⑧
目が覚めるとカビの匂いのする、コンクリートがむき出しの部屋に安藤は寝かされていた。
背中に硬い所で寝転んでいる感覚があったので、床に寝かされていると安藤は思っていた。だが起き上がってみると錆だらけの簡易ベッドに寝かされていたことが分かった。
これと言って目立った物はないが、ホコリと空のペットボトル、後は飲み捨てられた酒瓶が床に捨てられていた。
安藤はベッドから出て立ち上がると、服装が制服から入院患者が着るような病衣になっていることに気づいた。
切断された左手には包帯が巻かれていた。
立ち上がると、目眩がした。それに足元がおぼつかなかった。今まで何をしていたのだろう、と記憶を辿ると、東のことが頭に浮かんだ。
あぁ、東を盾にして生き延びたのだった。そう思うと、やるせない気持ちになるが、不思議と悲しくは無かった。
周りの音に集中すると、テレビの音がするのが聞こえた。その音がする方向を見ると扉があった。扉を開けると、青色の作業服を着た男がソファーに座ってテレビを見ていた。男の座っているソファーは所々布が切れ、中のスポンジが見えるほどボロボロだ。
「すいません。ここはどこですか?」
安藤の声で初めて人がいたのに気づいたとばかりに、一瞬肩を上げてから安藤の方を見た。男はAR眼鏡をつけていない。
「ああ、起きたのか。ノンチョーカ」
それだけ言うと、再びテレビを見始める。洋画を見ているらしく、ブロンド色の髪をした女性がドッドッドと言って笑っている。
「僕は……安藤遼です」
「その名前はメシアが与えた偽りの名前だろう」
メシアという単語に安藤は驚いたが、テレビからいきなり洋楽が流れ、それにも驚いたため言葉を出せなかった。
「こんな映画はここ以外ではあまり見ないだろう。それともネットにある動画サイトで見たかい?」
辺りを見回しても座る場所などない。仕方なく、安藤は作業服の男の傍に行くと立ったまま話した。
「こんなに能天気な映画は観たことがないです。それよりもメシアを知っているのですか?」
男は再びテレビから目を離し、安藤を見て笑った。
「知っているもなにも、メシアのメンバーさ。それにメシアは大人ならば一部の業種の人間ならば多くが知っている組織さ。まぁ、俺は改造屋だからツァラトゥストラの製造には直接関わっていけどね。でも、ツァラトゥストラ計画には参加しているよ。現在進行形でね。ノンチョーカ」
ノンチョーカと言われて、何かと疑問に驚いた。だが自分がセーフティ・チョーカをつけていないアンドロイドだから、ノンチョーカなのだ、と分かった。
安藤はノンチョーカと呼ばれるのは不満だった。ニヒが言ったような違法アンドロイドという呼ぶ方と同じ意味だからだ。
「どうしてノンチョーカと呼ぶのですか? ツァラトゥストラでも良いのでは?」
男は哀れみの目で安藤を見る。
「ツァラトゥストラは俺たちメシアの理想だ。お前は味方の人間を盾にした。理想像であるツァラトゥストラを簡単に壊されないために、自己防衛のための殺人行為を可にするという、大原則を弄った製作者にも問題がある。だが、それは許されることではない」
男は手に持っていたペットボトルで水分補給をすると、話を続けた。
「人々の理想であるべきだったお前は、自身に敵対する物ではなく仲間を殺してしまった。それはツァラトゥストラを作ったチームが望む理想像ではない。人を導くモノは理想のために立ちふさがる敵を倒すかもしれないが、共に歩む友を倒すことはない」
男が言葉を止め、安藤を凝視する。まるで、反論があるか問うように。
安藤は何も言わず黙っていると、再び男が話し出す。
「お前が寝ている間にメシアの幹部達が話し合い、お前からツァラトゥストラの名を剥奪することが決定された。今のお前は名無しだ。だからノンチョーカとしか呼べないというわけだ」
「ならば、安藤遼でも……」
男は呆れたようにため息を吐く。
「そんなに名前が大切か。安藤遼は偽名だ。そんな思考回路を持っているとは、ツァラトゥストラへはまだまだ到達していないという訳だな」
安藤は自分の存在を全て批判されたような気がした。
