GIFT
十八世紀にもなるヨーロッパ。とある農村の外れにふるぼけた、草花の蔓に覆いまとわれた古城があった。居城するのは人間などではなく、ひどく発達した犬歯、鋭利にとがった耳を持ち、血を主食とする、おぞましい種族だった。
彼らは時々農村を襲う。襲っては若い女の首筋に歯を突き立て、血を食らう。村人はその異物に困り果てていたが、対して反抗するわけでもなく、ただただ大人しく人質として若い女を差し出すだけだった。
しかし、若い女達は異物を恐れ、次々に夜逃げを始めた。一人が逃げれば次の月にもまたひとり。その次の月には三人もの若い女が村を出た。いつしか村には男と老婆だけが取り残された。何年かして、村は深刻な嫁不足に見舞われた。悪い噂のたつ村に、訪れる物好きの女など誰一人としていなかったのだ。
ついに村の人々は異物の討伐にのりだす。そこで討伐を依頼されたのが、古城とは正反対の村外れに小屋を構える魔女だった。この魔女は自らが死ぬまでの永遠の安寧を約束された代わりに、村民が困ったときには助けなければならないという契約をしていた。その契約を守るべく、魔女は満月の晩に異物、吸血鬼の討伐に臨んだ。
一つの家屋に明かりを灯し、魔女は若い女の影を作り出す。この魔女は齢、二九〇の高齢だったが、容貌は二十歳前後で止まっていたままだった。吸血鬼の目を騙すことも容易である。今晩も吸血鬼が若い女を探す。しげみから、草と布のこすれる音が聞こえた。地を踏みしめる足音も聞こえる。
魔女は少し窓から顔を覗かせ、辺りの様子をみた。魔女の目は猫のように闇夜も見渡せる輝板が網膜の下に備わっており、外の景色は昼間のようにみえた。足音の主がありありと見える。黒色のシルクハット、同色のテールコートを着ているように思われる。胸元まで垂れる金色の髪がみえた。魔女は「あれが噂の吸血鬼か」と確信した。魔女の潜む家の扉が萎びた木材の音を響かせて開いた。木目の床を踏みにじる足音が、ぎしっ、ぎしっ、と近づいてくる。
「さあ、今日の生き血はどこだろうか」
案外高いトーンの声音がひとを嘲う。魔女は暗闇に潜みながら、右手に槌、左手に杭を握りしめ、吸血鬼の油断した隙を狙う。杭を吸血鬼の心臓に打ち立てると死亡すると言い伝えられている。
魔女は杭を心臓に打ち込むことで吸血鬼を殺そうと目論んだ。何しろ吸血鬼というものに何をすれば確実に死亡すると聞いたためしがない。魔女自身、吸血鬼が現れて村の女を食い尽くすというのは何百年も生きてきて何回も聞いたことがあったが、どのように退治しただとか、どうすれば村に訪れなくなったかなど、確信のついた話を耳にしたことがなかった。
その結果、普通の人間であれば完璧に死ぬであろう、心臓に杭を打ち立てるというやり方しか思いつかなかった。吸血鬼は家の中をうろうろと徘徊する。魔女はまだ、見つかっていない。吸血鬼は魔女の近く寸前まで来たところ、どうやら気づかなかったようで、後ろを振り向いて次の部屋に行こうとした。
その時、魔女は勢いよく立ち上がり、杭を持った左手を大きく振りかぶった。相手の動きを封じ込めればまずは満足。相手の動きを鈍くした後、もう一本の杭を心臓に打ち込めば良いだけである。しかし、物音に気づいた吸血鬼が反応して後ろを振り向く。まだ振り降ろし終わっていない杭は、何やら柔らかな感触にあたる。そう理解した瞬間、血液ではない液体が、杭の刺さった部分から飛び散る。
痛みを耐えたような、くぐもった吸血鬼の呻き声。うつむきさまに落ちるシルクハット。魔女の手にこびりつく、奇妙な、赤色とはちがう生暖かい体液。ぐりっ、と柔らかい、とろみのついた料理なんかをかき混ぜるような感覚が杭を動かすと伝って、一気に頭からつま先まで響き渡る。一瞬で魔女は理解させられる。自分の刺したものが、吸血鬼の左の目玉であるということに。
