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限界トリプルワーカー、福引きで完璧美形執事を当ててあまあま生活が始まりました。

作者: 柏原夏鉈
掲載日:2026/05/21


カチ、と静寂に爪を立てるような小さな音がして、ドアの鍵が閉まった。


高坂蘭は、狭い玄関に崩れ落ちるように、うずくまり、靴を脱ぎ捨てた。


もう、身体の芯の芯まで疲労という名の重りが染み渡っている。


2LDKのマンションは、彼女の帰りを待つ者もなく、ただ冷たい闇と静寂の中に沈んでいる。


壁に背中を預けたまま、蘭は鉛のように重い瞼をこすった。


指先から伝わる自分の肌はカサついていて、それだけでまた少し、心が削られるような気がした。


壁に設置された細長い姿見に、窓の外から差し込む微かな街灯の光が反射して、彼女の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。


身長は158センチメートルほどで、全体的に華奢で細身なシルエット。骨格そのものが小さく、どこか儚げな印象を与える体型だ。


乱れた髪の隙間から覗くのは、本来なら20代前半の若々しさに満ちているはずの、しかし今は深い疲労の色を隠せない顔立ちだった。


大きく、やや切れ上がった涼しげな瞳は、その目元に薄黒い陰りを色濃く宿している。


念入りに塗り重ねられたファンデーションの下には、連日の睡眠不足が確実に刻み込んだ、消えないクマが潜んでいた。


すっと通った鼻筋と、小さく結ばれた薄い唇。


全体として都会的で整った容姿をしているものの、今の彼女からは生気が著しく失われており、まるで精巧に作られたガラス細工のようだった。


ふぅ、と胸の奥の澱をすべて吐き出すような、深い、重い吐息を漏らす。


その瞬間、彼女の脳裏に、今日一日の光景が、激しく、断片的にフラッシュバックし始めた。


誰もいない部屋に帰ってきたあと、いつもこうして今日という一日を思い出す。


それはまるで、脳内で行われる強制的なザッピングのようだった。


今日の出来事を切り取ったかのような各場面がチャンネルになって分割されていて、朝の一風景に意識を向けたとき、鮮明に再生されていく。


――朝。


まだ午前四時を少し回ったばかりの時間。太陽の光など微塵も見えない、濃紺の薄闇に沈む商店街を、蘭は一人で歩いていた。


彼女の足音だけが、コンクリートの地面に虚しく響く。


冷え切った朝の空気が肺を刺し、吐き出す息が白く濁る。


彼女が向かうのは、商店街を抜けた先にある、すでに不夜城のように活気の灯り始めた青果市場だった。


近づくにつれて、鼻腔を突くのは湿った土の匂いと、新鮮だがどこか生臭い葉野菜の強烈な香り。


そして、耳を聾するほどの轟音だった。


排気ガスを撒き散らしながら、狭い通路を縦横無尽に行き交うターレットトラックの甲高いエンジン音。


それに負けじと飛び交う、仲卸業者たちの威勢の良い、時には怒号にも似た荒々しい掛け声。


蘭は、使い古されてあちこちが擦り切れた、デニム生地の作業用前掛けを、腰の後ろできつく結び直した。


キュッと紐が腹部に食い込む感触が、彼女の眠気を含んだ身体に"仕事モード"への強制的な切り替えを告げる。


目の前には、市場の濡れたコンクリート床に山積みになった、泥付きの大根や巨大な白菜が詰まった段ボール箱。


水分を吸った段ボールは一箱で十数キロはある。


彼女の細く、白い、華奢な腕には明らかに不釣り合いな力仕事だった。


しかし、蘭は迷うことなく、その段ボールに手をかけた。


指先が湿った紙に食い込む。腰を落とし、全身のバネを使って、次々と台車へ移していく。


「ふんっ……!」


短い呼気。


最初の頃は翌日、筋肉痛で腕が上がらなくなったものだが、今ではもうすっかり身体が動かし方を覚えてしまっていた。


手慣れたものだった。


額にじわりと滲む汗が、目に入りそうになる。


蘭はそれを、袖を捲り上げた手の甲で、無造作に拭った。息をつく間もなく、今度は別の荷置き場へと走り回る。


不意に、背後から響いた明るい声。


「蘭ちゃん、おはよう。今日も相変わらず眠そうだねえ」


