし」
「平気なの?」
「平気。わたし、熱心な部員じゃないからー」気楽そうな檻本さん。「部活自体、いつでも辞めちゃえる心構えだよ? まだ辞めないと思うけど」
「そっか」
「なんでも話、聞いてあげる」と檻本さんが微笑む。「博希くんが望むなら、慰めてあげるね?」
「…………」
平瀬くんが登場して、昨日の今日だし、俺の様子とも併せて、檻本さんはたぶんなんとなく事情を察知しているんだろうなと思う。前置きをしなくて済むのは助かるし、ありがたいんだけど、申し訳ないなとも思う。俺は檻本さんを都合のいい女の子にしようとしている。凛音と決別した寂しさをすぐさま檻本さんで埋めようとしている俺は現金で姑息だ。だけどできるなら、許されるなら、檻本さんを都合のいい女の子の枠から抱き上げたいと思っている。
凛音と平瀬くんはというと、やはり毎度毎度平瀬くんが四組にやって来て何やら楽しげに談笑をしている。遠目で見ても仲が良さそうで、ビジュアル的な雰囲気でもお似合いという感じがする。ただ、不安なのは平瀬くんのネタがどれほど残っているかだ。あんなに一遍に垂れ流してしまうと続かなくなるんじゃないか? 平瀬くんの努力は認めるけれど、努力で練り出せる話題にも限度がある。もうちょっと抑え気味にするよう進言した方がいいだろうか? 余計なお世話だろうか?
放課後、帰りのガイダンスを終えて生徒をパラパラと廊下へ吐き出している四組の教室に、流れに逆らうように檻本さんがやって来る。「やっと放課後だねー。待ちくたびれちゃった」
「待ち遠しい時間はなかなか来ないよね」
俺が言うと、「待ち遠しいと思ってくれるんだー?」と檻本さんはにこにこする。「ねえ、博希くん。凛ちゃんは来ないんでしょ?」
「来ないよ」俺は凛音を一瞥する。凛音がこちらを見ている感じがしたのですぐに目を逸らす。「凛音が帰ったら俺達も帰ろっか」
言い方が露骨だったかなと反省したが、檻本さんはどう受け取ったのやら「わかった」とだけ素直に言う。
昨日の感じだとそろそろ平瀬くんが現れそうなんだけど……と廊下を眺めていると、やはり来る。凛音にまた「お疲れ様」なんて声をかけている。よほど凛音のことが好きなんだろうなと思う。俺も凛音にいろいろ気遣ったりしていたものだがそんなのはどうせ……いやいや、どうでもいい思考だ。いらない。凛音のことはもういいのだ。平瀬くんと何かを比較する必要も張り合う必要もない。ただただ、平瀬くんの熱心さがいつまでも続いてほしいとだけ思う。
昨日は平瀬くんを見送った凛音だったが、今日は平瀬くんといっしょに教室を出ていく。俺と帰るルーティーンは消滅しているのでそれでいい。もしかしたら平瀬くんの部活でも見学するつもりなのかもしれない。すればいい。なんだっていい。なんだっていい……などという無意味な付け加えもしなくて済むように早くなりたい。
「帰ろうか、博希くん」と檻本さんに言われ、そうだ、帰るんだったと思い出す。俺は席を立つ。
念のため訊いてみる。「檻本さん、部活休むこと、顧問に伝えた?」
「昼休みに伝えたよ」と檻本さんはちゃっかりしている。「お通夜があるからって」
「ありきたり……」
「だけど一番いい言い訳だよ~」
「まあ不審がられなかったならいいか」俺と檻本さんは教室を出て、階段を下り、生徒玄関で靴を履き替える。なんか、檻本さんと二人きりで行動することってあまりなかったから今までなんとも思わなかったけど、美少女を隣に置いているとものすごく緊張するというか……できるだけ釣り合わせたいから、やたらと自分の所作が気になって疲れてしまう。俺が単に檻本さんを奇跡的美少女扱いしているだけだからなのかもしれないけど、檻本さんはオーラもすごくて、不可視の圧にやんわり押される。「ねえ、檻本さんって、モテるんでしょ?」