何百もの年数を生きてきた魔女も思わず血の気が引いた。なぜなら、魔女はひとを殺めたことがなかった。吸血鬼の姿かたちはひとそっくりだったのだ。獣しか殺したことのない魔女は驚きのあまり、杭を勢いよく引き抜く。杭はなかなか奥深くまで突き刺さったようで、杭の半分以上が目の中の体液にまみれていた。だらだらと血と体液の混ざった液体が吸血鬼の頬を伝う。壁を支えにし、思わずたちすくむ吸血鬼は、ぜえぜえと肩で大きく呼吸をする。
そこへ、吸血鬼の呻きを聞いたこの家屋の持ち主が、手持ちの蝋燭台を持って修羅場の部屋に現れる。もう一人の敵に気づいた吸血鬼は負傷した左目を押さえながらきっと魔女を睨んだ。蝋燭の灯火のせいで、魔女の顔が明るみになる。
「……なんて美しい」
ぽつりと呟いた吸血鬼の言葉は魔女の耳には届かず。魔女は怪訝そうにもう一本の杭を構えたまま、吸血鬼を睨み返す。そんな敵意に吸血鬼は不敵に微笑んだ。魔女にとってはとても不可解な行動だった。
「今日はもう失礼しよう。また、逢う日までいつか」
それが吸血鬼と魔女の奇妙な出逢いだった。この出逢いさえなければ、どれだけ幸せだっただろうか。しかし、それもまた運命だったのかもしれない。
* * *
吸血鬼の件が経ってから七日が経過した。村外れの魔女ことミランダは夕食のスープを煮込みながら七日前の夜を思い出していた。自分が目玉を抉った吸血鬼はまだ生きている。しかしながら再三、村を襲ったという話は聞かず、村は不気味な平穏につつまれている、とミランダは村人から聞いていた。
目的は吸血鬼の討伐なのにも関わらず、それを退治できず、むしろ自分に仇を成したのではないかと考えるとミランダはどうしても陽気ではいられなかった。
怪我を治して今頃は何をしているのだろうか。私を探しているに違いない。大事な目をひとつ使い物にならなくしたのだから。最後に何やら言っていた言葉も、大方恨み言だろう。ミランダはスープの味見をしながらそんな事を考える。ここ一週間ずっとそうだ。
仕留められなかった獲物はこれが初めてではないが、二九〇歳にもなるミランダにとっては老いを感じずにはいられなかった。魔女という種族は、姿かたちは若いものの中身にはそれなりにガタがくる。杭を振り下ろすのが遅かったのも、老いによって体の動きが鈍ったからだろうとミランダは自己分析する。
「こんなものかね」
味に納得がいった。お玉杓子を鍋に引っ掛けて器を取りにいく。食器棚には少しの器と皿があるだけ。殆どが自分用で、来客用はほこりを被って銀色の美しさは過去のものとなっている。
食器に手をのばした瞬間、こん、こん、とノックが二回家に響いた。ミランダは食器を取ろうとした手を止め、ドアへ向かう。また、ノックが二回。待つことを知らぬばかにミランダは少々苛立ちながらも、ドアへ。
ドアノブを右にひねる。開いた隙間から、気味の悪い青白い骨にただ必要最低限の皮をつけたような骨ばった腕が入り込む。それは僅かに開いたドアを押さえ、無理矢理力づくに扉を開けようと試みてきた。ミランダは執着が纏わりついたような手に思わず背筋が凍る。これはドアを開いて良いものではないとすぐに認識する。明らかに村人などではないことを察知する。ドアを必死に押し返すが、頼りなさそうな青白い手から生み出される力は隙間を保っていた。
自分の力だけでこの扉を閉めるのは至難の技だと判断したミランダはドアの横にあった暖炉用の短い薪を手に取り、それで思い切り侵入しようとする手を強打する。しかし、手の位置が少しずれただけで、再び手はドアを掴む。こんな時に黒魔術が使えればとミランダは常々思う。ミランダは魔女と言っても白魔女、害悪をもたらす魔術は使わない魔女で、他の者を苦しめる魔術は一切持っていないのだ。