「でも、ノンチョーカ以外でも……」
「なら何と呼ばれたい。お前だと分かるモノだ。俺のセンスでは人でなしとか人だった何か、しかない。言っておくが違法アンドロイドは駄目だからな。俺の仕事はアンドロイドの改造だ。違法アンドロイドはわんさか周りにいる」
安藤はノンチョーカという名を認める以外、言葉を返せなかった。
「ノンチョーカで構いません」
自分を人間であると信じるどころか、存在を示す名前までなくなり自分という存在は一体なんなのだろうか。そんな疑問を抱くと。こんな状況に追いやったニヒへの恨みが募っていく。
「さて、ノンチョーカに相談だ。いや交渉と言ってもいい。実はメシアは君を破棄したいらしい。君が寝ている間に俺にメシアからデータ収集の命令が来て、データを吸い出した。後は人を傷つける可能性を秘めた危険なアンドロイドがいるだけだ」
男は安藤の顔色を伺うように、言葉を切って安藤を見る。安藤の顔は心配で青ざめていた。
「だが、破棄以外に君にメシアが望むことが一つある。それは君を襲ったニヒという人物の殺害だ。俺としてはニヒを殺してもらえたほうが嬉しい。なんせ、君を改造できるからな。理想を叶えるために、作られた高級品を弄れるなんて、愉快だろう」
男は口を釣り上げるように開き、下品に笑った。
「どちらも嫌です。人を殺したくないし、殺されたくもありません」
人を殴るときの意識が薄れていく感覚を、もう二度と感じたくなかった。あの感覚が終わった後に来る、自分のしてしまった行為を見るときの後悔をもう感じたくはない。
東を犠牲にして生きていると思うと、心が暗闇に溺れてしまったかのように苦しくて、重い。そして、どうすれば良いのか分からなくなる。悲しくないのに、苦しい。
この苦しみをさらに増やすことをしてしまえば、自分が自分でない何かになってしまいそうで、安藤は怖かった。
男は口を歪めて笑う。
「そう来たか。随分人間的な発言だな、ノンチョーカ」
「人間的? 人間とはなんですか……」
安藤を信じると言い、最後には裏切った差別主義者の高田は人間だ。高田を嫌い、安藤を最後まで信じ、安藤が裏切ったブルーカラーの家の東も人間だ。言葉が訛っていて、乱暴な北野も人間だ。安藤を最初から最後まで犯人と言いながらも、手を出さなかったクラスメイト達も人間だ。皆違う。ならば、人間的とは人間とは何なのだろうか。人間ではないと言われてしまった安藤には、もうその答えは分からなかった。どれほど考えても、アンドロイドにとっての人間になってしまう。
「人間は自身の幸福を追求するモノだ。今のお前にとって、人を殺すことをせず破棄されることもない、それが幸福なことだろう?」
人間がそう言うのならば、そうなのだろう。ならば、人間として扱われていたときの自分は、人間的であったのだろうか。
人に優しくする。それが大事な感情だと信じていた自分は、人間だったのだろうか。
東の言葉が頭に浮かぶ。
『アンドロイドみたい』
自分はずっと人間ではなかったのだな。人間として扱われても、結局はアンドロイドとして生きていたのだ。
「僕はずっとアンドロイドだったのですね……」
「当たり前だ。アンドロイドが人間になることはない。頭のネジでも外れたか?」
男からしたら意味の分からない会話をしているのだろう。奇妙なモノでも見るかのような目で安藤を見ている。
「僕は東を盾にして殺しました。でも、悲しくないのです。ただ、苦しい。人間を殺してしまったというのに、僕は生きている。悲しむこともせず、人の犠牲の元で生きていて良いのだろうか? そう思うと、不安で苦しくて仕方がなくなるのです」
男は手を上げながら、大きな声を上げて大爆笑をした。
「面白いことを言う。お前は大勢の人間の理想であるべきツァラトゥストラとして作られた。理想像が人一人の死に動じず、常に理想であり続けられるよう。死者を悔やまないように作られたのさ。だが、人の死に影響されたということは、ツァラトゥストラ計画のメンバーが俺たちとは違う理想を追ったな」
男はボロボロのソファーの背もたれに寄りかかると、額に手を置いた。
「違う理想?」
