3.悪役令嬢と②
本日二度目の更新です。
未遂ですが襲われる描写があります。
苦手な方はお気を付け下さい。
ロベルトの婚約者になってから三年ほど経ったある日。昼食後に部屋で読書をしていたミネアの元へ、焦った様子の執事がやって来た。
「お嬢様、王太子殿下がいらっしゃいました」
「殿下が? 先触れは無かったわよね。何があったの?」
「それが……青褪めていて、とても思い詰めたご様子でお嬢様に会いたいと仰るばかりで何とも。先触れはありませんでしたが応接間にお通ししております」
「分かったわ。すぐに向かいます」
ミネアが控えの侍女に軽く身嗜みを整えさせてすぐに向かうと、確かに執事の言う通り真っ青な顔色のロベルトが広い応接間に一人座っていた。膝に置いた拳がカタカタと震えている。
聞けば王太子付きの護衛も侍従も、侯爵家の侍女や執事すらも部屋に入るなと厳命されたと言う。全員で室内を伺いながら困り果てていた。
いつもどこかこちらを見下したような笑みを貼り付けた生意気な子供はどこにもいない。
そこに居たのは何かに怯える小さな男の子だった。
開かれたままになっていた応接間の扉からロベルトの様子を伺ったミネアは、一旦扉から少し離れた。そしてわざと小さく足音をたてながら再び応接間へと近付く。
足音に気付いたであろうロベルトが顔を上げた気配を確認しつつ、それでもあえて伸ばした腕だけを室内へ入れて内開きの扉を軽くノックした。
「殿下、ミネアです」
「ああ……ミネア。入って来てくれ」
心の底から安心したような声。
そっと室内に入ると途端に安堵した表情を浮かべたロベルト見て、ミネアは兎にも角にも慎重に事を進めなければならないと悟った。
「はい、殿下」
「座ってくれ」
「失礼致します」
許可を得るとミネアは上座に居るロベルトから最も遠い席へ座した。
本来ならミネアはロベルトの婚約者であるから、彼の隣か、今のように一人しか座れないような席に彼が居るの時は斜向かいに座す。いつもならそうしている。
だから彼女の行動にはロベルトも一瞬面食らったように目を見開いた。
「先触れも無く来てしまってすまない。……その、怒っているか?」
「いいえ。いいえ、殿下。今、私が殿下のお側に寄っても問題はありませんか?」
ミネアの案じるような声色と表情、そして行動にロベルトは確信を深めた。やはり彼女ならば大丈夫だ。
「恐らく、大丈夫だ。いつも通りにしてくれ」
「かしこまりました。……マル、そこで」
絶対に誰も入って来るなと、ロベルトが今にも人を殺しそうなほどに鬼気迫る様子で厳命したせいで、自国の王太子が居るというのに茶の一つも出せなかった侯爵家の侍女達は少し安堵した。
そしてティーセットの乗った台車を押して来たのだが、それはミネアによって扉付近で止められた。
穏やかに微笑んだままのミネアは立ち上がると侍女から台車を引き継ぎ、ゆっくりとロベルトの傍へと近付いた。彼の様子を窺いながら、慎重に。
「本日は南国の花茶と西国の紅茶をご用意しております。花茶には蜂蜜、紅茶にはミルクが合いますが、どちらもそのままでも美味しく召し上がれます。如何致しましょう?」
「あ、ああ……では西国のをミルクティーで」
「畏まりました」
「君が煎れるのか?」
「はい。お任せ下さい。こう見えてミネアは上手なんですよ」
少しおどけたように言いながら、けれども確かに慣れた手付きで危なげなく茶の用意をするミネアを、彼女の手元や表情をゆるりと眺めながらロベルトは小さく息を吐いた。
くるくると滑らかに動く小さな手が、思っていたよりも遥かに美しくて見惚れる。
「上手いものだ。慣れているな」
「茶会を開くのも淑女の嗜みですもの。主催自ら茶を煎れる機会も多いのですよ」
「それにしても見事だ。うちの侍女よりも……」
そこでロベルトの言葉が止まった。ミネアの気遣いで戻っていた顔色がまた悪くなっている。
それを横目に確認しながら、ミネアはそれでもペースを崩さずゆったりと茶の用意を続けた。
「まだまだ精進せねばならない点は多くありますが、ロベルト殿下のお気に召したのでしたら嬉しいです。さあどうぞ。茶菓子は如何?」
「……いや、今はこれだけで……いい」
「はい、殿下」
同じ茶器から同じ茶を自分にも注ぎ、ミネアはそっと口を付けた。いつもならロベルトが口を付けるのをさり気なく待つのだが、今日の今この時はこれが正解だろうと当たりを付けて。
果たして、やはりそれは正解だったようだ。
ちらちらと横目でミネアの様子を伺っていたロベルトだったが、また幾許か安堵の表情を浮かべて茶を口にした。
「美味いな」
「ありがとうございます。私の最近のお気に入りですの」
「そうか……。茶菓子はどれが気に入っているんだ?」
