仲睦まじい男女だった
なんの変哲もない、いつもの日常。
朝には顔を合わせ夜には「またね」と互いに去り行く。そんな行動を日々繰り返すひと組の男女。
しかし、その日は唐突に訪れた。
「どうして?」
「黙って別れてくれないか」
「だから、どうしてなの?」
「理由は……」
一方的な別れ話に心当たりなどあるはずも無い。
相手の男とは付き合い始めて三年になる。結婚、などと言ったものも視野に入りそうな頃だった。
丸茂愛理。現在二十六歳になり、そろそろ将来像を描きたいと思っていた。
相手の男性は駒崎雅哉。現在二十七歳で丸茂愛理よりひとつ上。同じ思いを抱いていたと思っていたようだが。
「話せないの?」
「今は」
「ひどい」
「申し訳ないと思ってる」
冷たい小雨降る駅前広場。憔悴する愛理の姿など気にする風でもない雅哉だ。どこか気持ちが浮ついているのか、視線は愛理に向かわず彷徨っていた。
傘越しに雅哉を見る愛理。その目には大粒の涙が溢れ返る。
嗚咽と共に傘を持つ手は震え、肩も小さく震えていた。
「本当、ごめん」
「気持ち、篭ってない」
「でも、ごめんしか言いようがないし」
泣き崩れる愛理をあとに雅哉は改札を抜け、駅構内へと進んで行った。
最後まで背を向けたまま、手を振るでもなく。
その後ろ姿を見つめ続ける愛理だったが、背中を丸め気味に自宅へと帰ることに。
家に帰り部屋の照明を灯すと、雅哉との思い出の品が幾つも目に入る。
この家に毎週末訪れていた。先週末もだった。だが、今週末に会うと事態は一変したようだ。
視線を横に向けると、玄関の靴箱の上に雅哉の買ってきたディフューザー。すでに芳香剤としては機能しない。詰め替え用のフレグランスは無いのだから。今日のデートで互いに納得の行く香りを、などと想定していたようだが。
玄関より少し進むとキッチンスペースがある。そこにはお揃いのマグカップがある。以前、伊豆に旅行に行った際に買ったものだ。熊の絵が描いてある愛らしいものだが、ひとつはすでに主を失った。
キッチンの向かいにあるバスルームには、雅哉の使っていた歯ブラシとカップ。それとタオルなどのリネン類。すべて愛理と雅哉で用意した。
今となっては無用の長物と化したようだ。
部屋に入るとセミダブルのベッドが目に入る。部屋の三分の一を占拠するも、ひとりで寝るには大きいのかもしれない。
壁には額縁に入れられ飾られた複数の写真。仲睦まじそうに写るその姿の当事者である一方は、すでに居ないし来ることも無いのだろう。
壁際のハンガーに吊るされた室内着。ひとつは着る者が居なくなった。
室内にある思い出の品々を見て、ふらふらしながらベッドに体を横たえる。
腕で顔を覆い隠し体を捩らせ、再び嗚咽と共に微かな声を漏らす。
ひとしきり泣いた後、落ち着きを取り戻し起き上がり、そのままバスルームへ。
バスルームから出てくるとドライヤーで髪を乾かす。
鏡を見ながら乾かし、ベッドサイドに置いたスマホに目をやる。もちろん相手からの着信もメッセージも無い。ただそこにあるだけ。頻繁にやり取りしていたが、今日限りでそれも終わったようだ。
乾かし終わると鏡の中に映る自分自身を見て、きつく唇を横に結び顔を叩いてみる。
ぺチン、と少し湿り気のある音が鳴り「よっしゃ!」と声を発した。
口角に指を押し当て無理やり笑顔を作ってみる。歪む口元。決して心からの笑顔ではない。単なる作られた表情に楽しさは無い。
深いため息をひとつ。
スマホを手にすると、誰かにメッセージを送り始める。
返信がすぐに来ると、今度は電話をするようだ。
「あ、急にごめんね。」
沈んだ感じの声だが、無理に明るさを装うも、相手に見透かされたようだ。
声にならない声で小さく苦笑いをする。
「うん。なんかね、フラれちゃったみたい」
スマホを通して相手の声が聞こえてくる。同情だろうか、また良い相手に巡り逢える、などと励ます感じなのだろう。ハイテンションでハイトーンボイスの声の主は、早く忘れろとも言っている。
「うん。そうするよ」
背中を丸め体育座りの態勢になり、乾いた笑い声を出してみるも、表情は沈んだままだった。
「え? 失恋旅行?」
なにやら提案があったようだ。
気分転換に旅行でも一緒に行こうとの提案。相手は愛理の友人なのだろう、気を使ってくれているようだ。他にも数人誘ってみると言っている。
「そうだね。有給申請してみるね」
電話の相手に相槌を打ちながら、ベッドに横になり「ありがと。じゃあ、明後日でも言ってみるね。なんか、ごめん。変に気、使わせちゃった」と言って、スマホの通話を切る。
そのまま仰向けになり天井を見つめるが、やにわに起き上がると「雅哉のバカ」とつぶやく。
「つまんない奴」
こうして再びベッドに体を横たえると、室内の照明を落とし就寝したようだ。
カーテンの隙間からわずかに差し込む陽光。静けさの漂う室内で唸り声を発すると、目を覚ます愛理が居る。
頬を伝わる涙の痕。寝ている間も涙が溢れだしたのだろう。
その頬に指先を這わせてぼそっとつぶやく。
「こんなに未練がましいと思わなかった」
ベッドから起き上がりカーテンを開け、バスルームへと向かう。
お揃いのカップにピンクの柄と青い柄の歯ブラシ。青い柄の歯ブラシを掴むと、そのままゴミ箱へ投げ捨てる。カップを手に取ると同じようにゴミ箱へ。
ピンクの柄の歯ブラシで歯磨きを済ませ、顔を洗うと鏡越しに笑顔を作る。
バスルームをあとにし、室内に戻り着替えを済ませ、壁に飾ってある写真を片っ端から外し床に投げて行く。
全部外し終わりガラスは不燃ごみ。額縁は可燃ごみとして分別し、各々のごみ袋に詰めておいた。
さらに主の居ない室内着も袋に詰めて、分別ごみとして出すことに。そのついでにリネン類も同様に袋詰めしておく。
袋の口を縛り思わず言葉が漏れたようだ。
「バカみたい」
玄関先にまとめて置き、キッチンにあるマグカップは、戸棚に仕舞い込んだ。
ディフューザーも不燃ごみとして袋に追加。
ひと通り目に付く思い出の品を片付け終わると、コートを羽織りショルダーバッグを手に家をあとにした。