6.モーシュ様
部屋が水浸しなのは事実。
その原因となったのが、”ウォーター・ショット”なのもまた事実。
決して夢ではないことは、頬をつねったり、床に溜まった水をぺちぺちたたいたりして、何度も確認した。
加賀美和平はともかく、異世界の住人である少年”カイン”が魔法を使えても、何ら不思議ではない。頭を捻り、そういった理屈と道理も見出した。
そうしてカインが導き出した答えは、先の”ウォーター・ショット”はたまたま使えたということだった。
そのたまたまをもう一度引き出すため、何度も詠唱を繰り返したのだが……当てが外れた。
自警団少女ライカが口ずさんでいた”ウォーター・ショット”の前の文言を口にしてみても、何ら効果をもたらさなかった。
「どうすりゃできるんだよ、魔法……」
家に篭りっきりでは気が狂ってしまいそうで、カインは外に出ていた。自然と人目のある場所をさけ、河川敷へと足を運ぶ。
あいも変わらずひどいにおいで、魔法をどうにか捻り出そうにも、考えが邪魔されてしまう。
「また街に行ってみるか……。本屋があったら一番だけど、日本語で書かれてる訳ねえし……。ってか、またあの恐ろしい女の子に会わねえように気をつけないと……」
呟きつつ、川を右手に見ながら土手を歩いていく。
「にしても……なんで魔法使えねえんだ? ってか、なんで魔法使えたんだろ、そういえば。適当に言ってみただけなのに……。”カイン”の才能? ありえるけど……だとしたら、何で捨てられてんだよ」
足元にあった石ころを蹴飛ばし、”カイン”の掌に目をやる。
「言い方の問題……じゃないよなあ。やっぱ、漫画とかみたく魔力的な何かがあったり……? つっても、出来たとき感じたのは手のひらの振動だけだったし……。ブルブル震えながら唱えるのがコツ?」
実際にやってみたが、人がいないのが幸運だと思えるほど、滑稽に失敗した。
「魔力、魔法の力、魔法の素……。ゲームとかじゃ色々設定あったけど……うーん……ああいうのがわからないと、どうしようもないんだな……。いや、でも、もうちょっとこう……感覚的な違いがあってもいいと思うんだけど……ないんだなあ」
うんうんと唸っていると、徐々に道の傾斜がキツくなってくる。
「魔法を使うのに魔力が必要だとしたら……その魔力を捻り出すために何かがあるってことだよな? うん。どうやってそれを感じればいいんだよ……」
立ち止まっては歩き、立ち止まっては歩き。はたから見れば不審極まりない行動を繰り返し、しかし、それらしいものは一向に感じられなかった。
「だあっ、くそ! わかんねえ!」
大きくため息をついて肺の中の空気を入れ替え、足元にあった小石を蹴飛ばしてから顔を上げる。
「……うん? なんか、橋の方が賑やかだな……」
坂道の上に見えるカチュ橋。昨日もかなり遠くからでもその人通りを確認することができたが、今日はその比ではなかった。
なにせ、人が集まりすぎて、ろくに往来していない。
まるで、凱旋パレードか何かを一目見ようと集まっているかのようで……。
「もしかして、何かあんのかな」
行列ができていれば、並びたくはなくとも、その先に何があるのかは気になる――そんな野次馬精神に突き動かされ、カインは一旦魔法のことは忘れた。
歩く足を早め、息を荒くしながら坂道を登り切る。
「やっぱ、みんな何かを待ってんのな……」
カチュ橋周辺は、想像よりも遥かに人で賑わっていた。
通りの両側を老若男女が埋め尽くしている。橋を渡ったり、カーブする坂道を降ったりしようとする人は皆無で、昨日はいくつも見かけた馬車が一つも走っていない。
「けどここじゃ……何も見えねえ」
坂道を登り切ったはいいものの、昨日のように通りに出ることは叶わなかった。
封鎖されたかの如く人が連なり、足の踏み場さえもない。
人混みをかき分け何が来るのか見届けたかったが、少年”カイン”の六歳の弱った体では、そんなことは到底できない。
かといって、どれだけジャンプしたとしても、人の壁の向こう側を見ることなどできず……きょろきょろと辺りを見渡す。
「ん。そこに乗れば、俺もなんとか……」
目をつけたのは、カチュ橋の欄干。橋の上も当然紳士淑女でにぎわっているが、さすがに欄干に登っている人はいない。
