4.魔法
いつの間にか俯いていた視線をハッとしてあげると、すぐ目の前に若い男が迫っていた。
首元を覆うほどの汚れた金髪に、胸板がはだけるほどによれたシャツ、繊維で毛羽立つズボン……。
靴を履いていないのもそうだが、なによりその顔つきがスラム街の人間独特のものだった。ヒトというよりかは獣に近く、やせ細っているというのに獰猛さが際立つ。
スラム街の男は、小脇に革製の鞄を抱えていた。
明らかに、ひったくり犯。
捕まえなければ――そう思って身構えたが、それ以上は動かなかった。
相手が思った以上に大柄だったからか、はたまたその異常な顔つきを目の当たりにしてしまったからか。
そうしているうちに、すれ違い様に男にどんっと突き飛ばされ、尻餅をついてしまう。
「おい……! おまえ!」
尻と腰に軽い衝撃が走って、ようやくカインは声を出すことができた。当然ながら、ひったくりは振り返ることもなく坂道を駆け上がっていく。
道ゆく人たちを押し退け、突き飛ばし――すると突如として、はたと背後を振り向く。
若い男が何を見ようとしたのか、カインにもわかった。
なにせ、男を追いかけるようにして、水の塊が飛来しているのだ。
「――はっ?」
カインは目を丸くした。
その水の塊は、バケツで投げつけたものでも、ホースで思い切り放ったものでもない。
あり得ないほどに『水の塊』と表現するしかないそれが、まるで投げられたボールのように飛んでいくのだ。
向かう先は、ひったくりをした若い男。
自分を付け狙う存在に、男もびっくりした様子だった。が、カインのように呆気に取られることはなく、くっと唇を噛み締めながらも横っ飛びに回避する。
そうして男は、身軽に立ち上がるや、再び走り出した。坂道だというのに、もの凄まじい勢いで駆けあがっていく。
「待て! くそっ、”スラム人”が――案外身軽だな!」
それを追いかけるのは、なにやらきっちりとした制服を着た男だった。軍服のようなスラリとした身なりではあったが、首元にはよだれ掛けのようなクラバットが巻いてあったりと、少しばかりのチグハグさがある。
とにもかくにも、その男はひったくりの現場に居合わせたらしい。”スラム人”を追って、自らも坂を駆け上がる。
「ごめんよ! 退いて、ちょっと通して! ――ライカ、お前は後から来い!」
通行人をかき分けていく後ろ姿を、カインはぽかんとして見届ける。
「なんだったんだ……さっきの」
唖然としつつ立ち上がり……そこで、何やら視線を感じた。
正面に顔を向けると、一人の少女がいた。クラバットはなかったが、ひったくり犯を追いかけた男とそっくりな軍服もどきな制服を着ている。
おそらく、彼女がライカなのだろう。十歳にも満たないであろう小柄な女の子だった。
高校生だったカインからしてみれば、まだ年端も行かない子どもではあったが……可憐で整った顔立ちとは裏腹に、鋭く尖った表情をしている。
眉の鋭角さといい、目つきの鋭さといい、牙も剥き出しになりそうなほどの険しい口元といい……明らかな敵意が宿っている。
しかも、その姿勢。今にも飛びかかってきそうなほどに、前のめり。右手には、拳銃を構えるが如く、短い杖を握っている。
「え……?」
到底、向けられた敵意や短い杖の意味を汲み取ることができず……カインは思わず辺りを見回した。
「あんた、”スラム人”でしょ」
もう一度ライカの方へ視線を移す。そこでようやく、彼女の言葉と視線が自分に注がれているものだと自覚した。
「す、すらむじん、って……?」
思った以上に、甲高い声が自分の喉から響く。
「た、たしかに、スラム街から来たけど……」
すると、ライカは一層目を怒らせ、可愛らしい声で怒鳴り上げた。
「自警団のみんなが言ってた――あんたたち”スラム人”は、ととーを組んで何かやるつもりだって! 今日みたいな日は、特に!」
「え、ええ? い、いや、俺は何も――」
「もんどー無用!」
ライカは一歩踏み出しつつ、大きく腕を振るって杖を突き出してきた。
「”水よ、かたまりとなって、つきすすめ――ウォーター・ショット”!」
たどたどしくはあったが、早口に紡がれた言葉。
それが、魔法としか言い表せない現象となった。
ちゃぽん、と水面で跳ねた水滴の如く、水の塊が杖の先に出来上がる。そうして、ぐぐっと力を溜めるかのように収縮し――飛来。
「ちょ、まじか……!」
唸る水の豪速球に、カインはなす術もなく目を見開き――。
「死にたくねえ――〝やめろ〟っ!」
ぎゅっと目を瞑り、頭を抱えて地面にうずくまった。
が、いつまでも想像していた痛みが体を貫くことはなく、それどころか……。