蘭が驚いて振り向くと、そこには商店街で長く続く八百屋を営む、恰幅の良い女主人が立っていた。


頭に手ぬぐいを巻き、いつも元気な笑みを浮かべている。


毎朝、仕入れのためにこの市場へ来ている彼女は、いつもこうして蘭を見つけると、声をかけてくれる。


「おはようございます……眠いです」


蘭は台車を押す手を止め、少しだけ背中を丸めながら、消え入りそうな声で応えた。


本当に、一歩歩くごとに意識が飛びそうなほど眠かった。


「ちゃんとゴハンは食べてるのかい?」


女主人は、蘭の目の下に定着しつつある影を見て、心配そうに眉をひそめた。


「まあ、食べられるときに」


「そんなんじゃ倒れちまうよ。きちんと眠れているのかい?」


女主人の言葉は、母親のような温かさを孕んでいた。


蘭は、少し気まずそうに視線を泳がせ、自分の泥で汚れた指先を見つめた。


「一応、3時間くらいは……」


「3時間!? 年が若いからって無理しちゃだめだよ! 人間、寝ないと頭がおかしくなっちまうんだからね。ほら、いつでも、うちに寄りな。売れ残りの野菜や、惣菜の残りを分けてあげるからさ」


「いつもすみません。ありがとうございます」


蘭の口元に、本物の、小さな微笑みが浮かんだ。


豪快に笑って、地面を揺らすような足取りで去っていく女主人の背中。


蘭はその大きな後ろ姿を、少しの間だけ羨望と感謝の入り混じった目で見送った。


そして、ふうっと短い息を吐いて、胸の奥の甘えを振り払うように、再び重い段ボールを持ち上げた。


――昼。


脳内のチャンネルが慌ただしく変わっていく。そして、場面が切り替わる。


街でも人気の洒落たヘアサロン。


空気は一変する。


漂うのは、高級なシャンプーやトリートメントが混ざり合った、華やかで甘いフローラルの香り。


耳に届くのは、リズミカルに空を切るハサミの金属音、何台ものドライヤーが吐き出す温風の音。


美容師。それが、高坂蘭の"本業"であり、彼女が誇りを持っている仕事だった。


今の彼女は、トレンドを取り入れたシックな装いに身を包んでいる。


髪は綺麗にまとめられ、完璧に施されたメイクが、先ほどまでの市場での泥臭さを、それこそ欠片も残さずに消し去っていた。


カルテを確認する数秒の暇さえ惜しいほど、蘭はサロンの床を忙しく立ち回っていた。


セット面に座る、長年の常連客である女性が、鏡越しに蘭を見て優しく微笑んだ。


「蘭さん、いつも指名いっぱいね。予約取るの大変だったんだから」


蘭は、鏡の中に映る客の瞳に向けて、柔らかな営業スマイルを浮かべた。


「ありがとうございます。お待たせしてしまってすみません」


「ううん、蘭さんにお任せすれば間違いないから。今日も全部お任せでいい?」


「お任せ、嬉しいです。今日は少し湿気が多いので、まとまりやすく、でも重くならないレイヤーを入れておきますね」


蘭は客の髪質を指先で確認しながら、プロの目付きに切り替えた。


「そうすると、朝のスタイリングもすごく楽になりますよ」


「それでおねがい。それにしても蘭さん、いつも元気で肌も綺麗よね。何か秘訣があるの?」


客の無邪気な質問に、蘭の手が、一瞬だけ止まりかけた。

だが、それを悟らせる間もなく、彼女は楽しげに小首を傾げた。


「ええ? そんなことないですよ。とにかくよく寝ることくらいですかね」


「やっぱり睡眠が一番なのね。私なんてすぐクマができちゃう」


「しっかり休むのが一番のご褒美ですよ」


(ウソばっかりね、わたしは)


蘭は、自分の心の声を、胸の奥深くにグッと押し込めた。


睡眠時間など、削れるだけ削っているのに。


肌の綺麗さは、単に高価なコンシーラーと、自身のメイク技術で徹底的に隠しているに過ぎない。


それでも、鏡の中の客が自分の技術で美しくなり、嬉しそうに目を細めて微笑む瞬間だけは、嘘偽りなく蘭の心の救いだった。


この瞬間があるから、自分はまだ正気でいられるのだと確信していた。


――夜。


またしても、チャンネルが乱暴に切り替わっていく。スピーカーからノイズが聞こえはじめ、画面がフラッシュしたかと思えば、きらびやかなネオンが灯る繁華街の一角が映し出される。