ミランダの腕力にもそろそろ限界がくる。一瞬の隙だった、ドアを押す力が緩み、それを察した向こうの手は一気にドアを引いた。ドアはあっという間に満開にされ、ミランダは引力に押し出される。思わずその場に膝をついて転んだ。
「おやおや、大丈夫ですか? お怪我は、フロイライン」
顔を上げるとそこには七夜前に見た金髪の異物。左目は前髪で隠しているが、縫ったような傷痕が見えた。間違いなく、ミランダが杭を刺し損ねた吸血鬼だった。吸血鬼は中腰になってミランダに手を差し伸べる。
「近寄るな」
「おや。勘違いしていらっしゃるようですが私は貴女に敵意など抱いていません。むしろ好意を抱いています」
吸血鬼の言葉に思わず耳を疑うのはミランダだった。吸血鬼の喋る言葉に思考回路は混乱する。好意なんておかしすぎる。普通、刺された相手に好意など持つだろうか。
吸血鬼はミランダの手を勝手に取り、起き上がらせる。しかもローブについたほこりまで払うという不信感たっぷりなサービスつきだ。訝しげなミランダの表情は変わらない。
吸血鬼は被っていたシルクハットを取り、深々とお辞儀をする。その容貌は不気味に尖った耳や歯、趣味の悪い柄のアスコットタイやブローチを見なければ完全に紳士だった。
「私、ローラント・フィリップ・キュルテンと申します。ただの若輩者の吸血鬼です」
頭を上げ、にこやかにほほえむ吸血鬼、もといローラントはそう自己紹介を述べると、次には後ずさりする魔女の両手を掴み、握り締める。そして碧色の片目をミランダの碧眼に無理矢理合わせると、目を輝かせて喋り始める。
「蝋燭で照らされた貴女を一目見て思ったのです。美しいと」
「……は」
「明るいところで見ると貴女はますます輝いておられる。とても魔女とは思えない。まるで女神、アフロディアのように神々しい美しさを持っている。しかも私に立ち向かうという勇気。素晴らしい、才色兼備の女性だ」
べらべらと喋り続けるローラントは瞬きもせずにミランダを見つめて喋る、喋る。ローラントの言葉に圧倒されて思わずきょとんとするミランダは頭の整理が追いつかない。少しだけ理解したのは、べた褒めされているということだけだった。
ずいっとミランダに顔を近づけるローラント。その面相は端麗であるものの、顔色は病人よりも青白く、不摂生が隅から隅まで行き届いていそうな顔立ちだった。ミランダの手が握り締められている手も、爪が長く、骨のすじと血管が浮き出てみえた。暖かみのない冷たい肌は寒空のこの季節には少々きつかった。
「非常に突然で申し訳ないのですが」
そう言うとローラントはポケットから正方形の若干厚みのある、柔らかな素材の箱を取り出した。片立て膝をし、箱を差し出す。
ミランダの方は疑いの眼差しでその一挙一動を見るが、武器を隠している様子も、攻撃のチャンスを伺っている様子もなかった。しかし、行動の全てが奇怪に包まれていた。
ローラントが箱を開くと、そこにはダイアモンドが飾られた純銀の指輪が収まっていた。光り輝く美しいそれは、魔女のミランダとは全く無縁のものだった。そんな絶品を思わず目の前に出されてぎょっとするのはミランダだ。思わず身をたじろぎ、煌々と輝く宝石から距離を置く。
しかしそんなミランダを逃そうとしないのがローラントで、しっかりと左手を捕まえ、手をのばさせる。そして、手の甲に軽く口付け。思わず身の毛がよだつミランダ。
「私と結婚してください」