「――えっ! なんで……魔法が……っ!」
ライカの悲痛な声にそっと目を開ける。
迫り来る水の豪速球は、どこにもない。
代わりにあるのは、足元のすぐそばにある水たまりと、杖を差し向けたまま唖然とするライカと、一連の出来事に足を止めていた道ゆく人々だった。
「なんだか知らねえけど――今のうちにっ」
カインは慌てて立ち上がり、来た道を戻った。
もともと小柄で、さらに弱った身体ということもあって、坂道はきつかったが――思った以上に足取り軽くのぼれていた。
「っていうか、魔法って言ってたよな、あの子――って!」
どうやら、ライカという少女は相当に諦めが悪いらしい。
ちらと振り返ってみれば、もの凄まじい形相で追ってきていた。
「待ちなさい! 逃がさないわよ!」
「ちょ、ちょっとまってくれよ! 俺が何したって――」
「問答無用! 今度はあんな奇跡も起こさせないんだから――”ウォーター・ショット”!」
「へ――わ、わっ」
今度は一段と早く、しかも次々と水の塊を撃ち放ってくる。
カインはそれを間一髪のところで交わしつつ、足を取られないように懸命に坂を駆け上がる。今に息が切れそうだったが、恐怖でそれどころではなかった。
「なんだよ、それ……! 何たらかんたらって、あの長ったらしいのはどうしたんだよ! ずっこいぞっ!」
「はんっ、やっぱ”スラム人”! 学が足りないわね!」
「おまえ、いい加減に――」
「”ウォーター・ショット”!」
「ヒィッ」
見下したような言い方にカチンときたものの、逃げる他に手はなかった。
すぐに追いつかれるかもしれないという焦燥感と恐怖感に焼かれそうだったが、意外とそうでもなかった。
カーブする坂道は、橋と大通りをつなぐとだけあって、かなりの人通り。
勝ち気な少女ライカは、めちゃくちゃな理由で追いかけてきているものの、無関係の人を流石に無視はできないらしい。
人に紛れれば撃ち放つ手が緩み、正確さを求めて走る足も緩み始めている。
「くっ……! ひきょー者! 隠れてないで堂々と出てきなさい!」
「いやいやいや! 卑怯はそっちだろ! 丸出しのやつ相手に!」
「それをいうなら丸腰でしょ!」
人通りもあって追いつかれはしないが、逃げ切るのも難しかった。
少年”カイン”の体は、坂道の負担と背後からの恐怖にも耐えていたが、それもギリギリ。息は上がり、腕と脚は重く、口もカラカラになっている。
どこへ逃げようか。どうすれば逃げ切れるのか。そんなことも考えられないほどに思考も鈍ってくる。
「はぁ……はぁ……! もう、限界……!」
「さあ、観念しなさいっ」
「くそっ、なんであの子は余裕そうなんだ……!」
カインはふらつきそうな足をなんとか踏ん張り、坂道を登り切る。
すると、運悪く、人の流れが途切れた。紳士や淑女が、不思議そうに、あるいは不愉快そうに通り過ぎていくのを最後に射線が通ってしまう。
「飛び込むか、飛び降りるか……!」
一瞬の間に視線を巡らせる。
茶色く汚れた川と、一段低い場所にあるスラム街。
どちらにしても痛みが伴うのは目に見えており、下手をすれば死ぬことだってありうる。
「どっちも嫌だけど――」
まさに鬼の形相で追ってくるライカに捕まるのも、未来がないような気がした。
カインは覚悟を決めて、一歩を踏み出し、
「あの屋根の上に落ちれば、なんとか……!」
眼下にあるスラム街へ飛び降りた。
一瞬の浮遊感のうちに、視界にある全てを見てとる。
坂の上から見下ろせるスラム街は、三階分ほどの落差があった。家が密集して見えたのもあって、思った以上に高い。
ただ、飛び移る先は二階建てのオンボロ家屋。
一階分の高さから飛び降りるのと変わらず、それくらいならば幾度か経験がある――そう思っての行動だったが、自分が少年”カイン”であると忘れていた。
つまるところ、
「うわうわうわヤベェっ――こえぇぇ、しぬぅ!」
鈍かった思考がクリアになる程、やたらめったら恐ろしかった。
川のほうがよかった——漫画も映画もそういうシーンが多いのに——よりによってなんでこんな選び方をした。後悔が一瞬にして脳裏を駆け巡る。
後悔したところで、願ったところで、落ちゆく運命を変えることなどはできず……つぎはぎだらけの家屋の屋根に尻から着地する。
激痛が走る——より前に、木の板をつぎはぎしただけの屋根が、あっという間に抜け落ちる。
結果、二階へそのままダイナミックに飛び込む形となり、
「いってぇぇッ!」
尻だけでなく全身を打ち付け、ゴロゴロと転げ回って悶えることとなった。
「くそぉ……! なんて日だ……っ」