ミリアは禁術を使った!
荒れ放題な保管庫を元に戻すため、禁術を使う――
わたしはそう決心した。
禁術を使うリスクは分かっている。
だけど、まあ、昔からこういうではないか。
バレなければ大丈夫!
……あんまり褒められた哲学ではないのだけど……。でもバレるのを恐れて、禁術を使わないという選択も違うだろう。
現在進行形でわたしの同僚たちは大貴族の無茶な命令に困り果てていて――
わたしはそれを好転させる力を持っているのだから。
自分ひとりの保身だけを考えて、助けられるものを助けないのも違う。
少なくとも、わたしはその判断に心の痛みを伴う。
助けられるのなら、助けたい。
……ま、わたしが多少リスクを負うだけで、みんながハッピーになれるんならいいじゃないか!
そういう考え方だ。
うだうだと考えても仕方がない。やると決めたんだからやろうじゃないか。
わたしは保管庫の散乱している部分を囲むように歩き始める。足元に落ちている書物を拾いながら、ぽつりと小声で言葉を落としていく。
「万物は千々に乱れ――ありし日の均衡はすでにない――0は1の世界で迷子になり――1は0の世界で眠りに落ちる――私は是正する、その矛盾を――世界よ、美しさを取り戻せ――世界よ、正しさを自覚せよ」
この禁術は特殊で、詠唱の言葉を落とした場所で囲んだ部分が対象となるからだ。
元の場所に戻って、わたしは最後の詠唱を口にする。
「――逆巻け時間、0は0へ、1は1へと回帰せよ」
準備は終わった。
あとは最後の言葉を口にするだけ。
わたしは集めていた書物をテーブルに置く。1冊だけ手に取ってその場を離れた。
あまり目立ちたくなかったので、わたしはこそこそと本棚の奥へと進み、周りに誰もいないのを確認してから声を発する。
「『平衡へと帰る世界の黎明』!」
ビックリマークをつける勢いはあるけど、声自体はボソッという感じだ。
その瞬間――
保管庫の空気が揺らめいた。
本棚の向こう側から、同僚たちの悲鳴が聞こえる。
わたしが手に一冊だけ持っていた書物がぶるぶると震えた。まるで磁石が強い磁力に引き寄せられるように。
ぽん、と書物がわたしの手から離れた。書物はそのまま地面に落ち――ず、まるで透明の釣り具に引っ掛けられたかのように、すーっと中空を流れていく。
わたしは書物の後を追った。
すると、何が起こっているかよく見えた。
地面に散乱していた書物がバサバサと意思を持つネズミのように動き回っている。そして、空いたスペースにバタバタと音を立てて、倒れていた本棚が起き上がって並んでいく。本棚が停止すると、がらがらの棚に書物が次々と飛び込んでいく。わたしの手元を去っていった書物も書物の海に飲み込まれて一緒に本棚へと帰っていった。
ひとつの本棚だけではない。同時に複数の本棚で起こっている。
「ひいいいいいいいいいい!?」
「ななな、なんだよ、これ!?」
動き回る本棚と書物の群れに同僚たちは悲鳴を上げながら逃げ回っている。……まあ、起こっている状況はただの怪奇現象だからね……。
これが禁術『平衡へと帰る世界の黎明』の効果だ。
簡単に言うと、指定した範囲の状態を以前の状態に巻き戻す。
つまり、わたしは本棚と書物を対象として指定して、事件が起こる前の状態に巻き戻したのだ。
あれよあれよという間に本棚と書物があるべき場所に戻っていく。
そして、それは終わった。
動かなくなった本棚と書物。完璧に、整然と並んでいる様子からは、ついさっきまで台風一過のような状況だったと誰も思わないだろう。
だから、みんな押し黙っていた。
さっきまでの騒ぎが嘘のように、しんと部屋は静まっている。
やがて、上司のダグラスが信じられないような声をこぼした。
「終わった、のか……?」
ダグラスはテーブルに置いてある書物の目録を手にして、手近な棚を確認する。
「す、すごい……目録の通りだ……この棚も、下の棚も!」
この段になって、同僚たちもまたひそひそと会話をし始める。
同僚のひとりがダグラスに話しかけた。
「あ、あの、ダグラスさん、何が起こったんですか? その、片付けが終わったんですか?」
「……目録と棚の突き合わせ確認はしなくちゃいけないが……それはたいした作業じゃない。今のところ、問題なさそうだな」
同僚たちから安堵の息がこぼれる。
だけど――そこで終わらない。
「何が、起こったんですか?」
同僚のひとりが問う。
……当たり前だろう、彼らは宮廷魔術師。魔術師の中のハイエンド。都合のいい展開だから全てを許そう! とはならない。
「わからん」
ダグラスはため息をこぼしながら、短く言う。
「とりあえず、この件は上に報告しておく。報告しようと思うだけで頭が痛くなる内容だが、これだけの目撃者がいるんだ、信じてくれるだろう。それと、とりあえず、片付いたでいい。細かいチェックは明日だ明日!」
ダグラスは語気を強めてこう続けた。
「じゃ、解散!」
仕事の終わりを告げる言葉だった。
本来であれば開放感のある状況だろうが、そういう空気ではないようだった。同僚たちは、これでいいのかな? と首を傾げながら、狐につままれた様子で保管庫から出ていく。
わたしも素知らぬ顔で人の流れに乗る。
同僚たちはさっきの怪奇現象について話し合っている。その声には信じられないものを見た怖さがあったが、たまにこんな声が聞こえてきた。
「まあ、でも、なんだかわからないけど、助かったよな」
安堵の感情を声の底に宿して。
わたしはほっとした。
そして、こう思った。
やってよかった、と。
わたしが禁術を使ったから、面倒な仕事が片付いたのだ。これから1ヶ月以上は続くであろう、時間外の仕事が1日とせず片付いたのだ。
きっと、今日のこれはわたしの人生にとっての分岐点になるのだろう。
これから、わたしはずっと今日のような問いかけを己にし続けることになるのだろう。
こんな問題があります。
でも、禁術を使えば解決できます。
使いますか? 使いませんか?
世界を選択する力を、わたしは手に入れてしまったのだ。
あの日までわたしは何者でもない、選択肢など与えられていない普通の人間だった。だから、何も選ばなくてよかった。受け取ったものを、期待される通りに処理するだけ。
だけど、今は違う。
わたしには選ぶだけの力がある。受け取ったものが気に食わないなら、それを正す力がある。
――くだらぬなあ……お前はもう、人のしがらみなどに囚われない強さを持っているというのに。
猫の言葉を思い出す。
どうやら、わたしは猫の言葉の意味を理解してしまったようだ。
きっと、これからも同じ問いに何度も出会うのだろう。
だけど――
もう使わないなんて選択は難しいかもしれない。
その力が誰かを幸せにできるのなら、誰かを楽にできるのなら。そのことを知っているのに黙っていることはできないだろう。
……まあ、バレると死刑なのが厄介だけど……。
バレないように、バレないように。
わたしができることで、誰かが喜ぶならいいじゃないか。