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ミルが死んでしまった。
血が出て、動かない。
僕の声が、届かない。
たった一人の家族。
僕の妹。
僕が守らなくちゃいけなかった。
だって、ミルは小さくって、なんにも出来なくて。
高いところから落とされただけで、死んじゃうんだ。
悪魔の家にやって来た大人は、全員悪魔だった。
可哀想なミルを蹴飛ばして、僕の髪を掴む。
意味の分からないことをたくさん言う。
僕があの悪魔に大切にされてる? そんなわけない。
僕の為に来るわけがない。
あの悪魔は僕からママとおじいちゃんを奪って、今度はその悪魔のせいでミルが死んだ。
許さない。絶対に許せない。
悪魔が生きていて、天使みたいなミルが死んじゃうなんておかしい。
こんなの間違ってる。
割れた窓の向こうから雨音が聞こえる。
雨は嫌い。
僕の家族が死ぬのは、いつも雨の日なんだ。
「おい、ガキ! 黙ってんじゃねえよ。お兄ちゃんに助けてぇって泣き付けよ! ほら!!」
背中を踏みつけられた。
通話機から悪魔の声がする。
『ツヴァイ、無事なのか?』
お前さえいなければ。
お前さえいなければ、こんなことにならなかった。
ママもおじいちゃんもミルも、こいつのせいで死んだんだ。
こいつらのせいで。
なんで、壊されなきゃいけなかったの。
僕の狭い世界に、どうして踏み入ってきたの。
どうして、殺されなきゃいけなかったの。
僕のたった一人の妹まで、どうして奪ってしまうの。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!!」
何かが僕の中で壊れて溢れた。
雨が吸い寄せられるように僕の周りで渦を巻く。
ばき、と通話機が壊れて、雨水の渦に飲み込まれていった。
「なんだ、このガキ!」
「魔法使いだ! 何だよ、こんなの聞いてねぇ!!」
「落ち着きなっ、魔法使いって言ったって、ガキはガキだ! 大したことな」
ぱん。
間抜けな音が一つ。
ミルが頬を叩かれた時より、痛くなさそう音だ。
目を丸くしたおばさんの口からでろっと血が零れる。
ああ、ばっちい。口からものを零すなんて、とても行儀が悪い。
おばさんは膝から崩れ落ち、そのまま起き上がらなくなった。
転がったライト。引き攣った悪魔たちの顔。可哀想なミル。
僕等に酷いことをした癖に、これっぽっちのことで悪魔たちは逃げ出そうとする。
ミルを逃がしてくれなかったのに、自分は逃げるなんてずるい。
渦が徐々に大きくなって、悪魔たちを追い詰めている間にミルを迎えに行く。
可愛い丸い頬がパンパンに腫れて、鼻や口の周りには乾きかけた血が固まっている。
「ミル・・・・・・ミル、ごめんね。いたかったよね、ごめん。ごめんなさい・・・・・・ごめん」
乱れた黒髪を撫でてあげても、ぎゅっと抱きしめても。
ミルは僕を見てくれない。
僕がちゃんと守ってあげられなかったから。
痛かったよね、怖かったよね。
ごめんねって何度も何度も謝った。
その間中、何故か悪魔たちも僕の真似をしてごめんなさい許して下さいと五月蠅かったけれど、聞こえない。
僕はミルの声しか、聞きたくないのに。
「おねがい、おきて」
僕にはもうミルしかいないのに。
「おきてよぉ・・・・・・」
聞こえてくるのは雨音と、自分の声だけだった。
離れるべきだ。
そう判断して暫く経った。
金と手を貸す大人さえいれば、あの兄妹は生きていけるだろう。
そこに俺が介入する必要性は低く、加害者が近くに居ては被害者は萎縮し、被害にあった時の感情や記憶を忘れられないかもしれない。
所詮は自己満足。
許されるはずもないのに、誠意のつもりで踏み込み過ぎた。
自己満足から来た自己嫌悪に苛まれながら、汚れた手を目の前に翳す。
こんなに汚れた手で触れて良い相手ではない。
守る手段は一つではないのだ。
あの子供達が怯えず、不自由なく暮らせるように、まず出来るのは俺が姿を消すこと。
里親を探すか。
それを望まないようなら、遠くへ。
父の目が行き届かないような田舎に家を用意しようか。
預金の残高と相談しながら、予定を組む。
父からの依頼以外の仕事を増やして、あの二人の口座を作って。
それから。
それから、通話機に着信が入る。
