『小説家になろう狂い』・・・PV数(閲覧数)と評価に関する、自己内考察
『小説家になろう狂い』
・・・PV数(閲覧数)と評価に関する、自己内考察
㈠
PV数(閲覧回数)と評価ポイントだが、これが全く一致しないのである。不可思議の一言に尽きるが、自分の場合、この2つの傾向が現れる。PV数はかなり増えるのだが、評価を得ていない。評価を頂いていいるのだが、PV数が伸びない、この傾向がある。勿論、PV数、評価ともに頂いている場合もあるのだが、どちらかというと、上記した2パターンに分かれることが多い。どういう意味合いで、こういった傾向が現出するのだろうか。
類推ー評価を得ている作品になると、何回も閲覧しようと思わなくなる。
〃 ー何回も閲覧していると、評価を殊更問題にせずに、読みたいように読もうと思う。(評価意識の消失)
こういう考えに至ることになる。勿論、この類推は類推なだけであって、確実でないことは明白だ。読者のことを操れるはずもなく、自分はただ、良いと思った作品をのせるだけだからだ。
㈡
或いはまた、ほとんど評価が0に近いにも拘らず、かなりのPV数を得ている場合だとか、ほとんど読まれていないのに、評価だけは相当貰っているという場合も在るだろう。ものごとは、思い通りにはいかない、つまりは、この一言に尽きるだろう。すべてがうまくいく世界などありはしないのだ。それでも、やりがいとして、我々はこの小説になろうにおいて、PVと評価を増やそうとしている、何と浅はかで愚かなことだろうか。しかし、それが目標になっていくのは、全くと言っていいほど、当然のことなのだ。
この浅はかで愚かという心的現象は、必ずしも作品の内容と一致はしない。その心的現象は、小説を書くものなら、誰でも持っている、欲求というものだ。だから寧ろ、表現意識へと言葉が収束していけば、その表現が正しいだろう。欲求は悪いことではなく、執筆の対価として、自然と望まれる意識なのである。
つまりは、一番素晴らしい態度としては、PV数や評価を気にすることなく、自由気ままに書き、その後の現象として、PVと評価がもらえれば、更に嬉しいと言った意識の流れが良い。
㈢
PV数(閲覧数)と評価に関する、自己内考察として書いて来たが、しかし、この事柄に拘ってはいられないのだ。次々と作品を創造しなければいけない小説家になろうとしては、問題は別の点にあると言っても過言ではない、つまり、自分のカラーを持つということである。そういう、自分にしかない特色を持てるようになるということだ。そのスタイルは、タイトルや文体、使用単語、などに及ぶ話になるだろう。スタイルの確立、それこそが、此処で培われるべき問題性なのだ。
自己スタイルさえ確立していれば、自然と、PV数も付いてくるだろうとは思う。しかし、奢り高ぶってはいられまい、栄枯盛衰のこの世界では、いつ道を踏み外してもおかしくないからだ。要は、有のままの自分で書き続ける事、それがPV数(閲覧数)と評価に関する、自己内の考察を、狂いながら悩みから快楽の終焉へと導くだろうと考えている。