突然且つ一瞬のことで何が何だかミランダに理解できるはずがなかった。二九〇の齢といえども、こんな経験は今までなかったのだから。ミランダは目の前に差し出された宝石と、求婚してきた吸血鬼に内心、激しく動揺したのだった。しかしそれからすぐに心を落ち着かせて、冷ややかな態度をとる。
「老婆をからかって楽しいかい。即刻立ち去れ、さもなければお前を叩ききってスープの肉にしてやろうか」
魔女は吸血鬼の手を払い退け、まな板の上に乗っかっていた包丁を手に持つ。
「貴女と共にいられるのならば、スープの肉にもなりましょう」
「狂ってる。きっとろくな死に方しないよ」
包丁の平を吸血鬼の心臓に当てて、くっくっくと不気味に笑う。
「貴女に刺されて死ぬのも良いですが、せめて血を頂いてからにしたいですね」
その夜からローラントは無理やりミランダの家屋に住み着き、ミランダは奇妙な生活を送った。完全に懐いてしまったローラントは昼夜、ミランダの身辺の世話をし、暇が出来れば婚姻をせがむ。その繰り返しの日々が続いた。当然、ミランダは結婚の申し込みなど軽くあしらってばかり。
ローラントが居着いた当初、ミランダはローラントを殺すチャンスを伺っていたが、いつの間にか情に近い感情が脳内を圧倒するようになり、いつしかローラントと暮らすのが普通ぐらいに思っていた。何の害もないなら側に置いておいても良いのではないかぐらいにも思っていた。自分の元にいて村にちょっかいを出さないなら良いのではないか。それも一種の解決であるとミランダは考え始めていた。
* * *
吸血鬼が魔女の家に住み着いてから五十の月日が流れた。すっかり食事の支度はローラントがするようになり、ミランダはなかなかの手持ち無沙汰だった。楽といえば楽なのだが、今まで自分ひとりでしてきたことを誰かにやってもらうというのは生活にぽっかりと穴があいたような気分になる。
「今日は貴女が好きなシュニッツェルですよ」
「なぜ好きだと断定できる」
「この間食べていたときに、『まあまあだな』なんて言っていたものですから」
自信たっぷりな笑みでそう微笑むローラント。呆れるミランダ。しかし好きだというのはあながち間違えではない。シュニッツェルは子牛の肉をバターで揚げ焼きしたもので、よくこの国で食べられるものだ。シンプルな味付けがミランダには好ましく、食べやすいので好きな肉料理のひとつだった。
「出来ましたよ」
皿に盛り付けられたシュニッツェルと、シンプルな小麦のパンがミランダの目の前に出てくる。暇つぶしに眺めていた本を閉じて、もう見慣れた吸血鬼の顔を凝視する。
「どうかしましたか」
「……毎日私の世話なんか焼いて楽しいか」
「ええ、とっても」
「わけのわからない奴だ」
「私にとっては貴女の方が不思議で仕方がない。私を追い出しもしないで家においてくれる。これは可能性があると思って良いのでしょうか」
恍惚とした瞳でミランダを見つめるローラント。そんなローラントをよそにミランダは小さく切ったシュニッツェルを口に放り込む。
ローラントの言う可能性とは婚姻のことだ。初めて結婚をせがんで来たときからローラントは諦めてはいない。それをミランダは適当にあしらうだけ。
「さあね」
「貴女はいつもそうやって答えをうやむやにする」
「お前は出ていけと言っても出て行かないだろう」
「はい」
当然のように答えるローラントに思わず溜め息が出る。しかし追い出さないはミランダのせいでもある。追い出す理由があまり見つからないのだ。村を襲ったから追い出せば良いのか。だが追い出せばまた村に危害が及び、またミランダが呼ばれ、吸血鬼退治を依頼されるだろう。ローラントは炊事も掃除もなんでもやってくれる。老骨には正直楽で仕方がない。好意に甘えきって生活しているのは事実だ。結婚だけを回避すれば、出て行かせる理由などあまりないのだ。
