8.「様」
8.「様」
ヴィーナはライカの去った方向を気にしつつ、そっと近寄ってきた。
「あ、あの……。大丈夫、でしたか?」
「ん、お、おう……。ありがとな……。よくわかんないけど、黙っててくれて……」
「ライカさんには申し訳ないことをしましたが……あ、貴方を放っておくこともできなかったので。モーシュ様もお許しになるでしょう」
話している途中にもヴィーナは何かが気になったようで、カインの正面で膝を地面につけた。まだ十歳にも満たない少女であろうに、その仕草は洗練され、歳上の美女のようにも思える。
事実、ヴィーナはオドオドと消極的ながらも、大人びた女の子だった。
ころころと表情を変えるライカとは違い、目が合うとゆるりと微笑んでくれる。肌を一切見せないような修道服も、その大人びた印象に影響しているのだろう。
白く珠のような柔肌に、ぱっちりとした瞼と青い瞳、ピンク色の映える唇。頭巾から栗色の髪の毛がちらりとのぞく。
将来的には、あの絶世の美女モーシュですら凌ぐ美人となる。これまで女っ気などひとつとしてなかったカインだったが、この時ばかりは見惚れる他になかった。
「あ、あの……?」
「……は。えっと、何?」
「そ、そんなに見つめられると……。ちょっと集中できなくって……。何か気になることがありますか……?」
「い、いや、べつに……。ちょっと、あれなだけで……」
「?」
もごもごとした曖昧な言い方に疑問を持ったのか、ヴィーナは驚くほど真っ直ぐに見つめてくる。地面に膝をつけた姿勢も相まって、前のめりに覗き込まれているような気さえする。
まだ十歳にも満たない女の子だというのに……。気まずくなったカインは、それ以上詳しく付け加えることなく、そっと視線を外した。
ヴィーナはなおも不思議そうに首を傾げていたが、そのおかげで集中できるようになったらしい。祈るかのように両手を合わせてから、ボソボソとつぶやく。
「”我らが教祖様のお導きをここに――マイルド・ヒート”」
するとその言葉は、魔法を呼んだ。
ライカの詠唱とのあまりの違いに呆然としていたカインは、体が火照っていくのを感じた。
はたとして体を見渡すと、”ウォーター・ストライク”の余波でびしょ濡れになっていたのが、あっという間に乾いていく。
「……! すげえ……!」
「まだじっとしていてくださいね。――”我らが教祖様、御身のことだまで彼の傷を癒してください――ヒール”」
続けて紡がれた詠唱が、全身に降りかかった気がした。
靄がかかったような頭も、ところどころに違和感があった上半身も、痛みの走っていた足首も、全てがスッキリする。
「ふぅ……。ど、どうでしょうか……。痛みの方は……?」
「ああ……! うん、ばっちり大丈夫! すげえのな、今の!」
「いえ、そんなことは……。モーシュ様に仕える身として当然のことですし――」
「いいや! なんというか……こんな当然があってたまるかってくらい、すげえことだよ!」
全身を包む爽快さにテンションが上がり、勢いあまってヴィーナの肩を掴んでしまう。
すると、彼女の体がびくりと硬直したのが手のひらから伝わり、カインは慌てて手を離した。
「うっ……と、悪い」
「いえ……。いえ……」
それまで呆然と目を見開いていたヴィーナは、深く俯いてしまった。
それから、何度も何度も、ゆっくりと首を振り続ける。しまいには、雫がぽたりと地面で跳ねる。
「お、ええ? な、泣いてんのか……なんで……悪い、なんかしちゃった? 肩を怪我してたりとか……」
わたわたと問いかけるも、ヴィーナはやはり首を振り続けるばかりで……。ぐしぐしと袖で目元を拭ってから、顔を上げる。
「泣いてません」
「嘘つけ!」
「泣いてません……っ」
「あ、あくまで言い切るつもりだな……。別にそれならそれでいいけどよ」
嘘を突き通す時の癖なのか、ヴィーナがじっと見つめてくる。子ども特有のつぶらな眼差しに、カインはなんとなく気恥ずかしくなり視線を逸らした。
