2.スラム
ばんっ、と勢いよく扉を開けて外へ出……たかったが、少年”カイン”の体は、そんなこともできないほどに弱りきっていた。
全身を押し付けるようにして開けるので精一杯。カインは、ぜぇはぁと息をつきながらがたつく扉を全開にし、やっとの思いで陽の目を浴びることができた。
「……! マジで違う世界じゃん……!」
頭に流れていた映像と、視界に飛び込む景色とが合致する。
そこには、舗装された道路も、何本もの電柱も、張り巡らされた電線もない。
地面は自然そのままの砂利と泥。そこに立つ建物も、カインの知る家とは別物と思ってしまうくらいの古めかしい家屋。
しかも、素人考えで増築と改築を繰り返したのか、不恰好な形で横に伸びていたり、他の家と繋がっていたりした。
さながら不揃いな木々が立ち並ぶ密林のようで……カインは呆然と立ちすくんだ。
「好きにするっていったはいいけど……どーすりゃいいんだ……」
例えば。SF映画に出てくるような異様な世界ではない。空は青く、太陽は燦々と輝き、白い雲が薄くかかっている。
密林のごとく立ち並ぶ家々にしても、おんぼろで古風であるとは言え、それほど特徴的な形をしているわけではない。
だからこそ……。
見知らぬ土地を前にして、立ち尽くす以外に考えが及ばなかった。
どうしても、前へ歩き出す勇気が出てこない。
すぐにでも背後にある空き家に飛び込み、現実逃避を決め込みたかったが……真っ暗な部屋に戻ってはさらに気分が落ち込みそうで、それもできずにいた。
「どうすれば……」
カインは、両手をぐっと握り……そこで、その握り拳を見た。その小ささは、入学して半年が経つ男子高校生のものとは全く違う。
泥まみれで、擦り傷まみれ。自覚してしまえば、手の至る所がジンジンと疼く。
これもまた、常識とは全くかけ離れたところにあった――公園で泥遊びをしていたわけでも、友達と鬼ごっこをした際に転んだわけでもないのだ。
それから、少年”カイン”の体を見下ろす。
シャツもズボンも、見たことがないくらいに汚れている。
それだけではなく、裾はほつれて糸が垂れ下がり、ところどころ虫食いがある。靴下はおろか、靴すらも履いていない……どろどろの素足のまま。
カインは息を飲み込み……ふっ、と吐き出した。
「……と、にかく。この辺りを散策してみよう」
どきどきとする心臓に手を当ててから、当たりを見回す。
「とりあえず……迷子にならないように……。なにか、目印になるようなもの……」
一歩、二歩、と歩いてから、カインは空き家を振り返った。
両親に捨てられた少年”カイン”が住処に選んだ家もまた、密林の中にある一本に過ぎなかった。なにせ、両隣にも同じような家がある。
違いといえば、右の家は屋根がなく、左の家は一部の壁が崩れている。そうはいっても、住処としていた空き家も似たような風体をしていて、少し目を離せば見分けがつかなくなってしまう。
他の家も、二軒三軒連なっているのは珍しくなく、むしろそれが普通だった。
「絶対帰ってこれない自信がある……」
カインは呟き……そっと、辺りを伺った。
不揃いに立ち並ぶ家々は、どれもどこかしら問題を抱えている。窓が割れていたり、壁が剥がれていたり、屋根が崩れていたり。
そのおんぼろさといい、区画整理の『く』の字すらない雑多さといい……まだ高校生だったカインも、辺り一帯がスラム街と呼ばれるような場所であることは解った。
ちらほらと見える人影も、カインが今までに目にしたことがない様子だった。
年寄りたちは俯きがちで道端に座り込み、生きているのかすらわからない。
逆に、若者や子供たちは暗がりに身を潜めている……獲物を狙う獣のように、虎視眈々と略奪と暴力を狙っていた。
ただ、そんなスラム街でも例外はいた。
警察が繁華街を巡回するかの如く、男たちが何人か固まって歩いているのだ。
革の鎧を着込み、腰に剣を携帯していることから、漫画やらアニメに登場する剣士のようだが……それぞれ人相も態度も悪い。
とりわけ、リーダー格らしき褐色肌の男は、顔つきも体つきも段違いの迫力だった。
ゆうに二メートルは超えているだろう体格を、盛り上がる筋肉が支えている。
手の大きさなどは他の男たちと比べると一目瞭然で、人の頭を鷲掴みにするどころか、潰してしまいそうなほどだった。体格通りの格闘家気質らしく、唯一剣を持っていない。
そして注目すべきは、その凶悪な顔。眉はなく、目つきが鋭く、下顎はわずかに突き出ている。つるりとした禿頭であることも含めて、綺麗なまでの悪人面である。
カインは、無意識に「ひぃっ」と情けない声を出して、後退りをした。
すると、なんの悪戯か、他の男は気が付かなかったというのに、リーダー格の男だけがチラリと視線を向けてきた。
「やべぇ……!」
カインはどきりとして、背中を向けた。思わず、開けっぱなしにしていた空き家に飛び込む。
「って……! 家ん中隠れても意味ないじゃん……!」
心臓が破裂しそうなほどにどくどくと鳴り響き、陰からそっと外の様子を伺う。
リーダー格の男は、どうやらすでに興味を失ったらしかった。取り巻きを連れて歩き出す。
すると、数歩歩かないうちに、リーダーに向かって男の子が近づいた。それを皮切りに、建物の影に隠れていた若者がぞろぞろと集まり出す。
リーダーは、それぞれの頭をその大きな手で撫でていき、悪人面ながらも愛嬌ある笑顔を浮かべていた。取り巻きたちも、若者たちとの交流を楽しんでいるようである。
「もしかしていいやつだったり……?」
あの輪の中に入れたら、今の八方塞がりな状況もなんとかなるかもしれない。そんな淡い期待と欲望とで頭の中がいっぱいになる。
だが……。
結局カインは、家の暗がりから出ることはできず、男たちが遠ざかっていくのを見届けるにとどめていた。
「声かければよかったか……?」
カインは少し後悔しつつ、家を出た。男たちに群がっていた若者や子供たちは、すでに蜘蛛の子を散らしたかのようにいなくなっている。
「それにしても……。喉乾いたな。……”水が欲しい”かも」
加えて、お腹も減ってきた。どちらも満たすためには、とりあえず動かなければ。カインは一歩踏み出したところで、足の裏に違和感を覚えた。
振り返ってみると、泥の道には水溜りができていた。
「? 雨も降ってないのに……?」
空を見上げてみても、薄く雲がかかっているだけで、雨が降ったような雰囲気は一つとしてない。
再度、泥道に一つだけできた水たまりに視線を移して、首を傾げる。
しかし、考えてもわからないものはわからず……。
「ん……。なんか、川が流れてる音がする……。近くだな」
カインは、己の聴覚を頼りに歩き出した。