からの、手の平くるーり
「そうね、絶対に禁術は使わない」
『そうか』
短く応じて、猫がじっとわたしを見ている。まるで、本当にお前はその言葉を守れるかな? と言いたげな様子で。
いや、それはわたしの被害妄想だろうか。
猫はそんなことを思っていなくて、本当はわたしが思っている――
居心地の悪さを感じたわたしは話題を変えた。
「そんなことより、どうして、わたしはあなたと会話できるの?」
『ふむ、それは偉大なる我にも興味深いことだ』
少し考えてから、猫が答えた。
『おそらく、お前の身体を乗っ取ろうとして妨害されたとき、偉大なる我の精神体が少しばかり残ってしまったのでは? と考えられる』
「え、えええええ!? ちょ、ちょっと戻してよ!?」
『できぬ相談だな』
「困るんですけど!?」
『そうかね? 偉大なる我の一部が混ざるなど、魔族なら涙を流して喜ぶことだが?』
どうやら、猫(魔王)の声が聞こえる変な状況も改善はできないらしい。
そんなわたしを眺めながら、猫がふぁ〜と気楽そうなあくびをした。
『すまんが、少し疲れたので横になる。寝床はどこがいい?』
「ええ、ちょっと……いつく気まんまんだったりする?」
わたしがそう指摘すると、猫は露骨に動揺した。
『い、いや、そ、その! そういう気持ちはと、特にないがな!? だ、だが、人間よ。お前が偉大なる我と一緒に暮らす栄光に預かりたいと言うのなら考えなくもない!』
「出ていってほしい気持ちが120%です、魔王様」
『そ、それでいいのかな? も、もし、偉大なる我が……その路頭とかに迷って? 冷たい冬の日に飢え死にしたとしよう? お前の良心はその痛みに耐えられるかな? いや、耐えられまい!』
「わたし、人間なので……人間的には魔王には死んでもらったほうがいいのでは?」
『ぐっはー!』
「ていうか、今、倒しておいたほうがいい?」
ちらりと台所に置いてある包丁に目を向けた。
『まま、待て! 待つんだ、はやまるな! 偉大なる我を殺せば、お前にも災禍が及ぶのだぞ!』
「え?」
『精神がリンクしていると言っただろ? 偉大なる我が命を失えば、それはお前の死につながる!』
「……本当なの……?」
『たぶ――本当だ!』
「たぶん、かぁ……」
わたしの冷たい言葉に猫が露骨に狼狽する。
『たぶ、いや、絶対。そう、その、魔王アンゴルモアだからこそわかる感じ? 絶対に、偉大なる我が死ぬとお前は困る! 絶対、絶対、たぶん、絶対!』
短い手をぶんぶんと振りながら必死に猫が言う。
別に突っぱねても良かったのだけど、どうでもよくなってきた。あと、この事情通の猫を追い出すと、のちのち困ったときに話が聞けなくなってしまう。
それに腐っても魔王なのだから、こちらの監視下に置いておいたほうがいいだろう。
わたしは息を吐いた。
「はいはい。わかったわよ。じゃ、しばらくうちにいなさいな」
『お、おおおおお!?』
猫が大喜びする。
『は、ははははは! やはり、偉大なる我――魔王アンゴルモアと一緒に暮らせる栄光の価値に気づいたのか! 愚かだが、そこまで愚かではなかったな、人間!』
わたしはにっこりほほ笑んでこう言った。
「やっぱり追い出そうかな?」
猫がぶるりと身体を震わせた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日、わたしは王城に出勤した。
わたしの姿を見るなり、同僚たちが声をかけてくれる。
「ミリアさん、大変だったみたいだね? 大丈夫!?」
「あ、はい……気を失っていただけみたいで、特には」
「運が良かったねー、部屋の壁が壊れるくらいの『何か』があったみたいだから、すごく運が良かったよねー」
「……いやー、本当ですよね、あははははは……」
胸が痛い。
その壁をぶっ壊したの、むっちゃわたしですー。
だけど、そんな事実を口にするわけにもいかないしねえ……。
心優しくおしゃべりな同僚が他のことも教えてくれる。
「夜中の出来事で城内騒然! って感じだったんだけど、まるでその間隙をあざ笑うかのように、昨日のお昼、また夜中と同じ閃光が、今度は王城の庭で発生したんだって! 知ってた!?」
「へ、へえ、そうなんですね……!?」
むっちゃ知ってますー。
それ撃ったのわたしですー。
でも、故意じゃないんですー。うっかりなんですー。
口から漏れる言葉とは違う本音がぽこぽこと胸に浮かび上がる。うう……正直者のわたしには辛い……。だけど、耐えろ、耐えるのだ、ミリア。昨日の今日で非日常なだけ。今さえ耐え抜けば、何事もない平穏に戻るのだから!
