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バケモノ姫の○○騒動  作者: 長野 雪
バケモノ姫の毒殺騒動
30/35

【小話】バケモノ姫の毛玉騒動

「まぁ、猫、ですの?」


 ユーディリアはニコニコと微笑むご令嬢に尋ね返した。


「えぇ、猫ですの!」


 差し向かいに座るのはミレイスに接するフェンブルグ領を治める公爵家の次女で、御年16歳と年も近い。早くからセクリア属国化を目指していたのだろうリカッロと、その計画初期から内通していただけあって、こうやってユーディリアとの交友を深めようと動いたのも早かった。

 親の思惑を知ってか知らずか、どこかふわふわとした喋り方で教えてくれるのは、セクリア貴族の間で流行しているペットの話だった。


「わたくしの家でも、3匹ほど飼っておりますの。美しい毛並みで見た目はもちろん手触りも格別ですのよ?」

「まぁ、そうなんですの。レ・セゾンでは、犬を飼っていらっしゃる方はおりましたが、猫を飼っていらっしゃる方はおりませんでしたわ。詳しく教えてくださる?」


 当たり障りのない答えを返しながら、ちらり、と目線を動かせば、動物が苦手のリッキーが両手で必死に×を作ってアピールしている。ベリンダは興味深げに頷いているが、馬や犬などパートナーとなれる存在としか触れ合って来なかった将軍は微妙な顔だ。


「たまに、粗相をしてドレスのレースをダメにしてしまうこともありますので、お母様は好きではないのですが、我が家では、お父様が大の猫好きですの」


 意外。最近ある理由で代替わりをしたフェンブルグ公爵は、葉巻と酒をこよなく愛する典型的な貴族と思っていたが、猫も愛していたとは。もみ上げとヒゲの区別もつかない顔からは想像できない。


「でも、最初に飼い始めたのはお祖父様ですの。引退されてからは特に、うちのフェルディのブラッシングに余念がありませんのよ?」


 もっと意外。あの額縁にきっちりと収まるような厳格を絵にした感じのお爺さんが、……無理やり引退させられてヘコんでいるだけなのでは? 属国化の条件として大半の貴族が代替わりを強要されたのは記憶に新しい。