「この紅茶にはベリーの入ったスコーンを合わせるのが好きです。クッキーも良いですがビスケットも合いますよ」
「頂こう」
「お昼を過ぎたばかりの時間ですが召し上がれます?」
「ああ、そうか……そうだな。全部は無理か」
「せっかくですし半分こにしましょうか」
本来なら有り得ない事を、さも当然のように微笑みながらミネアは提案した。
ロベルトが承諾する前にスコーンもクッキーもビスケットも器用に半分にしていく。その片方はロベルトの皿へ。残りは自分の皿へ。
小さなクッキーですら綺麗に半分に割った。二つ割ったらそれはもう一つと変わりないのに、それでもミネアは必ずロベルトと同じ物を口にする為にそうした。
「さて、頂きましょう」
昼食後のこの時間、ミネアの方がきっと菓子など要らないくらい腹は膨れている筈だ。
それをおくびにも出さずにロベルトに付き合ってくれている。まだ何も話していないのに。彼女はまだ何も聞いてこない。
「ミネア……」
「はい」
そっと囁くように名を呼ばれたミネアは、同じように小さく返事をしながらロベルトへ少しだけ耳を近付けた。
話してくれる気になったのだろう。
けれど誰にも聞かせたくない。
そんな気持ちが痛い程に伝わってきて、部屋のすぐ外で控えている者達に聞こえないようにミネアは近付いた。
「……ここ数日、私が口にする食べ物や飲み物に薬物が混入される」
予想通りだった。
ゲームのロベルトは人間不信、そしてとりわけ女嫌いだという設定だった覚えがある。
残念ながら前世のミネアはロベルトの詳しい事情が語られる前にゲームを投げ出していて、何故彼が女嫌いになったのか詳細は知らない。
だけど一つ。薬を盛られて侍女に襲われ掛けたという話だけは覚えていた。
「その薬は、催淫剤……媚薬の類だと思う。私の、その……ね、閨、教育が……始まったから……」
思春期の少年が年下の婚約者にこんな相談をするのは躊躇われるのだろう。耳どころか首元まで真っ赤になっている。
それでもここへ逃げて来るほど彼は追い詰められた。
「これまでもその手の教育は軽く、触りと言うか、少しというか……あったんだ」
あくまでも表情は変えずにミネアはゆっくりと何度も頷いた。大丈夫です、知っています、と言うように。
それに安心してロベルトは続けた。
「最近になってより実践的と言うか……その、本番……いやいや私は何を言っている。いや、その……えっと」
「大丈夫ですよ。これまでのようにぼかした表現ではなく、本格的にしっかりと教わるようになったのですね」
「そう、それだ。ぼかされてきたところが無くなった。その辺りから侍女達の視線が変わってきて、三日前から薬を盛られるようになった。食事には入れられない。いつも寝る前の茶や寝所の水差しだった」
ミネアはドン引きした。
確実に王太子との既成事実が目的だろうが、幼気な少年を相手にこれはない。
「父上から実践はミネアとの婚姻までに済ませたいなら済ませれば良いし、無理をする必要も無いと言われている。昔から媚びてくる女性が苦手な私への配慮だと思う。それから、昔の話だが王家の跡継ぎに何かあって? あれ、なんだっけ……」
「過去に何かあったお世継ぎ様がいらしたのですね?」
「そう。確かそうだった。その時の反省としてあらゆる教育の全ては個々に合わせるようになったと。無理をして跡継ぎを作れない精神状態になるのも最悪だからという話らしい」
「指南役は不要とのお考えですか?」
はっきり聞き過ぎたかも知れない。
ミネアの言葉にロベルトは真っ赤になったり青褪めたり忙しい。けれど、感情が消えているよりはいい。まだこの子の心は壊れていない。ミネアはそう安堵した。
「しなっん、やく…………あ、ああ。そうだ」
「では、媚薬を盛ったのは侍女やその者の家の独断でしょうね」
「恐らく。初日は薬が合わなかったのか具合を悪くした。すぐに医師が来て解毒されたが熱を出すわ嘔吐するわでそれどころでは無かった。
次の日は私の前日の様子を見ていたから薬が減ったのか変えられたのか、習ったばかりの状態に……教わった通りになった。無理に、その……興奮させられた時の状態に、教科書に載っていたような感じだ。すぐに侍従を呼ぼうとしたがその前に見慣れない侍女が来て……」
カップを持つロベルトの手が震えている。
ロベルトの手に触れないようにそっとカップを持つと、ミネアは音をたてずにそれをソーサーへ戻した。
そのミネアの手が離れていく前にロベルトは慌てて、けれどそっと握る。咄嗟の行動だったがミネアは抵抗も動揺も見せず、ロベルトは何度目になるのか分からない安堵の息をこぼした。
「爛々とした目が近付いて来るのが恐ろしくて、私は窓から飛び降りた」
「お怪我は!?」
「いつも部屋から抜け出す時に使っている木に飛び移ったから問題無い」
