3.夢見る
川は意外と近くにあった。
少年”カイン”が住処にした空き家の裏手へ周り、雑然と並ぶ家の合間をクネクネと五十メートルほどいったところで突き当たったのである。
川幅も決して狭くはない。橋でもなければ、向こう岸にはいけないだろう。
今はそんなことはどうでもよく、飲めさえすればよかったのだが……。
「きったねぇ……」
目の前に横たわるのは、ドブ色の川だった。泥が流れているのかというくらいに茶色く濁り、しかも数秒おきにきついにおいが鼻を突く。
「これに口を付けたくはねえな……。まださっきの泥水の方がいいよ」
カインはため息をつき、川の流れてくる方へ目を向けた。
「上流に行けば少しでもマシになんのかな」
少し先に、石造りの橋が見えた。
随分としっかりとした造りで、川に突き刺さる三つの橋脚は太くてゴツい。どんなに早く川が流れてもびくともしないだろうという堅牢さがある。
そんな頑丈な橋の上を通るのは、馬車や馬や人。遠目では分かりにくかったが、それでも家の前で見た若者たちとはまるで雰囲気が違う。
馬車は燦々と輝く太陽を受けてきらりと輝き、行き交う人々は活気にあふれている。
「なんか……。ちょっとテンション上がるかも……!」
絵画の一枚、あるいは漫画の一コマ、または映画のワンシーン……エンターテインメントの中へ飛び込んだかのようで、カインは胸が熱くなった。
喉の渇きも忘れて、小さく走り出す。
近づけば近づくほどに、重い空気感の漂うスラム街から抜け出せる感覚がした。
川とスラム街とを隔てていた土手は、足を踏み出すたびに傾斜がつき、坂道へとなっていた。そのことにふと気がついて後ろを振り向けば、ジャングルのようなスラム街を一望できた。
このままあの空き家には戻らない方がいいかもしれない。そんなことを思いつつ、カインは弱冠六歳の体で坂を登り切った。
「すっげぇ……!」
石造りの橋の脇に立ち、カインはスラム街とはまるで違う街並みに圧倒された。息が上がっているのも忘れてしまう。
満遍なく地面に敷き詰められた石畳。煉瓦造りの家や漆喰の壁が特徴的な家が、通りの脇に立ち並んでいる。
馬車の車輪がかたかたと心地よい音を鳴り響かせつつ、橋を渡り切って、カーブする坂道をゆっくり下っていく。そんな馬車道の両脇を、まさに映画の中の登場人物のごとく、中世的な服装に身を纏った紳士淑女たちが行き交っている。
その人通りの多さといったら。すれ違う人の多くから怪訝な目で見られていたが、カインはそれにすら感動していた。思わず、視線を感じ取ったそばから逆に見返していく。
皆顔の彫りが深く、目の色も髪色も日本人離れしている。
とはいっても、『ねえ、あの子……』『ほら、あんまり目を合わせちゃいけません』など、聞こえてくる言葉はきちんと理解ができる。
「都会だ……もう東京だ……」
視界だけでなく、耳をも支配する人通りの多さ。
都会独特の人混みにくらくらとしつつも、カインは感動に震えていた。無意識にスマホを手に取ろうと、ポケットを探ってしまう。
だがもちろん、そんなものがあるわけもなく……残念な思いをため息に変える。
「ん……? なんかいい匂いがする……」
どこからともなく漂う香りは、腹の虫を刺激するものだった。ぐぐ、と腹の底が唸るのを感じつつ、顔を上げる。
見れば、通りをいく人々の中には、なにやら紙袋を抱えた人がいる。
大きかったり小さかったりと様々ではあるが、フランスパンが突き出ているのを見る限り、なにを買ったのかは明白だった。
「どこかにパン屋が……」
パンを購入した紳士や淑女、あるいはメイドは、カーブする坂の下からやってきていた。
顔を向けると、より香ばしいかおりが鼻をくすぐり、カインは誘われるかのようにフラフラと歩き出した。
ただ、石畳を裸足で歩いていくボロボロな少年は他にはいない。当然の如く注目を浴びるのだが……少しばかり違和感があった。
もちろん、街の景観にそぐわない少年の存在に、ほとんどの人たちが眉を顰めている。カインとしても、煙たい反応をされるのは初めてのことで、ショックを受けたくらいである。