 慈しんでいらっしゃるのね、と優雅に微笑むユーディリアは、猫に憧れがあるわけでもなかったし、とりあえず聞き流すことにする。


「きっとユーディリア様も、リカッロ様にお願いしたら、すばらしい猫を贈ってくださるわ」


 口元を隠していた指が、小さく震えた。


「だって、お二人はとても仲がよろしいでしょう? 政略結婚とは言え、お二人の仲の良さは本当にうらやましい限りですわ」


 まぁ、そんな、と謙遜するユーディリアの傍らで、無邪気なご令嬢は、わたくしがオススメするのは、やはり子猫から飼い始めることです……と猫談義を続けていた。



 ◇  ◆  ◇



『何か、変なことでも考えてるの?』


 藪から棒に尋ねて来たのは、彼女の相談役の一人、ベリンダだった。豊かな黒髪を惜しげもなく垂らし、どこか気だるげな様子でユーディリアの向かいに腰掛けている。


「変なこと? 別に何もないけれど」


 ユーディリアは真っ白なハンカチーフにせっせと春告げ鳥の刺繍を施していた。そのうち売りに行かないと、ハンカチーフだけで10枚の大台を超えそうだ。


『うーん。ちょっとおかしいのよね。―――猫の話?』


 ベリンダの言葉を聞き流しながら、ユーディリアはちっくりちっくりとエメラルドブルーの小鳥を刺していく。


『ユーリってば、ああいう愛玩動物より、犬とか馬とかの方が好みだもんね。将軍の趣味に毒されてるのかしら』

『随分な言い草じゃのぅ、歌姫殿』


 部屋の隅で素振りをしていたヒゲの老年は、口を挟むが手は動かしたままだ。


『お、お嬢様は猫を飼うつもりはないんですよ、ね?』


 おどおどと呼びかけるのはメガネの見るからに気弱そうな青年だ。


「もちろんよ、リッキー。猫をかわいいとは思うけれど、正直なところ刺繍の邪魔になってしまうもの」


 そうですか、とホッと胸を撫で下ろしたリッキーは、先ほどユーディリアが広げて上げた本を隅から隅まで眺めるのを再開した。

 小さな花を咥えた春告げ鳥ができあがったところで、プツン、と糸を切る。木枠から外そうと力を込めたところで、


『あぁ、リカッロ王子』


 ユーディリアの手から木枠が逃げた。バルコニーの硬い床にカタンと落下する。


『浮気を疑ってた、ってバレてから、何か構えてるもんね、ユーリってば。いやー、恋する乙女って感じでいいんだけどさー、そろそろ落ち着いてもいいんじゃない?』

「べ、別に、構えてるわけでもないし、ただ、結局、どうやって城下に出たかは言わなかったから」

『あー、例の抜け道の話よね? まぁ、そこは死守してもらって嬉しいんだけど、アタシも外出たいし』

『自分も町を歩くのは好きです。……あ、あと、ページめくって下さい』


 木枠を拾ったユーディリアは、そのついでにリッキーの目の前の本をぺらりとめくった。


『いざという時のことを考えた場合、王が抜け道を知らぬというのも、いかがなことかと思うがのぅ』


 どうやら将軍だけは異なる意見を抱えているようだ。


『えー? ヤダ、アタシもっと遊びたーい!』

『そ、そうですよ。生きた情報、噂を集めるためには、やっぱり町に出ないと』

『それを、王妃が自ら行う必要はないと思うが?』


 くやしいが将軍の話は正論だ。ユーディリアは刺し終わったばかりのハンカチーフをしまう。この内職ともお別れしないといけない時機が来たのかもしれない。


「―――将軍の言うことも、もっともなのかもしれないわ。全部お伝えした上で、リカッロに許可をお願いするべきなのかしら?」

「許可? 何のだ?」


 その声に、片付けようと思っていた木枠が、再び投身自殺をはかってカランと乾いた音を立てる。

 どこかヒヤリとした汗が首筋を流れる感覚に脅えながら、ゆっくりと声の主を見上げる。そこにはいつの間にか彼女の夫が立っていた。


「しょ、将軍? どうして―――」


 どうして教えてくれなかったのか、と後半の言葉を飲み込んだ。素振りをしていた将軍は少しだけ満足そうな表情を浮かべている。つまりは確信犯だ。2対1で劣勢となっていた「抜け道のことをバラすか否か」のお題に、あわよくばうっかり喋らせてしまおうと罠を張ってくれたのだ。こと戦略に関しては幾多の場数を踏んで来た将軍にかなう者はいない。リッキーは頭脳こそあれ実戦経験に欠けるからどうしても油断しがちになってしまうし。


「将軍がどうかしたか? 楽しそうに何を話してたんだ?」


 さきほどまでベリンダが座っていたイスに、リカッロが腰掛ける。バルコニーに置かれたこのイスとテーブルが久々に生者だけで正しく使われた。


「な、なんでもありませんわ。そ、そう、リカッロには関係のないことですの」


 手にした木枠を裁縫箱の下段に片付ける。妻の下手な言い訳を「へぇ?」と片眉を上げて聞き返す夫の強い眼差しに手が震えそうになった。


「―――刺さないのか?」


 追及を恐れていたユーディリアは、危うく「刺し終わったところですの」と正直に答えかけ、ぐっと飲み込む。小遣い稼ぎをしていたことは話せない。


「えぇ、道具を出してみたものの、良い意匠が思いつかなかったものですから。―――リカッロは、休憩ですの?」


 この時間は、書類と睨めっこをしているはずだったんじゃないのか、とささやかな非難を込めて尋ねると「今日は予想以上に仕事がはかどったんでな」とそっけない返事が返って来る。優秀なのはけっこうだが、それなら妻の部屋を訪問するのではなく、いっそ明日の分まで手をつけて欲しい、というのがユーディリアの切なる願いだ。


「まぁ、こうやって前触れなく訪問しとかねぇと、また嫁が城を抜け出し兼ねないからな」


 激しく動揺したユーディリアだったが、もう木枠が落下することはない。


「―――で、何の許可を取るって?」


 ニヤリ、と凶悪な笑みを浮かべるリカッロに、ユーディリアは将軍の計略とは反対に、敵前逃亡を選んだ。


(無理! 許可なんて取れっこない! ……でも、どうやってごまかしたら―――)


