彼女がデスノートを拾ったら
夢と現を行ったり来たりしていた金曜五限の英語の時間。
「ねぇ、松田くん」
と澄んだ美声に似つかわしくないクソモブ陰キャの名前が呼ばれたので、反射的によだれをすすって首を二百七十度右に向けた。
隣に坐する窓際の令嬢が、凛とした面持ちで俺を見て言う。
「私、昨日デスノートを拾ったの」
新世界の神、誕生の瞬間である。
寝ぼけた頭を再起動して、事態の把握に全力を注ぐ。
生まれる次元を間違えた、というのが男子の間で定説となっている美少女、深緑碧の手には、中二病感ましましのフォントで「DEATH NOTE」と表紙に書かれた黒いノートが握られていた。
さすがに突拍子のない告白であると自分でもわかっているためか、彼女は恥ずかしそうにノートで口元を覆っていた。
(……殺人ノートが気になり過ぎて、かわいい行動を全く愛でられない……)
ふう、と深呼吸をして、一旦気持ちを落ち着ける。
期末考査で常にトップ10に入る才女が授業中に一発ギャグをかましたという可能性と、彼女が本当にデスノートを拾った可能性。
この二つを天秤にかけた時、漆黒の双眸に射貫かれて心乱れている俺が、後者の方が重いという判断を下すのはもはや自明の理であった。
それに、よくよく考えればデスノートの取り扱い説明はすべて英語で書かれているので、彼女が英語の授業時間に英語が書かれたノートを開いていても何ら不思議はない。
——————いやある。
落ち着け、まだあわてるような時間じゃない。
「……その、デスノートって、あの名前を書かれた人が死ぬっていう?」
「うん、だから自分の名前を書くべきなのか、すごく迷っちゃった」
「書かなくて正解!」
深緑さんが自分の持ち物にきちんと名前を書く真面目な学生であることは実に解釈一致だが、この世には自分の名前を書くべきではないものがあるという良い教訓になったことだろう。
そう、トレーディングカードゲームのレアカードを手に入れたからといって自分の名前を書いてしまえば、有名人のサイン入りカードとは違ってその価値は暴落するのだ。
「もしかして、死神とか見えたりするの」
「間抜け面の死神が一人」
それは俺の顔をガン見して言う台詞ではない。
「まさかとは思うけど、実際に使ってみたりした?」
「日記として使ってみようかな。『今日は、松田くんとおしゃべりしました』」
「お願いやめて!」
俺の命はまさに風前の灯火と言って差し支えない状況であった。いや、彼女が名前を知る全ての人間は、彼女の気分次第であっさりと三途の川を渡ってしまう状況なのだ。
(……もちろん、それはノートが本物であった場合の話しだが)
九十九パーセント冗談であろうが、もしかしたら本物かもしれない、という一パーセントの可能性をどうしても捨て去ることができない。というのも、彼女の顔があまりにも真剣そのものであったからだ。
ここは、強硬手段に出るべきであろう。
「深緑さん。そのノート、少し見せてくれないか」
何が見えても驚かない、という覚悟を決めながら、黒髪の君に手を伸ばす。
すると、「えっ!?」と上ずった声を上げた彼女の耳が赤くなり、泳ぎ出した瞳をそっと伏せた。
「それは、恥ずかしいかも……」
——————瞬間、俺は戦慄した。
彼女の言葉の裏には、ノートに既に何かが書かれていることが含意されていた。すなわち、彼女はもう黒いノートを使っているのだ。
一パーセントにも満たなかったノートが本物である可能性が急上昇する。
もし一発芸の為の偽物ならば、表紙だけ装えばよいからだ。
(まずい。非常にまずいぞ)
もし彼女が手にしているノートが本物であるならば、世界の命運をかけた知能戦が公立高校の教室の一隅で繰り広げられている、ということになる。
負けられない戦いを前に思わず唾を飲み込むと、ゴクリと動いた喉ぼとけにと関心を抱いた彼女の視線が吸い込まれた。
「……じろじろ見られると恥ずかしいんだけど」
「ご、ごめん」
落ち着け、俺。落ち着くんだ。こんなラブコメみたいなやり取りで最高の気分になっている場合ではない!