「『モテるんでしょ?』って、別にモテないよー」と困惑される。「モテると思う?」
「え? うん。だからモテるんでしょ?って訊いたんだけど」
「普通じゃないかな」と檻本さんは控えめだ。「博希くんは、わたしがモテると思ってるんだ? つまり、わたしを可愛いって思ってくれてるんだね?」
「まあ……そうなるよね」
「わたしよりも凛ちゃんの方が絶対モテてると思うよー?」
「そうか?」
「凛ちゃん可愛いもん」
「そうなのかな」それがいまいち納得できないし同意できない。
「わたしは昔から凛ちゃん好きだよ」
「昔からって、中学校時代からでしょ?」
「うんっ。入学して、初めて目にしたときから」
「ふうん」まあ凛音のことはどうでもいい。檻本さんが凛音好きなのは前々から知っている。それより檻本さんのことを聞きたい。「中学校時代といえば、檻本さん、例の先輩なんだけど……檻本さんは先輩に対してどうなの?」
「どう、とは?」
「実は今も好きとか」
凛音の話だと、例の先輩は四股をかけていた極悪非道な男子中学生らしいのだが、檻本さんは唯一その先輩と正式に交際している。期間は一ヶ月ほどとのことだけれど。ただし、これは凛音から聞いた話なので、俺がそこまで把握していることを檻本さんは知らない。悟られないようにしないと。
「何の感情もないよ」と檻本さんは答える。「好きでも嫌いでもないし、いい思い出でも悪い思い出でもないし、どっちでもいいかなー」
「へえ。そんなもんなんだ?」
「そんなもんだよー。どうでもいい。わたしにとっては価値のない人だなあ」
「ときどきキツいこと言うんだから……」
「ふっふー。そのエピソードでわたしが重要だと思ってることは、それが凛ちゃんとの思い出だってことくらいだよ。あの渦中に凛ちゃんと居合わせられたことは、価値だよ。……いや、凛ちゃんがいたからこそ、わたしもあそこにいた、のかな?」
「うん?」
「なんでもなーい。とにかくあの先輩はどうでもいい存在だからー。気にしないで?」
「わかった」
だけど、そういう度を超えたクズの方がなぜかモテたりするから……と無駄に思うが、そんな所在もわからないよく知らない先輩について考えていても栓などないのだった。
そうこうしていると自宅に到着する。俺はまた物静かに玄関の戸を開けて、こっそりと檻本さんを通し、それから母親に帰宅を告げる。檻本さんを部屋に入れ「飲み物持ってくる」と宣言する。「何が飲みたい?」
檻本さんは「お構いなくだよー」としか言わない。
でも六月になって気温も上がってきているし、徒歩で下校しているとメチャクチャ喉が渇いてくる。俺でさえそうなのだから、檻本さんもカラカラなはずだ。リビングへ行き、とりあえず麦茶を持ち出す。
部屋に戻ると、檻本さんはベッドの下など覗いておらず、律儀に立って待っている。そういえば座ってていいよと言うのを忘れた。いや、言うのがオーソドックスなマナーなのかはわからないけど。
俺は取り繕うように「座っててくれてよかったのに」と言う。だけど俺の部屋には凛音んちのようにソファがないし、床に腰を下ろすことしかできない。もしくはベッドか。せめて大きめのクッションぐらい買っておくべきだろうか? そうすれば凛音……じゃないや。凛音はもう来ないんだった。もしもまた檻本さんが来てくれたときにちょっとは役立つだろう。部屋の見映えもよくなりそう。俺の部屋はかなり殺風景だ。
檻本さんは立ったままだ。「博希くんの部屋、なんだか可愛らしいね」と微笑ましげにする。