手を額に置き、どこを見ているのか分からないが、男は淡々と答える。
「メシアの目標は『人間を更なる高みへと導く、人間を超えた超人の創造』だ。だが、この目標をどう達成するかで、メシアの中に二つの派閥があるんだ。分かるか?」
メシアという組織があることすらニヒに会うまで分からなかった。そんな安藤がその内部抗争を知るわけがない。ただ左右に首を振り、男が説明を続けるように促した。
「簡単に言えば、人間をどう高みへと導くかによって、派閥が分かれているんだ。一つは全てを愛し、全てに優しく接し、愛でる。優しさと慈愛の化身となり、人々からの羨望を集める。そして全ての人々が隣人となり愛し合うことにより絶対的平和を作る。それこそが人間が求める高みであるという考えだ」
優しさに包まれた世界。裏切ることも裏切られることもない優しさに包まれた世界。その世界に居られるのならば、自分の中に生まれた苦しみも不満も生まれることがなかった。何て素晴らしい世界なのだろう、と安藤は思った。
「そしてもう一つは、全てに対し誠実であれという考えだ。誠実で有り続けることにより、どれほどの苦難が現れようも、自身の誠実によって乗り越える。自身が望む高みへと自身の導き、全てを制覇し、人々からの多くの羨望を集める。そして全ての人々が誠実になるべきだという考えだ」
安藤には誠実という言葉から制覇という言葉が出てきたのか、理解できなかった。誠実に生きるということは、全てに真心で接せるということだ。私利私欲がない世界ならば、制覇などという言葉が出てくるはずがない。
「誠実に生きるのならば、それは前者と同じ優しさに満ちた世界になると思います」
男は額から手を下ろすと、目から発言の真意を読み解こうとするかのように、安藤を睨むように注視した。数秒の間、無言で安藤を見極め続け、男は天井を見ると独り言のように呟く。
「俺たちの理想はやはり生まれていなかったんだ……」
発言の真意が掴めず、安藤は怪訝な表情で男を見る。
男はしばらく天井を見続けてから、頭を下ろすと話を始めた。
「ツァラトゥストラ計画の製造メンバーの大多数が前者の慈悲の化身を超人と言っていた人間だった。俺は後者の全てに誠実であるべきだと考えている人間だ。もちろん俺たちの側の人間もメンバーにいた。だからここまで偽善に満ちた価値観に犯されているとは知りたくなかった。データを吸い出したときから分かっていたんだ。だが信じたくはなかった。まさか、ここまでとは思っていなかったんだ」
男は立ち上がと、手に持ったペットボトルを床に投げ捨てた。そして部屋の端にある冷蔵庫に向かう。
「全てに対して誠実になったとき、そこでは全てを乗り越えることが始まる。昨日の己を乗り越え、他人を乗り越える。そこに優しさは存在しない。ただ快活に行き、肯定的に覇の道を進むのだ。偽善に満ち溢れた反吐が出るような今とは違う、刹那的な世界。それこそが人類をより高みへと導くんだ」
冷蔵庫から新たにペットボトルを取り出すと、それを一気に半分飲む。はぁ、と男はため息をつくと、ゲップを出した。飲んだのは炭酸飲料だったらしい。
安藤は男が言った言葉の意味を掴むことが出来ず、何も言わずにゲップをした男を見る。
「さっき悲しむことをせず生きるのが、不安で苦しいと言ったな。その理由を教えてやろう」
炭酸飲料が入ったペットボトルで安藤のことを指す。
「全てに優しく接するということは、自己犠牲の元で成り立つことだ。その考えは、己をより貧しくし続けることを良いこととしなくてはならない。その価値観を持っているノンチューカは東という少女への罪悪感を使って、より己を貧しくするために自身を苦しめているんだ」
確かに優しさは人間にとって大切な感情だと思う。だが、それは自己犠牲を良いこととして考えたことではない。
「そんなことはありません! 僕は自分を犠牲にして、生きてきたわけではない。それに、人に優しくすることが自己犠牲に繋がる意味が分からない」
男は再びソファーに座ると、肩を落とす。そして呆れながら言う。