 すぅ、はぁ、と息を整える。


「今日、フェンブルグ公爵のご令嬢と話したのですけど、セクリア貴族の間では、猫を飼うのが流行しているのですってね」

「へぇ。猫、ねぇ」

「良い商人を紹介するから是非、と勧められたのですけど―――」

「飼いたいのか?」


 まっすぐな瞳に射抜かれ、ユーディリアはぐ、と詰まる。あれだけ自慢されてしまうと、何となく毛並みを撫でてみたい衝動にかられるのだが―――


「えぇ、少しだけそんな気もいたしました」

「別にそんなに構えなくても、飼いたいってんなら」

「猫が不憫ですから」


 ユーディリアは、小さくため息をついた。


「愛玩動物に同情か?」


 誤解している、と首を横に振る。


「猫は敏感な獣ですから、彼らの気配を察知して警戒を強めてしまうんです」


 一瞬、『彼ら』が指している者を理解できなかったリカッロだったが、すぐに目を逸らして肩を震わせた。


「別に、遠慮なく笑っていただいても結構ですわ」


 妻の言葉に従って遠慮なく声を上げたリカッロは「まったく、お前と話すと退屈しねぇ」とぼやいた。

 そうなのだ。

 猫というのは幽霊に敏感なものらしく、ユーディリアは猫にさわれた試しがないのだ。逃げられるか、威嚇されるか、震えられる。それ以外の行動をお目にかかったことがない。


(犬や馬は、そんなことないのだけど)


 はぁ、と悩ましげなため息をついた彼女を見て、リカッロがまた笑う。

 とりあえず、この危機は猫のおかげで去ったようだ、とどこか遠くで安堵した。



 ◇  ◆  ◇



「ごめんなさい、ちょっと作り過ぎちゃった」


 小さく舌を出した男爵家のご令嬢リディアに、店主であるソーンは「おやおや」と目を丸くした。

 いつもよりカバンが膨らんでいると思ったが、まさかこれほどとは思わなかったのだ。


「ちょっと最近、思い悩むことがあって、そうするとついつい針が進んじゃうの」


 カバンから出て来たのは小さめのポーチ、巾着、ハンカチ、共通点は全てに春告げ鳥が刺繍されていること。春告げ鳥と言っても判で押したような形ではなく、花を咥えていたり、つがいで居たり、巣を作っていたりと様々な意匠を凝らしてある。短期間で多くを作って来たわりにはその針遣いは精緻の一言に尽きる。売る側にとって見れば文句の付け所がない品々だった。


「さすがに図案を出しつくしちゃった。何か新しいモチーフないかしら?」


 にこやかに尋ねられ、そろばんを弾いていたソーンは「だったらデルビィの店に行ってごらん」と答える。ここまで良い品々を持ち込んでくれるある意味お得意様を、刺繍に飽きさせるのは商売柄避けたかった。


「先日、結構な量の糸を入荷したと言っていたから、実験的に仕入れた面白い色合いの糸もあるんじゃないかな。きっと創作意欲が刺激されるよ」


 ハンカチーフはワンポイントだから1枚あたりこのぐらいとして、びっしりと刺繍された巾着の値段に唸りながらも、ソーンは試算をリディアに見せる。原価+αの値がつけば構わないと思っているリディアは二つ返事で頷いた。下請けとして定期的に納めるのではなく、飛び入りの持ち込みだから、買い取ってくれるだけでもありがたい。


「ありがとう、ソーンさん。行ってみるわね」


 膨らみはなくなったものの、硬貨で重くなったカバンを持ち直し、男爵令嬢リディアは店主に手を振って別れを告げた。


『ねぇ、ユーリ。デルビィの店に行く前に、寄って欲しい所があるんだけど』


 リディアことユーディリアは、突然話しかけてきたベリンダに、口元を押さえて「どうしたの?」と限界まで小さな声で尋ねる。


『さっき、通りすがりの子達が話してたんだけど、サフラン通りの角に、新しい甘味のお店ができたみたいなのよ』


 あぁ、なるほど、とユーディリアは頷いた。ベリンダはこういう所に敏感なのだ。


「それなら、デルビィの店の後にしましょ? その後に書店にも寄るんだから、ちょうど通り道だし」


 順番は違えど、行けると分かったベリンダの顔が輝く。寄る場所が増えたユーディリアは、少しだけ早足で馴染みの店へと急いだ。相変わらずリカッロも警戒しているようなので、早めに帰るに越したことはない。


―――と、デルビィの店に入ったユーディリアは、新しく仕入れたという刺繍の図案集を開き、小さく苦笑いを浮かべた。


(猫、……ねぇ)


 様々な草花や家紋など、数多くの刺繍を手がけてきたユーディリアだったが、猫は刺したことがなかった。レ・セゾンでそういった需要がなかったこともあるけれど、セクリアでは一般的な図柄なのだろうか?