「掃除はしてるけど、なんとなく汚ならしいでしょ?」
「ううん。子供時代の面影が残ってて、男の子の部屋~って感じがするよ」
「ふうん?」俺にはあまり伝わらないニュアンスだ。「檻本さん、男子の部屋って入ったことある?」
「どうでしょー」とはぐらかされる。
まあ最低でも先輩の部屋にはきっと立ち入っているはずだ。俺は追及せず「お茶飲んで」と持ってきたものを差し出す。
「ありがとう」
「……で、何しようか」
「何も考えずに呼んだの?」と和やかに問われる。「なんでもいいよ。博希くんの好きなこと」
「……とりあえず報告したいことがあるんだ」煩わしいのでさっさと済ませる。「凛音は平瀬くんと付き合うから、俺はもう凛音には近づかないよ」
檻本さんは察しているんだとばかり思っていたけれど、必ずしもそういうわけじゃなさそうで、目を少しだけ見開く。「そうなの?」
「知らなかったの?」
「知らないよー。ホントに付き合うの? 付き合うって言った?」
「付き合うと思うよ」
「思うよって、曖昧だね」と言われる。
「両思いっぽいから、いずれ付き合うんじゃない?」
「両思い?」檻本さんは唇を尖らせる。「そうなんだー。へえー……なんかつまんないなあ」
「つ、つまんないって……何が?」
「ん? ううん。凛ちゃんは平瀬くんが好きなんだ? 平瀬くんって、昨日のあの子だよね?」
「うん。可愛い可愛いって大絶賛。一生懸命なのが可愛くてツボみたい」
「博希くんの方が一生懸命だったじゃない。凛ちゃんに対して」
「いや……」え、やば。なんか、そういうふうに言われると泣きそうになるんだけど。檻本さんは急にビシッとはっきり言ってくるから油断できない。俺は檻本さんに悟られないよう微妙な角度で天井を仰ぎ、涙目になりかけるのを落ち着ける。やり過ごす。「……ごめん。ありがと、そんなふうに言ってくれて」
「ううん」檻本さんは空気を読んでくれて、もう何も言わない。しばらくして、数分くらい経って、ようやく「がっかりしたなあ」とつぶやく。
「あ、ごめん。がっかりした?」
「あ、ううんううん。違うの。博希くんにじゃないよ? なんでもない。こっちの話」
「…………」なんだろう? がっかりした? 俺にじゃないんだとしたら、凛音に? あるいは平瀬くんに? それとも……?
「まあわかった。わかったよ」檻本さんは両手を広げる。「来ていいよ、博希くん。もうシャワーも浴びてないし、匂いのケアもしてないし、なんにも準備してなくて、ものすごく申し訳ないんだけど……」
「え、いや……」話が早い……じゃなくって。「ううん。や、ダメだよ。今日は話がしたくて来てもらっただけだし……」
「ホントはこういうつもりだったんじゃ、ないの?」
正直、もしかしたらというか、もしかしたらどころじゃないもっと低い確率でならありえるかもと思わなかったわけでもないけれど……。「いやいや、そんなつもりなかったよ。夢にも思ってない」
「つもりはなかったけど、興味はあるでしょ?」檻本さんはいつもと同じ笑みを浮かべているだけのはずなんだけど、俺のフィルターを通すからか、なんだか異様に艶かしく映る。「ホントにいいよ?」
「や、げ、ゲームしない?」
俺は檻本さんに背を向け、棚に仕舞われているはずの携帯型ゲーム機を探す。凛音に誘われてけっきょく買ってしまったが、あんまりプレイすることもなく棚に封印されたゲーム機……。