「分からずやが。優しさが続けば、人はそれを優しさだとは思わなくなる。優しさを与え続けるということは、相手に都合の良いことを与え続けるということだ。それはいつしか優しさを与える人の都合の悪いことになる。そして貧しくなる。優しさを与えることを良いこととするということは、最終的に貧しさを求めることに繋がるのだ」
東は安藤をお人好しやアンドロイドみたいと言っていたが、そのときに行ったときの行動が、自分に不都合なことだったのか分からない。
「僕には分かりません」
「そうか……」
男は体の中に溜まった不満を吐き出すかのように、長く吐く。
「さて、本題に戻ろう。お前は死にたいか。それとも、さらに一人の犠牲を出してでも生きたいか。どちらだ?」
安藤は思った。東を犠牲にしてまで生き延びた命を、こんなすぐに散らすわけにはいかない。他人を犠牲にしてしまったのだから、何をしようともその人の分も生きる。それが東に出来る唯一の罪滅ぼしだと思った。
安藤は決意を固める。たとえ、無意識に操られた自分から覚醒するときに、どれほど惨状があろうともそれに耐えれば良い。東を殺してまで生き延びた自分の生を維持するためならば、何にでも耐えてみせよう。
「生きていたい。ニヒと戦っても構いません。ですが、死にたくはない。どうすれば、倒せますか?」
「そうか、それを技術者としての俺が喜ぼう。愉快で良い」
男は僅かに頬を歪めてぎこちなく笑う。
「技術者として?」
「技術者としてお前のような普通でないアンドロイドを弄れることは愉快なことだ。だが、俺自身の思想から理想とは真逆に生まれたお前を許せるか、といえば許せないという意味だ。だが、結局は意味のない感情だ。戦うためにはお前のバックアップサーバーを変更しなければいけない。そうすれば、記憶から感情が消える。そしてお前は新しい価値観の元で生きるようになるのだからな」
「記憶から感情が消える?」
記憶は記憶なのだからそこに感情があるというのは理解し難かった。
「俺はお前から記憶を吸い出した。だが、それは極めて客観的な事実だけだ。そこでどんな感情が生まれかなどという記憶は取っていない。バックアップサーバーを変えれば、お前は自身の過去を他人のアルバムでも見るような感覚でしか思い出せなくなるんだ。過去に対しての意識が変われば、その人の価値観が変わるというわけさ」
自分が変わる。その事実に安藤の決意が揺らぐ、自分が変わることは自分の死と同等か否か。そんなことを考える必要はない。自分が自分で無くなろうと、自分が東の犠牲の元で生き続けることに変わりがないのだから。
「そうですか。ニヒに勝つためにはバックアップサーバーの変更の他に何をすれば良いのですか?」
「お前の体を改造すれば、良いだけさ。アンドロイドは本来人間よりも丈夫な体と強い力を持っている。ただ、人と接すときは力が強く出力されないように制御装置が組み込まれている。その装置の排除と軍用アンドロイドが使用しているパーツをいくつか入れ、痛覚を切断するだけさ」
価値観も体も改造して、それでもまだ自分は自分でいられるのだろうか。ただそんな不安が、募っていく。
「そうですか。いつやるんですか?」
「早ければ早いほど良いな。出来れば今から準備して、すぐにでも改造しても良い」
ずいぶんと急ぐのだな、と安藤は思った。今ここにいる自分という存在の価値はそれほどまでに低いのだな。
「早いんですね」
「正規のバックアップサーバーに接続している限り、お前の情報はニヒ達に漏れるからね」
男は残った炭酸飲料をゆっくり飲む。
「彼らは何ですか?」
「分からない。違法アンドロイドは普通、警察の対アンドロイド部隊が行うが、それではない。警察ならばメシアの持ち物を襲ったりはしないからな」
「分からないのですか。分かりました。準備を始めてください。僕は犠牲にした東へのためにも、命を無駄にしたくはありません」
男は炭酸飲料を飲み終えると、それを床に投げ捨てる。ゲップを一度すると、テレビを消し、安藤が目覚めた部屋に男は行ってしまった。
安藤は自分という存在が変化することを恐れながらも、それが自分に訪れた罰なのだなと思った。