相手を確認せずに取れば、家政婦として雇った女からだったらしい。
『アインス、聞こえているか』
いつもの朗らかな口調とは違う。
嫌な予感がした。
「・・・・・・雇用主に、随分と不躾だな」
『雇用主だぁ? お前、状況を分かってないみたいだね。こっちにはあんたの大事な可愛い子供が二人いるってのにさ』
「何が目的だ?」
『話が早いね。そういうとこが腹が立つよ、少しは焦ったらどうなんだい』
「身代金か。それとも」
『どっちが上か、ちっとも分かっていやしない。ちょっと! 誰でもいいからガキの腕の一本、折ってやんな』
「おい!!」
『そうそう、そういう切羽詰まった声が聞きたかったんだよ』
けたけたと耳障りな嘲笑がいくつも響く。
ぎりっと歯を食い縛り、舌打ちを堪える。
「っ二人は関係ないだろう!」
『関係ないか決めるのはお前じゃない。ほら、ツヴァイくぅん? お兄ちゃんに助けてーってお願いしてみな?』
ツヴァイは喋らない。
なのに、助けを求めるなんて出来るはずがない。
「やめろ! 目的はなんだ! 俺への復讐か!?」
恨まれる覚えなら腐るほどある。
ありすぎて、一つ一つは記憶に残らないくらいに。
だが、俺の所業とあの幼い兄妹は無関係だ。
あの子供達はただの被害者でしかない。
鈍い音が聞こえた。
本当に小さな、聞き逃してしまいそうな呻き声を耳が拾う。
『おい、ガキ! 黙ってんじゃねえよ。お兄ちゃんに助けてぇって泣き付けよ! ほら!!』
苦しそうな呻き声と鈍い音が交互にする。
「やめろ、やめてくれ・・・・・・」
痛めつけられているだろうことは容易に想像出来た。
理不尽な暴力を振るわれる様が目に浮かぶようで、さぁっと血の気が引く。
助けを乞えと怒鳴る大人に対して、呻き声はどんどん小さくなる。
家政婦であった女は知っているはずだ。
ツヴァイはミルとしか話さない。ミルにしか喋らない。
いや、しないのではなく、出来ない。
出来ないように、俺が壊してしまった。
止まらない暴行と消え入りそうな呻き。
女の高笑いが混じり、軋む程の力で通話機を握り締める。
「頼む・・・・・・いや、お願いします。ツヴァイとミルに乱暴はしないでください・・・・・・」
『あはは! ようやく立場が分かったみたいだね。もういいよ、それ以上やったらソイツも死んじまう』
「・・・・・・っは?」
そいつ「も」?
それがどういう意味か、分かりたくなかった。
分かりたくないのに、女は俺に教えた。
『ああ、悪いね。あんたの理解が遅いから、お嬢ちゃんは死んじまったよ』
死んだ?
誰が?
「なんの、冗談だ?」
『口の利き方に気を付けな。あんた次第で次はお坊ちゃんの方も死んじまうんだよ』
軽く、言ってくれる。
ミルが死んだ? 俺のせいで?
おにいちゃん、と俺を呼ぶ声が蘇る。
賢い子だが、小さくて一人では扉を開けるのも苦労して。
たくさん食べられなくて残したおやつを、こっそり隠していたり。
年相応に夢中になって玩具で遊んで、疲れてそのまま眠ってしまう。
保護者を、家族を奪われて。
せめて、これからは幸せになるべきだった子だ。
あの日に見た笑顔は、目に焼き付いている。
もっと、笑って欲しかった。笑っていられるようにしてやりたかった。
「ツヴァイは、本当に無事なんですか」
喉から声を絞り出すと、女は大袈裟な溜息を吐いた。
『喋らないってのに、どうやって無事を確かめるってんだい?』
「せめて、俺の声が聞こえるようにしてくれませんか」
『我儘だね。まあ、いいよ。叫び声上げるまで痛め付けるよりは手間がかからないだろうしね』
「・・・・・・・・・・・・」
『ほら、お兄ちゃんがあんたと話したいんだってさ』
少しだけ、女の声が遠くなった。
どんな音も聞き逃さない様にと、通話機を耳に強く押し当てる。
「ツヴァイ、無事なのか?」
震えそうな声で祈るように呼び掛けた途端、ごごご・・・・・・と不気味な音が轟いた。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!!』
劈くような絶叫。
それがツヴァイのものだと気付いた時には、通話は途切れていた。
何が起こった。
聞こえてきた音だけでは見当もつかない。
少なくとも、現時点ではツヴァイは生きている。