背中に柔らかいものが当たり、うわ、絶対檻本さんの胸だ!とおののいている間に体に腕を回され、背後から檻本さんに抱きしめられてしまう。俺は呼吸が止まる。捕食前の毒を注入されたかのように身動きが取れなくなる。しかも檻本さんは勉強机に隠しておいたはずの未開封のゴム箱をいつの間にか取り出して手にしており、俺に見せてくる。「興味あるじゃないのー。博希くん」とイタズラっぽく言われてしまう。「こんなの買って、いけないんだー。誰に使うつもりだったの? 凛ちゃん? でもけっきょく使ってないみたいだね。よかった~」
「よ、よかった、って……」
「わたしが博希くんに好意を持ってること、博希くんだってわかってるはずだよね? だから『よかった』なんだよ」
「…………」
「嫌だったら拒否してね?」と檻本さんは言い、俺の首筋に唇を当ててくる。たぶん唇だ。凛音のよりも薄いけれど、表面の感触は同じだ。「博希くんに無理矢理するのは、わたし、望んでないから」
「…………」
拒否しなければ、とすぐ思う。でも、なんで? 拒否する必要性が皆無だった。しかも俺の背後にいるのは檻本京架さんなのだ。俺の理想であり、俺がもっとも渇望している相手だ。拒否する理由を探す方が困難だった。だけど、しかし、俺の手先や膝はぶるぶる震えていて、その震えがやがて全身を微動させて檻本さんにも伝わる。
「安心して」と檻本さんは小さく小さく囁く。「優しくするし、博希くんはわたしに全部任せて? なんにも不安なことはないよ。落ち着いて」
檻本さんの甘い声を聞いていると、脳髄が蕩けそうになる。檻本さんが正面に回している手でお腹を撫でさすってくれると、だんだんと震えも和らぎ、緊張も霧散してくる。「檻本さん……」
「博希くん、こっち向いて?」
言われるがままに方向転換してしまう。檻本さんの方に体を向けると、檻本さんは満足げに微笑み、俺の頭をよしよし撫でてくれる。それからキスされる。檻本さんのキスはものすごくゆっくりで、唇を当ててから、当てたままそれをやんわりと動かす。俺の唇の上を檻本さんの唇がゆっくりと形を変えながら這う。キスなんてされたらダメなのに……と無意識的にぼんやり思うけれど、檻本さんのキスが濃厚で気持ちよすぎて思考力を奪われる。上手すぎる。きっと誰かとしたことがある……。
「ん、う!?」
ゆっくりとだが、雑草がコンクリートを割り開くみたいにして、俺の唇も割られる。檻本さんの舌が入ってきて、また緩慢な所作で俺の口内をねぶる。動きが忙しなくないから、感触のひとつひとつが記憶によく残る。刻み込まれる。
「はあ、ふ……わたしもドキドキしてきちゃった」
檻本さんは俺の手を取り、それを自分の豊満な胸へと導く。何に触れたのかと思うような迫力で、俺はそれを衣服越しではなく直接確かめたいと思ってしまう。
「っ!?」
檻本さんも俺の胸板に手を当ててくる。指先でポイントを探り、少し力を入れて押してくる。俺は電流を流されたかのように脱力してしまう。檻本さんという支えがなかったら座り込んでしまっていたかもしれない。
「博希くん、ベッド行こうか」
「……うん」
「おいで」檻本さんに抱き寄せられ、いっしょにベッドに転がり込む。「服、脱ごうね」
檻本さんがボタンを外して俺のカッターシャツを脱がそうとしにかかるので、俺も檻本さんに対して同じようにする。「見せて」
「わたしはまだ見せてあげなーい」
檻本さんは俺のカッターシャツを強引に剥ぎ取り、次いでズボンに手をかける。チャックを下ろして脱がしてしまう前に、ズボン越しに俺を触る。手の平で撫で回してくる。ただ乱雑に動かすのではなく、押すか押さないかのような絶妙な圧をかけつつ柔らかく触ってくれる。
俺はとてつもなく獰猛な声を漏らして悶えてしまう。そんな程度の刺激だけで俺はおかしくなってしまいそうだった。「あ、だ、ダメ! 凛!」と叫んでしまい、あ、やべ、とすぐ気付き固まる。