それに、好意を抱かれて嬉しくないわけではない。しかしローラントの望むことに至れるはずがないのだ。
何故なら、ミランダの余命は残り少ないのだから。
「……勝手にするといい。その代わり、人間を襲っては駄目だ」
「わかっています。私は貴女の嫌がることはしたくない。私は私の命数をかけて貴女を愛したいのだから」
ローラントの言葉に自然と傾いている自分がいることに、ミランダは気づいていなかった。知らず知らずのうちに許容していることにも、気付いていない、あるいは気づきたくなかったのかもしれない。誰かに情をかけ、愛することなど自分には程遠いことだと思っているのだから。
* * *
あの最初の夜から何週間、何ヶ月が経った今朝、ミランダが目覚めたときにローラントはいなかった。静かな部屋に、ひとりだけ。小鳥の鳴き声がはっきりと聞こえる程度の静けさ。周りを見渡して、気づいたのは台所のシチューの鍋だった。その上にメモ用紙がのせられている。寝ぼけ目を擦りながら筆圧の薄い細い文字を読む。「家に呼び出されたので戻ります」と記してあった。
ミランダはぐしゃりとメモ用紙を握りしめ、はあとため息を吐いた。何でため息をついたのかは自分でもわからなかった。ため息を吐いた自分にも何だか苛立ち、皿にシチューを盛る。食事を用意している間に、ぼんやりと「あの古城に住んでいるのは一人ではないのか」なんて事を思う。吸血鬼にも家族がいるのだろうか。そんなことを無意識に考えてミランダはシチューを掬って一口食べる。柔らかく煮込まれた鶏肉が歯で細かく擦られていく。味は悪くはない。少し薄味だった。
ぼんやりと朝食を摂っていると、ごん、ごん、と音の大きいノックが鳴る。ローラントのノックとは違う音がした。
「……はい」
「ああ、ミランダさん。最近、吸血鬼が来なくて助かっているのですよ。貴女の魔法のお陰でしょう。これ、今月分の食糧です」
「そうかい、それは良かった。毎月悪いね」
「いえいえ、これが約束ですから」
村からきた男は荷車から食糧を降ろし、家の前に置いて帰って行った。吸血鬼もといローラントはやはり村に訪れてはいないらしい。ミランダの知る限り、ローラントはここ何日、何週間も血を食らってはいない。吸血鬼が血を摂らなければどうなるのか、ミランダは知らない。
ただ、今までずっと求めてきた必要不可欠な麻薬のようなものを突然止めれば禁断症状などが出そうな気もするが。あえてそれに触れず、時を過ごしてきた。触れれば血を求められそうな気がして怖かった。老いても未体験なことにはまだ恐怖する自分をミランダは嘲った。
家の中に戻って適当に書物を漁る。百数十年も読んでいない本だらけの中から、生物に関しての本を一冊手に取る。埃を被っていたその本を開くと文字は掠れていた。読めないところが大半だったり、破れていたり、日焼けして品質が悪くなっている部分が多々あった。
椅子に座って、シチューを食べていたスプーン片手に本をぱらぱらと捲る。吸血鬼の項目を探す。きっとあるはずだ。
しばらくして吸血鬼の見出しを見つける。資料にもならない霞んだ絵。僅かに鋭利な耳歯がみえる。文章が長々と書いてあるような気もするが、ほとんどが解読不能だ。ところどころ読めるところを、目をこらし見る。
「…………」
…………手からスプーンが滑り落ち、皿に沈んだ。
* * *
更けた夜。蝋燭の火が一つだけそよ風に吹かれて揺らぐ。何の音もしない森の奥。そんな中にじり、じりと土踏む音。均一な音のノックがミランダの耳に響いた。錠は開いていた。侵入してきたのは金髪の吸血鬼。