俺が把握している情報は、たったそれだけだ。
帰らなくては。
漠然とそう思った。
此処から、あの家までの距離は遠い。
徒歩で数時間。交通機関を使っても2時間近くかかる。
完全に手遅れだが、その上で間に合う。間に合わないと考えると、迷う余地もなく後者である。
真っ直ぐに飛んでいけるならまだしも。
ふと浮かんだ案に、いつかの父とのやりとりが呼び起こされる。
「エルバはそれはそれは美しい碧色の髪と瞳を持っていてね、風の魔法が得意だったんだ」
「よく私を空へ連れて行ってくれた」
「空が飛べたら、とても良いと思わないかい?」
「高く高く」
「誰にも見えないくらい高く飛べば」
「どんな場所へだって、どこへだって行ける」
母のように、魔法が使えたなら。
一度だけ使った魔法は、子供達の家族を切り裂いた。
だが、今度はあの子達を救う為に、使えないか。
今だけで良い。あの子達の元に辿り着くまでで良いのだ。
顔も覚えていない母。
声も知らない母。
その力を求めた父。
父の息子である俺が、こうして力を求めることをどう思うだろう。
「母さん」
我儘で自分勝手ですまない。
だが、
「今だけ、力を貸してくれ・・・・・・っ」
願いが届いたのか。
たまたま、力が発動したのか。
すぐ側で風が吹き荒れた。
神様がいるのなら。
どうかお願いします。
僕の命をあげます。
僕の全部をあげます。
だから、妹を助けて下さい。
動かないミルの身体に縋って泣き喚いた。
ごめんなさい、おねがいします、ゆるして、たすけて、おねがいだから。
どんなことだってします。
なんだってします。
ミルさえ返してくれるなら、僕は悪魔にだって頭を下げます。
許せないけど許します。ちゃんと良い子にします。
雨音が邪魔だった。
雨がうるさいから、空の上にいる神様に僕のお願いが届かないんだ。
部屋の中にいくら水を取り込んでも、雨音は消えない。
ぷかぷかと呑気に水の中を漂っている悪魔たちは、ミルを助けてくれない。
だから、頭を下げない。絶対に許さない。
神様でも悪魔でもなんだって構わない。
ミルを助けてくれるなら、誰だって。
ぎゅっと抱きしめた小さな身体は、ちっとも動かない。
悲しくなってまた泣いた。お願いした。
泣いて、泣いて、声が枯れて。
じわじわと世界が歪んでいく。
僕の世界は狭い。とても、狭くなっていく。
壁に囲まれ、その壁の内側で満ちた水がどんどんと迫ってくる。
足先が水に触れた。冷たかった。
ああ、僕の世界は無くなってしまうんだ。
ミルの居ない世界なら、無くなってしまっても良い気がした。
ミルが居ないと退屈だし、何より寂しい。
一緒に居られないんだったら、もういいや。
ずるずると足が引き摺り込まれていく。
それに逆らう気は起きない。
「ミル」
ごめんね。
守ってあげられなくて。
痛い思いや、怖い思いをさせてしまって。
大好きだよ。
本当の本当に、出会った時からずっと、一番大好きだよ。
だから、最後にもう一度だけ。
「おにいちゃんって、よんでほしかった、なぁ」
瞼を閉じようとした時。
音が聞こえた。
何の音かと確かめる為に、身体を起こすと世界が。壁が壊れていた。
「ツヴァイ! ミル!!」
空から降ってきたのは雨ではなく、悪魔だった。
水も、水の中にいた悪魔達も、壁も。
全部まとめて吹き飛ばした悪魔は、僕とミルの元へ真っ直ぐ駆け寄って来て
「無事か!?」
無事なわけないじゃないか。
見てよ、ミルが死んじゃった。
お前のせいだ。お前が悪いんだ。
遅いよ、遅すぎるんだよ。
胸の内に溜まっていた気持ちを吐き出す為に、口を開く。
「ミルが、ミルを、たすけて! おねがい! おねがいだからっ!!」
出てきたのは、心の底からの願いだった。
悪魔は僕に返事をしなかった。
何も言わずに僕からミルを引き剥がすと、首に指を当てて、口元に耳を寄せる。
それから、大きく息を吐いて
「生きている。大丈夫だ」
「え」
「ミルは死んでいない。お前がミルを守ったんだ」
よく頑張ったな、と背中を叩かれる。
散々悪魔たちに蹴られたので、とんでもなく痛い。
痛い、けど。
「よかっ・・・・・・よ゛がっだ・・・・・・」
壊れた世界に雨が降る。
なのに、僕達は濡れることはない。
穏やかな風に守られて、僕の頬だけが涙で濡れていた。