よじよじと石造りの柱をよじ登り、へっぴり腰ながらも何とか全身を乗っける。
欄干にしがみついているだけでも通りは良く見えたが、それでも人の頭が被っている。
そこでカインは立ち上がって何が来るのかを見たかったのだが……。
「ん? こら、君、危ないだろう!」
すぐそばにいた老紳士に見咎められてしまった。
うげ、と喉から変な声が出たのも束の間。そばにいた人たちが、ほぼ全員一緒になって見返してくる。
ただ、”スラム人”であるとわかるや、気分悪そうに顔を歪めて目を逸らした。そうして、少しでも離れた場所にいようと、さりげなく移動を始める。
カインはムッとして文句を垂れようと思ったが……ふと、老紳士の顔つきが目に入った。
彼もまた、”スラム人”とわかるや否や、『心配したのに損した』とばかりにそっぽを向いていたが……一瞬後には、また顔をむけてきていた。
昨日も何人か見た、『信じがたいものを見た』とでも言わんばかりの目つき。しわがれた瞼を目一杯に開いて、驚きを表している。
そして、半開きになった口で、うわついた口調で呟くようにいう。
「まあ……。危ないから、座っていなさい」
老紳士は頭に乗っけていた山高帽を被り直して、姿勢を正す。先ほどよりも、少しばかり背筋を伸ばし、どこか緊張しているようでもあった。
そんな老紳士の反応を、隣にいた紳士や淑女は不思議に思ったらしい。再度カインを盗み見て……はたと何かに思い至ったらしい。気まずそうに姿勢を正す。
「何なんだ、一体……?」
妙な反応を気味悪く思いながらも、カインは言われた通りにした。石造りの欄干に尻を乗っけて、ついでに落ちないように両手で掴んでおく。
そうこうしているうちに、騒ぎが大きくなった。カーブする坂道の方からだ。ざわざわと隣人と話し合っていたのが、次々と歓声へ変わっていく。
「何か来たんだな……?」
そこでカインは、歓声一つ一つを集中して耳で拾ってみた。
「来たっ!」
「我らが教祖様!」
「モーシュ様、お待ちしておりました!」
「モーシュ様!」
まさに、熱狂。
モーシュなる人物を讃えてやまない声が、鼓膜を揺らす。
カインは思わず耳の穴を指で押さえ、皆が心待ちにしていた人物の登場に注目した。
カーブする坂の下から現れたのは、一台の馬車。
世にも美しい二頭の白馬に引かれる豪奢な馬車である。黒塗りの車体に金色の差し色が光り、その車輪にさえも細部にわたってこだわりが詰め込まれている。
ゆったりとした速度で坂を登り切った馬車……その開きっぱなしになった窓から、誰をも熱狂させる教祖モーシュが顔を覗かせていた。
「すんげえ美人……」
絶世の美女。そう表現するほかない美人が、車の中でゆるりと手を振っていた。
真っ白な司祭服に身を包み、黄金の刺繍で縁取られた冠をちょこんと頭の上にのけっている。
少しばかりウェーブのかかった髪の毛は、淡い色合いの黄金色。肌は艶ある白色で、化粧がなくとも目や鼻や唇が映える。
彼女の最大の特徴は、その瞳の色だった。彼女が瞬きをするたびに、あるいはカインが瞬きをするたびに、色が変わるのである。七変化する虹色の瞳だった。
「にしても教祖様って……。どう考えても二十歳くらいにしか見えないんだけど……」
熱狂する群衆の中にあっては、呟いた声は自分の耳にも届かない。
というのに……。
あちらこちらへ美しい笑みを浮かべて手を振っていたモーシュが、はたと反応した。虹色の瞳が何かを探すように漂い――、
「へ?」
ばちりと目が合う。
それだけにとどまらず、にこりとした笑みを浮かべた。信奉者たちへ向ける緩やかな微笑みではなく、つい嬉しさが溢れてしまったかのような深い笑みだった。
その上、大ぶりだった手の振り方を、まるで知り合いにするかのように小さくしていた。
ただ、それはほんの一瞬の出来事。カインが呆気に取られて瞬きをしたその次には、誰をも享受する聖母のような笑顔で群衆に手を振っていた。
「なんだったんだ……。今の……」
首を傾げている間にモーシュを乗せた馬車は通り過ぎていき……熱狂冷めやらぬ周囲とは違い、カインはただ一人、言い知れぬ違和感に沈黙していた。