「ちゃんと錠は閉めなければ。私ではなかったらどうするのです」
「お前だって侵入者だ」
「まあ、違いないですね」
ローラントはミランダの向かいの椅子に腰をおろす。テーブルを挟んで、薄暗いまま会話が始まる。どちらも生気の薄い顔をして。
「父がね、早く嫁を見つけろとうるさいのですよ。私としては貴女を隣に迎えたいわけなのですが、貴女は私を嫌いでしょうし。それに、貴女の寿命はあと僅かだ」
「そうだね。だからこそお前は早く此処を立ち去るべきだ。私など忘れて早く可愛いお嫁さんを見つけない」
「そんなこと、出来るはず無いじゃないですか」
どこか哀しそうに笑うローラントの笑みの痛々しさがミランダにも伝わる。こんなに突き放しても求婚してくる変わることのない自分に対する慕情をミランダは知っている。ローラントの恋情は本当だ、と断言はしにくかったが、日が経つにつれて疑いにくくなってきたのは事実だった。
しかし、結婚など出来ないのだ、ミランダは。余命僅かの独り身の老いぼれは、このまま死ぬことを望んでいた。それがローラントの幸せでもあると思っていた。
「私が婚姻の契りを交わしたいと思ったのは貴女ただ一人です。短い時間でも構わない。貴女の余命をください。私が、私が必ず幸せにします。私のただ一人の伴侶となってください」
ミランダは心が苦しくて仕方がなかった。ローラントが緊迫した声色で求婚するからではない。自分自身に隠している事があるからである。その事実は間違いなくローラントを苦しめるものであるからだ。きっと困惑するだろう。考え苦しむだろう。
しかし言わなければ突き放す事が出来ないと考えていた。ミランダは苦い顔をしたまま、重たい口を開いた。
「吸血鬼は、魔女の血が毒だそうだ」
「…………」
「お前、言っていただろう。婚姻にはお互いの血を飲む事が必要だと。しかしお前は、私の血を含んだ後、すぐに死んでしまう。だからお前は、私と結婚など出来ない。死んでは元も子もないだろう。だから、だから諦めろ」
息継ぎもせずに全てを吐いた。言いたかったを事全て言い放った。
ローラントはずっと下を向いて黙する。落ち込んでいたのか、何かを考えていたのか、ミランダは察する事が出来なかった。いくらかして、黙っていたかと思うと急に顔を上げるローラントは、奇妙かつ歪に微笑んでいた。
「そんな事で私との結婚をためらっていたのですか」
「そんな事って、お前は……」
「私は貴女のためなら死んでも構わないのです。最初に言ったでしょう、『貴女に刺されて死ぬのも良いですが、せめて血を頂いてからにしたいですね』と。愛した女性の血で死ぬことが出来るなんて、最高に素敵なことではないですか。禁忌とされている最高の美酒で死ぬことが出来る、私だけの幸せです」
ローラントの考え方はミランダとは違う。気狂いの考え方そのものだった。そもそも、危害を加えられた相手に恋するほどだ。最初から普通ではない。しかしそれを差し引いても、「死んでも構わない」なんて考え方をミランダは理解できなかった。死んでしまったら元も子もない。魔術でも人を蘇らせることは不可能だ。人は死んだら元には戻らない。
「……私はお前が理解できないよ」
「貴女と幸せになりたい、この私の思いさえ理解して頂ければ結構です」
「死んでなにが幸せだ」
「幸せになれるのなら、私は死も恐れません」
ローラントはそう言うと、椅子から立ち上がり、ミランダの後ろに立ち回る。血気のない冷たい手で、ミランダの左手をとる。片手で器用に箱を開ける。純銀の指輪が収められていた、あの箱だ。指輪を箱から取り出すと、ミランダの左手薬指に指輪をはめた。
「反抗しないのですか」
「どうせあと僅かの余命だ。好きにしろ」