「ねぇ、猫の刺繍って結構あるの?」


 もはや顔馴染みになった店員に尋ねてみると「ちょっと微妙かもね」という言葉が返って来た。


「貴族や一部の商人の間で、猫を飼うのは一般的だけど、ああいう方々は注文が多いからねぇ」

「注文?」


 店員は肩をすくめて見せると、他にたいして客がいないにも関わらず、ユーディリアの耳に口を寄せた。


「自分の飼い猫に似せろとか、似せたとしてもやれ毛並みが違う、可愛さが写し取れてない、なんて苦情が出るのさ」


 なるほど、思い入れがあるから余計に注文が細かくなるのか、と頷いた。


「猫を飼っていない人はどうなのかしら?」


 湧いた疑問を口にすると、店員は「さぁ?」と肩をすくめて見せた。


『なに? 次は鳥じゃなくて猫にするの?』


 ベリンダに尋ねられ、静かな店内で答えるわけにもいかず、ユーディリアはうーんと眉根を寄せて考えるポーズを見せた。


(刺したところで、売れなければ話にならないんだけど……)


 結局、その図案集に加えて手持ちの少なくなったエメラルドブルーの糸などを買い足すことにした。


「ねぇ、お嬢さん。もし、猫の図案が気になるならサフラン通りのドートンって店に行ってみなよ。最近できたばかりなんだけど、評判の看板猫がいるのさ」


 出しなに声をかけられ、頷きつつベリンダをちらりと見た。どうやら、彼女が行きたがったのはまさにその店らしい。


「ありがとう。行ってみるわ。本物を見るに越したことはないものね」


 再び膨らんだカバンを片手に、ベリンダに急かされるようにドートンにやって来たユーディリアは、店構えを見て「あら」と呟いた。


「てっきり、店頭でお菓子を売っているだけかと思いましたのに―――」


 どうやら店内でお茶と一緒にお菓子を楽しめる場所だったらしい。こういった店にはとんと縁のないユーディリアは、恐る恐る中に足を踏み入れる。


「いらっしゃいませー」


 ヒラヒラと可愛らしいエプロンを揺らし、にこやかに応対に出た女性店員が1人用の席に案内してくれる。戸惑いながら店員の勧めてくれた焼き菓子とお茶のセットを頼むと、ほぅ、と息をついた。


『こういうお店、初めてだっけ?』


 隣で尋ねて来るベリンダに、小さく頷いて見せながら店内をぐるりと見渡した。

 昼を少し過ぎたばかりの時間のせいか、店内は思ったほど混んでいなかった。


『たぶん、もう少し時間が経つと、席がいっぱいになっちゃうんじゃないかな。結構人気みたいだし』


 ベリンダも満足げに店内を見渡す。ところどころで『あの壁掛けかわいー』とか『うーん、なかなか?』と装飾に批評をこぼしながら。


『…ひっ』


 もの珍しげについて来たリッキーが、小さい悲鳴を上げて姿を消した。

 何だろう、とリッキーが脅えるようなものを探し、―――すぐに気がついた。

 店員が忙しそうにキビキビと歩き回っているのを恐れもせず、ゆったりと我が物顔で歩くのは、栗色の毛並みの猫だ。長くふさふさした毛に包まれたモップのような尻尾をしゃなり、しゃなりと揺らして歩く様子に、店内の客の視線が集まっている。


(あぁ、これが噂の看板猫―――)


 衛生上どうかとも思うが、ここに集まる客はそれが目当てだろうから、文句も言わないだろう。

 ゆったりと愛想をふりまく猫は、こちらに目を向けて―――


「!」


 一瞬で尻尾をぶわっと膨らませた。


『あー、やっぱり、アタシたちのこと見えてるのかしらねー』


 隣でのんきな声を出すベリンダと、女の子だらけの店内に居心地悪そうな将軍を見ているのか、視線を逸らさずにじりじりと後ずさりして、看板猫はだっと逃げ出した。あぁ、と店内からため息が漏れるのを、ユーディリアは(ごめんなさいごめんなさい)と心の中で謝る。