そう、事実、それはすぐに沈静化した。
仕事が始まったからだ。
宮廷魔術師は四つのグループに分かれている。わたしが所属しているのはドリッピンルッツ隊で、主に王城にある『魔術』に関わるものの管理を担当している。例えば、わたしがトラブルに巻き込まれた特秘図書保管室や王城内で使っている魔導具は、ドリッピンルッツ隊の管理下にある。
ただの管理と思うなかれ、そこはさすがに王城――多くの人間たちが集い働く場所。それだけ、管理するべきものは多い。さらに所有者は王族となるので、なかなか気を使うことも多い。
優秀であろう宮廷魔術師として完璧を求められる、それなりに大変な職場なのだ。
押し寄せる仕事の忙しさに、確かにあった非日常の空気は薄らいでいく。
このまま淡々と仕事を終わらせて、さらっと帰ってしまおう。
そう、思っていたら。
終業時間が近づいたところで、上司のダグラスが慌てた様子で部屋に入ってきた。
「すまない! 全員、今日は残ってくれ!」
いきなりの言葉に驚くわたしたちに、ダグラスが申し訳なさそうに付け加えた。
「実は特秘図書保管室の整理を大急ぎで行うことになった!」
特秘図書保管室――わたしが魔王アンゴルモアに襲われた場所。
蘇った記憶をたどると、とんでもなく荒れていたような気がする。……主に、わたしがぶっ放した攻撃魔術の余波でなんだけど……。
同僚のひとりが手を上げる。
「大急ぎ、なんですか? もう終わろうかと思っていましたが?」
「すまない、大急ぎだ。ズウェンター公爵が、散らかっている状態で放置しているのはいかがなものか! とお怒りでな……」
ずーん、という重い空気が部屋にわだかまった。
ズウェンター公爵。爵位が示すとおり、王族に続く地位の大貴族だ。伝統と格式を重んじる性格で、なかなか頑固で神経質な老人だ。
ズウェンター老人の命令は重い。
ダグラスが続ける。
「ちょっと忙しくなるけど、頑張ろうな!」
同僚の男性が背を伸ばしながら、気楽な口調でこう言った。
「まー、ちょっと本棚がズレているのを直したり、ちょっと本が散乱しているのを整理して収めるくらいだろ。楽勝楽勝」
特秘図書保管室にたどり着いたドリッピンルッツ隊の面々は絶句した。
わたしも顔を手で押さえて、あちゃー、という気分だ。
保管室の有り様を一言で言うと――
台風一過。
両手両足の指でも数えられないほどの本棚が倒れていて、そこに収められていた大量の書物が酔っ払いの吐瀉物のようにぶちまけられている。
……わたしがぶち抜いた壁だけは応急処置として木の板で蓋がされていた。
さっきの同僚が悲鳴のような声を上げる。
「いやいやいやいやいや!? ちょっと忙しくなるってレベルじゃないですよ、ダグラスさん!?」
「はっはっは……」
ダグラスは困ったように頭をかいた。
「ま、まあ、別に今日だけで片付けるってわけじゃないからさ」
「平常業務に支障をきたすレベルですよ、これ?」
「いや、それはダメだから、その……平常業務が終わってからって話になる」
つまり、これからしばらく帰りが遅くなるってことか……。
ダグラスが苦しい立場なのもわかる。
ズウェンター公爵はとても厳しい人物で、ダグラスが意見を言える相手ではない。ただ命令が上から下へと降りてくるだけ。
もちろん、いずれ保管庫を整理するのはドリッピンルッツ隊の役目だ。だけど、それは綿密に計画されていて、平常業務に組み込む形で行われていただろう。
それを突き崩したのは公爵の『急げ』命令だ。
そのことはみんな知っている。
だから、仕方がないと割り切った様子で作業を始めた。
「まずは散らばっている本を集めよう」
ダグラスの指示に従って、床をきれいにするところから始めた。
……戻すのも大変で、適当に本棚に突っ込めばいいというものではなく、収める棚は決まっている。幸い、棚ごとの目録はあるのでそれに従えばいいのだけど。
その手前の、落ちている書物を整理するだけでも大変なものだ。
逆に言えば、専門性が必要な仕事なのでわたしたちでなければできない作業でもある。
散らばっている書物を集めるみんなの顔は冴えない。
今日だけならともかく、これがこれからしばらく――おそらくは1ヶ月以上は続くとなると割り切れないのだろう。
わたしはいたたまれない気持ちになった。
だって、この状況はわたしが作り出したから。やむに止まれない事情があるにせよ、犯人は猫化した魔王アンゴルモアだと言いたいところだけど、だからって、わたしは関係ありませーんと思えるほど、わたしは図太い性格ではない。
迷惑をかけるのは実に忍びない。
……そう思いつつ、わたしの頭は別のことを考える。
禁術であるんだなー……。
この状況を一発で好転できるものが。
つまり、それを使えば――
みんなをこの1ヶ月以上も続くであろう大変な労働から解放できる!
現状の責任はわたしにもあって、そして、わたしにはそれを回避する方法がある。
……やるしかないよね……。
だけど、別のことも思っちゃうのだ。
――そうね、絶対に禁術は使わない。
昨日の今日でこれなんだけど、いいのかな?