だが、中には奇妙な目つきを向けてくる人もいた。
他の人たちと同じく、最初は眉を顰め、目を合わせまいと視線を逸らすのだが……はたと何かに思い至り、二度見してくるのである。そして、なにやら信じ難いものでも見たという目つきで、じっと見つめてくる。
ただ、声をかけてくることはなく……そういう人にこそ不気味さを感じつつ、カーブする坂道を下っていく。
坂道の終わりが見えてきたところで、カインは足を止めた。
カーブが終わり、一直線に下っていく坂道は大通りにつながっていた。石畳の道も、グラデーションをかけたかのように、煉瓦の舗装路へと変わっている。
片側だけに並んでいた家並みも、大通りに入るや、その両脇を固めるかのように立ち並んでいる。
一軒家はもちろんのこと、三階建てや四階建てといったアパートメントや、連続して同じ外観の家が横並びになった長屋など……様々な建物が街中に詰められた様に、世界が広がった感覚がした。
同時に、夢のようにふわついていた気持ちが、ストンと落ち着く。
「俺はここで生きてくのか……」
カインは……加賀美和平という高校生は、憧れにも似た夢を持っていた。
北海道へ修学旅行へ行った時のこと。
冬の痺れるような寒さだとか、そんな中で食べるラーメンの美味さだとか、いろんなものに刺激を受けたが……一番に忘れられないのは、馬に会いに行ったことだ。
実際の馬の威風堂々とした姿もそうだったが、何よりも馬が悠々と駆け抜けていくだだっ広い牧場が衝撃的だった。
当時中学生だった和平にとって、遊ぶ場所といえば近所の公園やら学校の校庭やら。
少し出かけるとなれば、遊ぶ場所もいっぱいな東京方面。両親にもいろんなところに連れていってもらったが、温泉があったり野球場があったりテニスコートがあったりと、どこも刺激的だった。
修学旅行でもなければ牧場に行く機会はなく……『何もないこと』がどれだけ凄まじい光景なのか考えもしなかった。
以来、和平は北海道に強烈な憧れを抱くようになった。
正しくは、馬やら羊やらと一緒に悠々自適に過ごす生活……いわゆるスローライフな人生を歩むことを。
ゆくゆくは北海道の大学に――そう思っていたが、今現実として目の前に広がるのは、中世な空気の漂う街並みである。
少し、怖気付いてしまう。
「俺は、本当に……?」
加賀美和平、否、カインは消え入りそうな声で呟き――ずきりとこめかみが疼くのを感じた。
その頭痛の痛みは、ボロボロの空き家で体験したものとは違い、カインには馴染み深いものであった。
どういうわけか、何かのきっかけで一瞬こめかみに痛みが走るのである。
我慢できないほどではないが、うずくまっていたいくらいの衝撃。病院に行って診てもらったこともあるが、腫瘍やらウイルスやらが悪さをしているのではないと言われた。
しかしカインとしては、何か失った記憶があるのではないかと勘ぐっている。
というのも、この”こめかみ頭痛”が起きた時には、必ず何かを思い出しそうになるのだ。その正体を掴む前に痛みは消え去り、その断片すら掴むこともできないのだが……。
「……いいや、弱気になってどうするっ」
ぱんっ、と両頬を叩いて、カインは気を持ち直した。側からどういうふうに見えたかはわからないが、道の端でも随分と注目を受けてしまう。
「ともかく! 探せば何か見つかるはずだ。こんなわけもわからずくたばってたまるか……! 俺は、スローライフを満喫するんだっ」
せめて、いつか見たヒーローのように、しゃんと背中を張って歩こう。そう決めてカインは胸を張って一歩を踏み出し……「はて」と首を傾げた。
この十六年間、戦隊ものに影響されて夢見たことはあれど、実際に会ったことなどはない。少年”カイン”の記憶かと思ったが、脳裏をひっくり返してみても思い浮かぶものはない。
何かを思い出したというよりも、何か忘れているような感覚がして、むずむずとする。
妙に引っかかる感触の正体を突き止めようと、進める足を緩めた時、
「ひゃ――誰か、そいつを捕まえて!」
坂の下の方から、悲痛な声が響いた。