問題しかない。なんだその行動は。
「すぐに側近と衛兵達が来て侍女は捕らえられ、侍従達も来てくれたんだが……その晩、私は木から降りられなかった。とても部屋に戻る気にも他の部屋へ行く気にもなれなかったんだ」
一晩中、夜着で木にへばりついていたのだろうか。
笑いたくなってきたけれどここで笑ってはいけないと、ミネアは必死に口の中を噛む事で堪えた。
絶対に笑うな、私。むしろここで笑えてしまうとか最低だろう、私。なんで笑いが込み上げてきているんだろう。自己嫌悪。
そんなミネアの表情が自分を案じてくれているように見えて、ロベルトはこれまでこの婚約者をおざなりにしていた己を恥じた。
国の為なら相手は誰でも良かったのが本音だ。
けれど同年代の女性達の我の強さに疲れてうんざりもしていた。
そんな中で決められた婚約者は、必要以上に近付いてこない。それどころか本来であれば必要と言われる所まで少し足りないくらいで、それでもロベルトからしたらちょうど良い距離感を保ってくれていた。
しかしどうだろう。今のようにロベルトの都合で近付いたと言うのに、必要分を返してくれるこの対応。
どちらも義務で共にあったと思っていたが、これは思っていたよりも自分は愛されていて大切に想って貰えていたのかも知れない。ロベルトはそんな盛大な勘違いをした。
自分に都合の良い方に考えるのは思春期男子の専売特許である。
「お風邪は召されていません?」
「ああ。侍従がせめてと毛布を渡してくれてそれに包まっていたし、薬のせいか体中が暑くてな……」
「お元気なようでしたら何よりです」
「うん。ああ、ありがとう。それでだ、実行犯を捕らえられた事もあり、尋問は父上が主導して迅速に行われた。侍女の実家の捜査は勿論、その家の本家から傍系まで片っ端から捜査線上に上げられ、その家に関わる使用人はその日の内に私から遠く離された。護衛騎士も見張りの衛兵も増やされ、身の回りの世話は全て同性の侍従や側近に任せる事となった」
「お早いご対応でしたね」
「うん。けれど……けれど、今朝早く、その側近の一人が……女がダメなら男はどうだと言って、寝所に入って来たんだ」
ミネアは頭を抱えたくなった。ロベルトに手を握られていなかったら思いっ切り頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃにしていたかも知れない。
あんまりだ。これは酷過ぎる。何がしたいんだ最近の貴族は。
「幼い頃から傍に居た、昔は泥だらけになって游んだ事もある側近だったんだ……。いち早く駆け付けて侍女を捕らえてくれた側近だった」
どうしようとミネアは泣きそうになった。最早かける言葉が見付からない。
これは人間不信になる。
全て同じ人物が黒幕かは分からない。けれどこうも連日となるとロベルトが一気に追い詰められたのも致し方無いだろう。
女嫌いなら男をと考えた短絡的思考の持ち主をミネアは心から恨んだ。
「寝台の上で揉み合う私達に気付いた護衛達がすぐに救出はしてくれたが、その……前日は夕食を摂る気にならなくて抜いていて、今朝は空腹で目が覚めた。その側近が軽い食事を持って来てくれたんだが、そこにもまた薬が入っていたんだ。
護衛も衛兵も他の側近も、誰も彼もが嫌になって全員を部屋から追い出した。何でも良いと簡単に着られる服を着て、馬に乗ってあちらこちらをがむしゃらに走り回って……薬が切れた頃、もう王宮には戻りたくなくて気付いたらここへ来ていた」
「それでそんなに軽装でしたのね。お寒くはありませんか?」
「少し。さっきまで薬のせいで暑かったが、疾走していたのも合間って汗をかいたからかやや冷える」
「お風邪を召されてはいけませんね。マル、何か羽織りを持って来て」
「只今直ぐに」
「ミネア……私は怖いんだ。もう怖いんだ。食事を摂るのも、眠るのも、誰かと居るのも」
俯いたままミネアの手を握るロベルトは、何かに縋りたくて堪らなかったのだろう。心細くて、誰も信用できなくて。
それこそ、自分に興味の無い婚約者が一番安心できるほど。
「ご希望であればお父様に掛け合って我が家に滞在できるよう取り計らってみます。お世話は私が致します」
「君が……?」
「私は貴方様にさほど興味の無い婚約者ですもの。私が襲われる事があっても逆はありません」
「ふはっ……。そこ、はっきり言ってしまうんだな」
「嘘偽りを述べたって仕方無いでしょう? 王宮が完全に安全だと陛下が確信できるまで、それから殿下が戻っても良いとお気持ちが安定するまで、ごゆるりとお過ごし頂ければと存じます」
「……許されるだろうか」
「許されるよう取り計らいます」
力強く揺るぎないミネアの笑顔をしばし眺めてから、ロベルトはおもむろに頷いた。
「宜しく、頼む……」
「承知致しました」