そうですか、とだけローラントは言うと両腕でミランダの肩を抱きしめる。まるで割れものをさわるかのような柔らかい手つきで。ミランダの首元に顔を埋めて、楽しそうに笑う。一方のミランダは微動だにせず、冷静な中に少し困ったような感情を潜ませて、溜め息を吐く。
「今は婚約、ということにしませんか。身勝手ですが、私は貴女と少しでも多くの時間を過ごしていたいものですから」
「勝手にすればいい。お前が私の後追いをするのもお前の勝手だ。途中で飽きて姿を消すのもお前の勝手だ」
「貴女が死ぬ間際、それが私にとって至福の時です。姿なんて消すはずがない」
* * *
それからしばらくして、ミランダの一月もない命は刻々と燃え尽き始めていった。急に身体のなかが衰え始めてきたのだ。ベッドから起きあがるのもやっとの状態が続き、食事の時にはスプーンを持つ手が震える。激しく頭痛が起きては倒れそうになる。人間を助ける魔法は自分には使えない。ローラントはミランダの看病を続けるが、老弱は止まらず加速する。
やがて、ミランダはローラントに対して「私を殺せ」と妄言を吐くようになった。老いた自分が見ていられないのだ、この魔女は。我も忘れて、錯乱した瞳で死を願う。もがき苦しむ手はローラントの襟を捕まえ、揺すぶり、かすれた声で訴える。力も声も、なにもかもが弱々しかった。
そんな老いに狂ったミランダを目の前にしてもローラントが動じることはなかった。毎日まいにち、ただ単調にミランダの世話をする日々がローラントは続いた。それでもローラントは幸せだった。
ある晩、ミランダは狂いのない声音で尋ねた。「お前はつらくないのか」と。対して「つらくなんかありません。幸せですよ」とローラントは答えた。自嘲を含んだ声音で「ばかなおとこだよ」と呟いた。
そして、もがき苦しむなかではなく、正気のまなざしで言ったのだ。
「私を殺しなさい」。そう言ってやすらかに笑ったのだ。
この魔女というものは自我があるうちに死にたいらしく、それを望んだ。自分がこれ以上、衰えていくのがみじめで我慢ならないらしい。
ローラントは無表情で沈黙。それから笑って「わかりました」とあっさり答えたのだ。
ひとつのろうそくが灯る中、ゆっくりとローラントはミランダの首に手をかけた。まだ力は入らない。ミランダは死を恐れるどころかむしろ安らかに笑っていて、老けているとは到底思えないしわのない細い手でローラントの頬にふれる。
初めて出会った時に抉られた瞳、彼女を見初めた瞳にはとまらない涙がつたっていて、心苦しいローラントの気持ちは笑顔を浮かべていてもありありとわかった。
「私ははじめて恋をしました。貴女という女性に。そして今、婚姻を誓える」
「ばかげた話さ。結婚と同時に死ぬなんて」
「私にとって貴女の血は、これ以上ない最高の贈り物で毒ですよ」
「さようなら、ローラント。愛していたよ」
「さようなら、ミランダ。愛しています」
一気に力をこめた。頬からか細い手はすべり落ち、嗚咽がもれる、血の気がだんだん引いていくのがしめ殺している手を通してわかった。ローラントの右目からはぼろぼろと涙がこぼれおち、わけもわからず狂乱した声が部屋中に響く。まるで苦しむミランダの声を隠すかのように。
しばらくして、鼓動の響かなくなった首から手を離すと、もう息の音も小さな心音もなにもかも聞こえなくなった。
「……いまそちらにいきます」
笑って、首元に歯を突きたてる。口の中の赤いものを一気に飲み込む。喉を伝う心地よい感覚は久しぶりだった。
朦朧とかすむ意識のなか、ミランダの手を掴み、安らかにローラントは眠りについた。雪が降り積もる、冬のとある一日のことだった。