何とか深緑さんのノートが本物であるかどうかを確認し、もし本物であるならば無理やりにでも処分しなければならない。
しかし、一体どうすれば……。
こんな時に頼りになるのが、IT時代のドラえもんことグーグル先生である。
ポケットからスマホを取り出し
『隣の席 異性 ノート 見る方法』
で検索検索~っと。
その瞬間、俺は何者かに肩を掴まれた。
喩えると、水の中に一分しか潜っていられない男が、限界一分目にやっと水面で呼吸しようとした瞬間! グイイッ・・・とさらに足をつかまえられて水中にひきずり込まれる気分に似ていた。
振り返れば、そこには満面の笑みを浮かべた英語の教師が立っていた。
「没収♡」
* * * * * *
「馬鹿野郎ーっ!! 松田、何をやっている!? ふざけるなーっ!!」
授業中にこってり怒られて、授業後もしっかり説教されて、放課後になってもばっちり怒鳴られて、反省文をぎっちり書いて職員室に持って行けば、薄っぺらいとばっさり切られ、お叱りばっかりの時間を過ごした。
へとへとになりながら人の気配のしない廊下を進み、教室に戻る。
灯りが消え、時計の音だけが響く静かな教室。
そこに、影が一つ。
斜に差し込む西日に照らされた少女は神々しくもあり、けれどもその小さな背中は暗い陰を纏っていた。
机の上で頬杖を突きながら、窓の向こうを見詰める瞳。そこには何が映っているのか。
教室の入り口で思わず立ち止まってしまう程、深緑碧は美しかった。このまま中に入らなければ、永遠にこの絵画を眺めていられるのかもしれないと思うくらいに。
しかし、それは一瞬の出来事に過ぎなかった。
ふっと、少女は顔をこちらに向けた。
微かに揺れた黒髪の隙間から、幽かな笑顔がこぼれる。
彼女は席を立ちあがると同時に右手でさらりと前髪を直し、「松田くん」と俺の名前を声に出した。
「……いやぁ~、あの先生本当に説教が長い」
「ごめんね。私のせいで」
「いやいや、スマホは完全に自己責任だから」
ふと、自分がスマホを没収されてしまった理由を思い出す。それは彼女が所有している一冊の黒いノートのためであった。
雰囲気に飲まれてうやむやにしてしまいそうになったが、そうは問屋が卸さない。
俺は、彼女の正体を暴かなければいけないのだ。
「この後、時間あるかな。少し、付き合ってほしいんだけど」
「えっ!?」
驚きの声を上げて、彼女は俯いてしまった。毛先を手櫛で梳かし出したことからも、彼女の動揺が見て取れる。
深緑さんはあのノートに関して間違いなく隠し事がある。彼女はそれを暴かれまいと必死になっているのだ。
「あ、空いてるけど!?」
「じゃあ、一旦帰ってから河川敷に来てほしいんだ。詳しい場所は……、電話したいから、ライン交換しよう」
「うん!」
そう、決着の舞台は河川敷。ここで、全てが決まるのだ。
秋の初め。夏の暑さが残るこの時期であっても、夕暮れの河川敷はそれなりに肌寒い。
厚手のパーカーに身を包み、のんびりと流れる雲を眺めて時間を潰していると、ポケットの中のスマホが震えだした。
「もしもし?」
『ま、松田くん?』
「うん」
『深緑です。もうすぐ着きます』
「はいはい。待ってます」
もうすぐ着くのなら電話する必要ないのでは、と思いながら待っていると、しばらくしてこちらに小走りで近付いて来る人物が見えた。
灰色のセーターに落ち着いたピンク色のロングスカートを纏った深緑碧は、名前とはかけ離れた暖色系の秋服を見事に着こなしていた。
「お待たせ」
少し息を切らしていた彼女は、深呼吸をして息を整える。
遅れそうになって急いでくれたのだろう。待ち合わせの定番と言ってしまえばやぼったいが、ここは無難な返しをしておくべきだろ。
「私服すごく似合ってる」
(大丈夫。いま着たとこ)
擦り尽くされた返しに驚いたのだろう。目を丸くした深緑さんは髪を手で直しながら「ありがとう」とはにかんだ。
そこで会話が途切れた。