「俺はカイン。君は……」
「ヴィーナと申します。カイン様」
「よろしくな、ヴィーナ……。……様?」
「私に様付けは必要ないですよ?」
「い、いや……。それは俺のセリフなんだけど……。なんで様?」
「そうお呼びしなければと思ったからです」
随分と直球で答えられ、カインは反論の仕方を見つけられなかった。代わりに咳払いをしつつ、「そ、そうか」と納得した態度を見せておく。
涙の晴れたヴィーナは、にこりと満面の笑みを浮かべていた。
「ところでさ。モーシュ様に仕えている……とかなんとかいってたけど、だからすげえ魔法が使えるのか?」
「そういうわけではありませんが……」
ヴィーナが不思議そうに見つめてきているのに気づいて、カインもまた首を傾げた。
「うん? 俺、なんか変なこと言ったか?」
「え、えっと……。確かに、”治癒の魔法”は色んな意味で難しい魔法ですけど……カイン様、それ以上のことをされてましたよ?」
「俺が? ……いつ?」
「先ほど、”錯覚系統”でライカさんを……。――もしかして、無自覚だったのですか?」
「へ……?」
「たしかに、そういう天性の才能に振り回される人たちがいると、モーシュ様から聞きはしましたが……。確か……”ユニークヒューマン”」
ぶつぶつとつぶやくヴィーナの早口を聞き取れはしたものの、外国語を聞いたかのように一切理解できない。
カインは目を点にして硬直し……ずい、と近寄ってきたヴィーナにのけぞった。
「うぉっ。な、何……?」
「私、カイン様が気になります。このまま連れ帰りたいくらいに」
「え……え?」
「しかし私は、モーシュ様に仕える身。こと今回に至っては、”巡礼”によりベッテンハイム家にお邪魔している最中。勝手はできません」
「はあ……」
「ただ、こうしてお買い物中であれば、きっとまた会うことができます。カイン様は、いつもどこで何をされているのでしょうか?」
「俺は……」
カインは答えようとして、言葉が続かなかった。
それもそのはず。カインとして生きることとなったのは昨日の話。何もしていないという自覚すらなかったくらいである。
寝床となる場所も一応はあるが、ライカのような勝ち気な子はともかく、ヴィーナのような大人しめな女の子が足を踏み入れていい場所ではない。
すると必然的に、彼女の思いを否定することになるが……それはとてももったいない気がした。
何しろ彼女は、魔法に詳しい。不可解な状況を一発で理解したのである。しかも優しい。
”スラム人”というレッテルを貼り付けられている中で、今後も彼女のような人間が現れるとは限らない。むしろ、絶対に現れないとさえ断言できる。
ただ、そうとなるとどう言ったものかわからず……。
まごまごとしていると、ヴィーナは何やらハタとして呟いた。
「あ……。でもそうなると、お買い物はしなくちゃいけなくって……。カイン様とお話しする時間が短くなってしまいます……」
むむむ、と可愛らしい顔で顰めっ面をするヴィーナ。あまりの愛らしさにカインは笑いそうになったが、そこをグッと堪えて彼女の決断を待つ。
「ではこうしましょう。この路地裏で、明日のお昼ごろにお会いしましょう。魔法のこともたくさんお教えしますから」
「あ……。でも、俺……」
「大丈夫です。モーシュ様にしっかり許可をいただきますから」
勝手ができないなら、許しをもらえることはないんじゃ? どこまでも真っ直ぐで正直なヴィーナに呆気に取られていると、彼女はそっと立ち上がった。
「では、また明日。お日様がてっぺんに登った時、ここでまた会いましょう。――モーシュ様も、あなたにならば時間を割くこともお許しになるはずです」
「それって、どういう……」
カインが戸惑いながら問いかけると、ヴィーナは美しく微笑んだ。
「いずれわかります。――では、また明日。”預言の子”カイン様」