『ちょっと、落ち込まないでよ、ユーリ』


 ほどなくクリームの添えられたパウンドケーキと濃紅色のお茶が運ばれて来たが、ユーディリアの顔はどこか沈んだままだ。


(やっぱり、猫は無理ね)



 ◇  ◆  ◇



「少し、気になるかしら?」

『でも、外からは特に変わってるようには見えないわよ? いいんじゃない?』


 先日のお忍びから一夜明け、午前中の日課となっている中庭の散歩をしているユーディリアだったが、今日は少しだけドレスの裾に仕掛けを施している。昨日手に入れた「エパソーテ」というハーブを、薄いタフタの端切れで作った袋に入れ、スカートの裾に軽く縫い付けているのだ。

 ベリンダに太鼓判を押してもらっているが、足を踏み出した時に、足首やその上あたりに違和感を感じてしまう。

 今日もまた隙を見てお忍びを敢行しようとしているが、予行演習とばかりに中庭の散歩で試しているところだった。


『ね、今日はこの辺りでいい?』


 ベリンダに促され、ユーディリアは身体を明け渡す。今日は紫陽花の植え込みの前で歌うことにしたようだ。

 自分の声から、自分のものではない歌声が紡ぎ出されるのに耳を傾けながら、ユーディリアは昨日のことを思い出していた。



「―――あっ」


 書店で気になる本を物色したいというリッキーに身体を貸していたユーディリアは、慌てて「しー」と彼に注意をした。

 静かな書店では、小さな声も響いてしまう。

 注目を浴びたことに気付いたリッキーは、「すみません」と周囲に謝ると、開いたままの本を指差した。


『何、これ……』


 それはエパソーテというハーブについて書かれた項目だった。風味の強いもののようで、下の方に書いてあるこのハーブを使ったレシピを見てもそれが良く分かる。豆料理に多く使われているようだが、唐辛子との相性も良いらしい。

 ユーディリアはさらに下の方に書かれた注釈に目を丸くした。


『どうやら、もう1箇所、寄る所が出来たみたいね』


 ベリンダの言葉に、ユーディリアは『そうね』と頷いた。

 エパソーテは、料理に使うハーブとして売られていたが、止血等に使われる薬草でもある。ただ、このハーブには1点、栽培に気をつけなければいけないことがあるのだそうだ。


『東方の国に木天蓼という薬があるそうなのですが、さすがにそれは手に入りませんし』


 リッキーは隣で誰に話しているのか分からない薀蓄を疲労している。


『ねぇ、リッキー。これって本当に効くのよね?』

『大丈夫、だと思います。こういうものは、生に近ければ近いほど効用は増しますから』


 リッキーは自信があるんだかないんだか分からない答え方をする。まぁ、いつものことだ。

 少し離れた場所に立つ将軍は―――町で試す前に、中庭で散策してみればいいと提案したのも将軍だ――どこを見ているのか分からないが、周囲を警戒しているようだ。一時期ならともかく、今はもう、それほど警戒する必要はないとユーディリアは考えているが、将軍はそうは思わないらしい。


『まぁ、これで裾から落ちたりしないと分かれば、またあの甘味屋さんに行ってみればいいのよね』


 歩く際に違和感があるぐらいなら、ユーディリアは我慢することに否はない。

 あまり一般的でない図案に取り組むのなら、やっぱり本物をとことん観察してからデフォルメしたいと思うのは、それだけユーディリアの中で刺繍と商売が結び付けられているせいだ。半端な仕事はしたくない。


(あそこの看板猫、ちらっとしか見られなかったし……)


 できることなら手触りが良いという話の毛並みも撫でてみたい。

 そんなことを考えていたユーディリアは、ふいに足首に違和感を覚えた。サラリ、と絹のような滑らかな何かが足に触れたのだ。


『まさか、糸がほつれたのかしら?』


 ベリンダも違和感に気付いたらしく、歌を止めて足元に視線を移した。


「っ!」


 それはベリンダの声だったのか、ユーディリアの声だったのか。


「ちょ、と、何で……?」


 いつの間にか身体の主導権を持ち直したユーディリアは、自分の足元にいるものを見て、呆然と呟いた。

 彼女の足に身体を擦りつけ、ドレスの裾に鼻を近づけているのは、黒と白のまだら模様をした猫だった。慌ててしゃがみ込んだユーディリアが手を差し出すと、そこに猫の方から顔を寄せてくる。