沈黙の中、両手の指先を向かい合わせて困ったように押し合わせている様子から察するに、遅れてきてしまったのが相当気まずいのだろう。
ここは直ぐに本題に入るとしよう。
「それで、例のノートだけど」
「うん。ここに」
彼女が手提げカバンから黒い何某かを取り出そうとしたので、俺は慌ててその手を抑えた。
「こんなところで取り出しちゃ駄目だ!」
「ごめん」
咄嗟の行動とはいえ、大声を出しながら腕を掴むという行為には恐怖しか感じないだろう。俺は直ぐにその手を離した。
「いや、俺もごめん。全然気持ちが落ち着かなくて」
「……松田くんも緊張してるんだ」
「そりゃあね。とりあえず、河川敷に行こう」
どこで誰が話を聞いているかわからない。道中、デスノートに関する話題を慎重に避けつつ当り障りのない自分の趣味や好きなものの話をした。
河川敷の中でも、人気の無い場所まで来た。ここでいいだろうと、俺は気持ちを切り替えて深緑さんの方を向いた。
「早速だけど、ノートを出してほしい」
「……本当にやるの?」
「ああ。ノートを燃やす」
例えノートに触れることができたとしても、死神がその場にいなかったらそのノートが本物かどうかはわからない。例えノートに最近死んだ人間の名前が書いてあったとしても、真実はわからない。
だが、デスノートには確かな判別法が存在している。
それは燃やすこと。デスノートは燃える時、青い炎を上げるのだ。
深緑さんは、ノートの切れ端を砂利の上に置いた。俺は懐からチャッカマンを取り出し、その引き金を引いた。
先端に灯ったオレンジ色の火がノートの切れ端を焙っていく。
(これで、真実が明らかに……)
ノートは燃えた。青い炎に包まれて。
俺の手は震えだし、手からチャッカマンを取り落してしまった。
過去の記憶を必死に漁る。そう、化学の授業だ。炎色反応。確か、青い炎を上げる金属があったはずだ。ノートを全て特殊な金属で作り上げれば、その切れ端が青く燃えても何ら不思議はない。
……そんな馬鹿なこと、あるはずがない。
一発芸のために、特殊な金属を使ってノートを作る女子高生がどこにいるというのだ。
深緑碧。彼女が持っているノートは本物だ。
そして、彼女は既に、このノートを使っている。
人を、殺しているのだ。
「どう? 松田くん。何かわかった」
俺の肩口から燃焼状況を眺めている少女の存在に、俺は恐怖した。何かわかったと答えるのが正解なのだろか。もし俺が確信に至ったと知られれば、俺の命はどうなる?
「いや、よくわからなかった」
「そっか」
やり過ごせたのか? 今すぐ逃げ出したい。馬鹿! 逃げ切れるはずがない。地球の外に出たって、名前を知られていればおしまいなのだから。
「あのさ。せっかく火があるんだし、花火やらない?」
そう言って、彼女はカバンから花火を取り出した。
花火? 秋に花火だと? それに、まだ火は沈んでいないぞ。俺の命は花火のように儚いとでも言いたいのか?
少し気恥ずかしそうに笑う少女の真意を、俺は測りかねていた。
「折角だし、やろうか」
内面の恐怖を悟られてはいけない。上手くやれ。上手くやるのだ。
それから、俺達は花火をした。
火を付けると色とりどりの光を放つ花火。その輝きに無邪気な笑顔を浮かべる少女は、天使にも、悪魔にも見えた。
太陽は地平線の向こう側に消え、闇が世界を覆い出す。飛び散る火花の隙間で、白く滑らかな少女の肌が闇の衣ともつれ合っていた。
「これで最後。線香花火」
寂しそうな表情を浮かべる少女と、紙の先の小さな火種を分け合う。
手元の閃光に当てられた目には、闇の世界の中に居る二人しか映らなかった。
少女の瞳の中で、今にも消えそうな輝きが揺らめいていた。
「きれいだね」
「きれいだ」
彼女に死神の祝福が宿っていることを、俺は未だに信じ切れずにいた。
「深緑さんは」
「アオ」
彼女の声に色を付けるとしたら、アオがぴったりだと、そう思った。
「深緑って変な名字でしょ。だから、その、碧って呼んでほしい」
「碧は、これからどうするの?」
君は、その力で何をする?