檻本さんの手もさすがに止まり、苦笑される。「凛ちゃんじゃないよ。京架ちゃん」
「ごめん」
俺は申し訳なさすぎて深々と頭を下げる。でも重すぎる罪悪感のせいで高揚感が散る。いや、嘘だ。凛音のことを思い出してしまい集中できなくなってしまっているのだ。俺は凛音以外の子と何をしているんだろう?と反射的に思う。凛音はもう俺とは無関係になってしまっているのだが、それでも俺の目の前に凛音以外の女子の顔があることに強い違和感を覚えてしまう。
「大丈夫」と檻本さんは優しい。「続き。しよう?」
「ごめん……」
「わたしは気にしないよ」と檻本さんは本当に寛大だ。「わたしは凛ちゃんになりたいくらい凛ちゃんのこと好きだから、間違えられても光栄なくらいだよ? いっそ、わたしのこと、凛ちゃんって呼んでくれてもいいよ?」
「ごめん」と俺は謝るしかない。「やっぱできないかも。ごめん」
「……無理そう?」
「うん……」
「わかったっ」檻本さんは俺の頭を軽く撫で、ベッドを降り、カッターシャツを拾ってくれる。俺に羽織らせてくれる。「強引な感じになっちゃってごめんね」
「や、檻本さんはなんにも悪くないよ」
「ううん。博希くんが迷ってるの、ホントはわかってたから」
「…………」
名前さえ呼び間違えなければそのまま最後までしてしまえたと思うんだけど、俺は口惜しさよりも安堵感を覚えている。檻本さんとしてしまわなくてよかった。少なくとも、俺の頭や体にまだ凛音がいる間は、俺はそれを上書きするような真似はしたくない。したくないんだと知ってしまう。バカだな、意味ない……と思うのだが、そういったものを超越して『したくない』のだからどうしようもない。
「凛ちゃんとのこと、ちゃんとしてね」と檻本さんに穏やかに言われる。
「……ちゃんとって言われても」
「好きなんでしょう?」
「好きとかじゃないんだけど……」
「でも、あそこで凛ちゃんの名前呼んだってことは、やっぱり凛ちゃんと何かしてるよね?博希くん」
「…………」そりゃ見抜かれるよな。「ごめん」
「ううん。いいんだけど……凛ちゃんって呼び間違えないようにするか、凛ちゃんと仲直りするか、博希くんにはどっちかをちゃんとしてほしいかなーって」
「…………」
「呼び間違えないようにしてね?っていうのは、凛ちゃんへの思いをきっぱり断ち切ってわたしを見てね?ってことだから」
「うん……」当たり前だ。呼び間違えってのはマジで最低すぎる。「檻本さんは、俺のことどう思ってるの?」
「秘密~」と言われる。「でも、優しくしてあげたいし、優しくしてもらいたいし、話してると落ち着くし、ドキドキもするよ」
「…………」
「ドキドキって、変な意味でもだよ?」
「そうなんだ……」
「わたし自身ちょっと迷ってるっていうか、混乱してるところがあるから……言えないんだけど……はっきりしなくてごめんね? 翻弄したいわけじゃないよ?」
「わかったよ」言えないなら聞かない。「今日はいきなり呼んでごめん。来てくれて嬉しかったよ」
「ううん」檻本さんはふるふる首を振る。「わたしはまだ、続きできるよ?」
「それは……ごめんなさい」
「ふふ。じゃ、ちゃんと考えてね?」
考えなければならない。だけど既に暫定恋愛は解消されていて、俺にできることはゆっくりと凛音を忘れて、凛音のいない日常を獲得していくことだけだ。凛音と距離が出来るたびに俺の内側に傷が増えていくような、そんな言い知れぬ恐ろしさに駆られるけれど、いつかその傷もまっさらに癒えることになるはずだ。そうしたら俺はもう一度、檻本さんをこの部屋に呼びたい。