「うなぁん」


 声に誘われて後ろを向けば、茶虎の猫が植え込みの陰から姿を見せた。


「な、なんで中庭に猫がいるの……?」


 逃げる素振りどころか好んで寄って来る猫たちに、弾む気持ちを押さえて周囲を見渡す。いつの間にかリッキーは逃げていて、将軍やベリンダもどこに行ったか姿が見えない。いや、二人は随分離れたところからこちらを見物していた。脅えられても困るから遠慮してくれたのだろうか。


『ユーリ! ちょっとヤバいかもー』


 ベリンダが大声を張り上げる。


『何かねー、中庭にたくさんいるみたいー』


 ベリンダの言葉に、始めこそ首を傾げたユーディリアだったが、すぐに状況を把握した。

 いつの間にか彼女は10匹近い猫に取り囲まれていたのだ。さすがにここまで集まると、かえって怖くなる。

 すっくと立ち上がり、彼らを踏まないように気をつけながら早足で移動する―――が、猫はどうやら諦める様子はなく、後から後からついてくる。


(か、かわいいんだけど、ちょっと怖い……!)


 どうして城の中庭に猫がいるのかは分からないが、まさかここまで効果があるとは……!


「ユーディリア様……!」


 突然途切れた歌声に異変を察知したのか、巡回中の二人組の兵士がバタバタと近づいてくるも、目の前の光景にぎょっとする。

 にゃーにゃーにゃーにゃー!

 逃げる獲物を追う勢い、とまではいかないが、早足のユーディリアを逃がさないように猫たちは先を争って歩く。


「おい、網かカゴを持って来い……!」

「なんで城内に猫が!」

「うわ、服に爪が引っかかった!」


 応援の兵士まで到着し、結局、収拾までに四半刻ほどかかることになってしまった。


(た、助かった……)


 中庭のベンチに腰を下ろし、ユーディリアは弾んだ息を整える。そもそも逃げる必要もなかった、と気付いたものの、既に遅い。


「―――何の騒ぎだ?」


 地の底から響くようなその声に、疲れきった足を踏ん張って逃げたい衝動にかられる。


「その、中庭に10匹ほどの猫が現れまして……」

「ユーディリア様を追いかけておりましたので、すべて捕縛した次第です」


 兵士が報告するのを耳に入れつつ、ユーディリアは(わたしは空気、わたしは空気)と唱えた。無理だと分かっているが、こっちに気がつかないで欲しい。


「猫ぉ?」


 急いで運ばれて来た木箱や洗濯カゴの中に、今、猫10匹がぎゅむぎゅむと詰まっていた。不満そうに声を上げている猫もいる。


(それにしても、いったいどこから猫が……)