「これから、これから!? そ、その、何も考えてないけど、私はまだ」
ふっと光が消え、辺りは夜の闇に包まれた。
「終わっちゃったね」
今、彼女はどんな表情をしているのだろう。
「あれ?」
碧が驚きの声を上げる。視界の端で、青い光が揺らめいている。
「ノートが!」
彼女が放置していた黒いノートがめらめらと燃えていた。青い光に照らされた少女の顔に動揺が走る。
——————計画通り。
ノートに火を付けたのは俺だ。彼女が花火に気を取られている内に、こっそり火を付けていたのだ。
「消さなきゃ」
「碧!」
俺は彼女の手を掴んで引き留める。
驚いて振り返った少女の肩を、俺はしっかりと両手で押さえた。
「いいんだこれで。あんなもの、無い方がいい」
「でもあれは」
困惑と未練。彼女がノートに向ける眼差しが、俺は許せなかった。「碧」と祈るように名前を呼ぶと彼女の目はしっかりと俺の顔を見た。
「あんな力が無くたって、俺たちは大丈夫だ」
人を殺す力。そんなものがなくとも、この世界はきっと上手くいく。
「……それって、どういうこと」
碧にはまだ、罪の意識というものがないのかもしれない。だが、彼女が背負う業はあまりにも重い。
「俺も一緒だ。俺も背負うよ。だから碧、あのノートがない未来を一緒に歩こう!」
青い炎が、視界の端で小さくなっていく。思ったことをとにかく喋っただけだったが、彼女を引きとどめることができた。
これで良かったのだ。
碧はしばらく呆けた顔をしていたが、やがてもたれかかるように俺の胸に顔を埋めた。
不意の急接近に鼓動が高鳴った。心音が聞こえないよう呼吸を抑え込んでいると、「いいよ」と彼女が呟いた。
「私も、松田くんと一緒がいい」
そう言った彼女の肩は震えていた。泣いているのだろうか。顔が見えないので真偽は確かめようがない。だが、神の力を諦めた彼女を、俺は讃えてやりたい気持ちでいっぱいだった。
よく頑張ったと言葉にする代わりに、俺は彼女をしっかりと抱きしめた。
細くて、柔らかい。それでいて、確かさ存在感と温もりがある。
これが、生きているということ。これこそが、命の輝きだ。
* * * * * *
とまあ散々盛り上がったものの、冷静に一晩考えれば、デスノートなど現実に存在していないことは明らかだった。
ノートが青い炎を上げたのは、科学の知識を使っていい感じに何とかしたのだろう。
思い返せばめちゃくちゃ恥ずかしいことをしてしまった。正直セクハラで訴えられても仕方ないレベルだ。
ふうっと深く息を吐いていると、碧が教室に顔を出した。
「おはよう……」
昨日あんな恥ずかしいことがあったためだろう。彼女は俺とろくに目を合わせようとはしなかった。彼女の緊張がこっちにも伝わってきたためか、心臓の音がやけに耳に響いた。
「おはよう碧」
俺の返事にびくりと体を震わせると、碧は「えへ、えへへ」と生まれる次元を間違えたと称賛されるほどの評判が心配になるような声を出しだ。
彼女はぎこちない動きで机に鞄を置き、震える手で椅子を引いて座った。
「昨日のことなんだけどさ。あれって、そういう意味で良いんだよね」
何がどういう意味なのかさっぱり分からないが、俺がすべき行動はたった一つだ。
俺は椅子を引いて立ち上がり、その場に正座すると、丁寧に丁寧に頭を下げた。
「昨日は誠に申し訳ございませんでした! 雰囲気に任せて調子に乗りました。全部忘れていただけると幸いです」
他の生徒の目がある中で堂々と謝ればきっとうやむやにしてくれるに違いないという淡い期待を抱いて床にこすりつけた頭を上げると、彼女は光の無い目で俺を見下ろしていた。
いや、見下していた。
その目はまさに深淵だった。深淵がこちらを覗いていたのだ。
「忘れる? ふーん。そっかそっか」
彼女は俺から一切視線を外すことなく、鞄の中から見覚えのある黒いノートを取り出した。