 ようやく整ってきた息と、まだ少しだけ早い鼓動を押さえながら、ユーディリアはゆっくりと顔を上げた。


「申し訳ございません!」


 突然、謝罪の言葉を叫んだのは、賄い方をしている若い娘だった。


「その鈴を付けている雉模様の猫、私の猫なんです! 家で留守番させるのが可愛そうで、つい、昼間はこの中庭に―――」


 ブルブルと震えながら、それでも罪を告白する娘の目線には、洗濯カゴで窮屈な思いをしている一匹の猫がいる。赤い首輪に鈴を付けた様子は、確かに野良猫ではない。


「すいません、オレもです!」


 次いで罪の告白をしたのは、兵士の1人だった。


「つい勢いで猫を飼ったものの、どうして良いか分からなくて、中庭に置いて世話してました。黒白で鼻にヒゲっぽい模様があるのが、ウチのミミちゃんです!」


 頭を深く下げる兵士に、リカッロの口元が引きつったのが見えた。


 ちなみに、最終的に庭師を含む計10名が猫を中庭に放し飼いにしていたことが発覚した。

 自白順に、リン、ミミ、ニャコ、マルグリット、くるみ、オヤジさん、ブランカ、カナル、グリーナ、トール三世。

 罰は揃って減俸である。

 その後、中庭の一角に猫ゾーンを作る計画が練られているらしいが、まだ実現には至っていない。



 ◇  ◆  ◇



「……ふぅ、ひどい目にあったわ」

『まさか、中庭にあんなに猫がいたなんてねー。セクリアって猫好き多いのかしら』

『じ、自分はもう、中庭に行きたくないんですが……』

『儂は知っておったが?』


 騒動もひと段落し、部屋へ戻ったところで、口々に事件の感想を述べる。


「え、将軍、今、知ってた、って?」


 聞き捨てならないセリフに、ユーディリアは半分透けた老将軍に問いただす。


『あぁ、知っておった。じゃから試したらどうかと勧めたんじゃが?』


 はぁ?とガラ悪く聞き返したのは、ベリンダだ。


『ちょっと、将軍? 知ってたならどうして教えてくれなかったの?』


 ホントにびっくりしたんだから!と詰め寄る歌姫に、どこかおどけた表情で『まぁまぁ』といなす。


『儂もここまで上手く事が運ぶとは思わなかったものでな』

「え、上手くって、何が―――」


 ユーディリアの声が途切れたのは、荒々しく階段を上がってくる靴音が耳に飛び込んで来たからだ。


バタン


「ユーリ、話がある」


 扉を開けるなり荒々しく言い放ったのは、眼光鋭く顔の傷で怖さ4倍増しの旦那様だった。


「ま、まぁ、リカッロ。いったいどうなさったの?」


 脱兎のごとく消え失せたリッキーに恨めしげな視線を残しつつ、ユーディリアは動揺をできるだけ抑えて答えた。


「つい最近、お前の口から猫に避けられると聞いたばかりなんだが?」

「うふふ、何のことでしょう? 思い違いではありませんの?」


 とぼけて見せた妻に対し、極悪な笑みを浮かべたリカッロは、その両手で妻の両頬をむにむにとつまむ。


「いい加減にしねぇと、毎日オレのかわいい兵士どもと一緒に、訓練にぶち込むぞ?」


 やばい、本気の目をしている、とユーディリアの血の気が引いた。


『ほうほう、これは願ったり叶ったりじゃのぅ』


 後ろからやけに上機嫌な将軍の声が聞こえる。まさか、将軍はこうなることを予測して……?

 そこまで考えたところで、ユーディリアは将軍の意図に気がついた。

 将軍が作りたかったのは今、まさにこの状況だ。今回のことで露見するのは、中庭の猫の件だけでなく、ユーディリアが再び城下に繰り出したということ。


(まさか、抜け道のことをリカッロに白状させられるきっかけを―――?)


 頬をむにむにとし続ける夫から逃れるために首を振れば、どこか満足そうな笑みを浮かべる将軍が立っていた。


「まさか、将軍、そこまで計算して―――」


 問い質そうにも、リカッロに「よそ見すんな」と両頬を挟まれる。


『さて、兵と鍛錬するのも構わんぞ? それとも全てを暴露するか?』


 思惑に気付いたことを察したのだろう、もはや計略を隠そうともせずに将軍は笑う。

 目の前には怒髪天を突く夫。後ろには謀略を巡らせる相談役。

 ユーディリアは逃げ場のないことを悟り、がっくりと肩を落とした。



 ◇  ◆  ◇



 その後、城内で働く者達の間から貴族へと伝播した噂がある。

 いわく、ユーディリアはその妙なる歌声で猫を呼び寄せることができる。とか。

 他でもないユーディリア自身が、その噂の火消しに奔走することになったのはまた別の話である。


エパソーテ:メキシコ料理なんかに使われるハーブ。刺激臭強め。

なのですが、どうやらマタタビ的効能はない模様。


↓以下言い訳。

マタタビから調べていったのですが、類似効能のある草で「イヌハッカ」「キャットミント」「荊芥」が出てきました。

「荊芥」がアリタソウの別名、ということでアリタソウを調べたら「エパソーテ」という単語が出て来て、んじゃこれ使うか、と思ったのですが、どうやら別物だった模様。

「荊芥」はシソ目シソ科。「エパソーテ」はナデシコ目ヒユ科。

書き上げた後で気付いたので、修正も面倒になってそのまま載せました。


木天蓼:猫まっしぐらなマタタビのことです。


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