重いビルの扉を開けた先、大音量のポップミュージックが流れる空間。


蘭の声が昼のトーンよりもさらにワントーン高く、甘ったるい響きを帯びてフロアに響き渡る。


「お帰りなさいませ、ご主人様!」


ピンクと黒を基調とした、レースとフリルがたっぷりあしらわれた衣装。


魔法少女をコンセプトにしたカフェで、蘭は「ランラン」という名のキャストとしてフロアを飛び回っていた。


昼のシックなスタイリストの面影はどこにもない。


色鮮やかなカクテルをシェイカーでリズミカルに振り、オムライスにケチャップで魔法陣を素早く描き出す。


カウンター席の常連客の男が、ストローを咥えながら、呆れたように尋ねてくる。


「ランランちゃん、今日も出勤なんだね。いつ休んでるの?」


蘭は、両手を頬に当てて、わざとらしく小首を傾げた。


「えへへ、ランランは魔法使いだから、お休みしなくても元気いっぱいなんです!」


「いやいや、マジで倒れるよ? どうしてそんなに働くの?」


男の視線は真剣だった。


蘭は一瞬、カウンターに置かれたグラスの結露を指先でなぞり、それからイタズラっぽく微笑んだ。


「うーん、秘密です!」


「もしかして借金でもあるとか?」


男が冗談めかして言った言葉に、蘭は胸の中で小さく笑った。


「あ、バレちゃいました?」


「え、マジで!?」


男の顔が瞬時に強張る。その反応が可笑しくて、蘭はさらに言葉を重ねる。


「ウソですよ!……でも、本当のこと、言ったら、ひかれちゃうからなぁ」


蘭はわざとらしく視線を伏せ、衣装のフリルをいじる仕草をした。


「え、なになに? おれは大丈夫、ぜったいにひかないから!」


「ほんとですかぁ?……じゃあ、いっちゃいますね?」


蘭は周囲の他の客に聞こえないよう、注意深く辺りを見回す素振りをしてから。


お客に顔を寄せて、小さな声で呟くように言った。


お客は喜んで、顔を近づけてくる。


ふわりと、彼女のつけている甘い香水の匂いが男の鼻腔をくすぐる。


「う、うん」


「じつは――、男に貢いでるんですよ?」


その言葉が耳に飛び込んだ瞬間、男は弾かれたように椅子を鳴らした。


「ええっ、マジで!?」


「声が大きいですってば!」


蘭は慌てて人差し指を自分の唇に当て、困ったような表情を作って男を窘めた。


「ご、ごめん。でも、それってホストでしょ? うわぁ、ランランちゃんみたいな子が……」


男の目に、明らかな幻滅の色が混ざり合う。


「もう! ひかないって言ったのはウソですか?」


蘭は頬を膨らませて、怒るポーズをとる。


「い、いや。ひいてないよ! でも、そっか……」


男のテンションが目に見えて下がっていくのを確認すると、蘭は元気な声を作って、それを笑い飛ばした。


「あはは、冗談ですよぉ! 魔法のステッキの維持費が高いんですー!」


「なんだ、ビビらせないでよ。でも本当に無理しないでよ?」


「ありがとです! パワー、入っちゃいました!」


蘭は精一杯の両手ピースを掲げ、完璧なアイドルスマイルを男に捧げた。


――すべては夢のように過ぎていく現実。


脳内を巡っていたザッピングが終わり、蘭の視界に映ったのは、見慣れた、自分の部屋の薄汚れた白い天井だった。


玄関に座り込んだまま、彼女はしばらく動けなかった。


今日もいつも通りの、過酷で、嘘にまみれた日常だった。何一つ変わらない、変えられないループ。


「はぁ……」


重い腰を上げ、蘭は這うようにして廊下を進み、リビングへと潜り込んでいく。


ふと、部屋の隅に置かれた、プラスチック製の洗濯カゴが目に留まる。


中には、数日分の衣類が今にも溢れそうに山積みになっていた。


市場でついた土の匂いがするスウェット、美容室でのカラー剤の匂いが微かに残るシャツ、コンカフェの汗と香水が染み込んだ衣装。


せめて洗濯はしたいな、と蘭は思った。


洗濯機を回して、ベランダに干す。


そんな普通の丁寧な暮らしの真似事だけでも、今夜のうちに済ませておきたかった。


明日着る服の心配をしたくなかった。


しかし、カゴの取っ手に手をかけようとした瞬間、凄まじい睡魔の波が、津波のように彼女の全身を襲った。


視界が急速に狭くなり、立っていることすらできなくなる。


「……あした、やろう……」


そう思いながら、蘭はリビングにあるソファベッドへと倒れ込んだ。


もう寝室に向かう気力さえ湧かない。せめてメイク落としはしたいのに、そんな思考さえ億劫で、そのまま深い眠りへと落ちていく。



   ◇   ◇   ◇



その日、高坂蘭がいつも身を置いているヘアサロンは、穏やかな静寂に包まれる定休日。


週に一度、ハサミの金属音も、ドライヤーの温風も、絶え間ない客との会話もない、蘭にとっては数少ない「本業」からの解放日。


しかし、だからといって彼女の身体が休まるわけではない。


まだ太陽が昇りきらない早朝から、彼女はいつものように青果市場で泥だらけの段ボールを運び、華奢な身体に容赦のない疲労を蓄積させていた。


市場の過酷なシフトをようやく終えたのは、午前の中頃。


蘭は作業用の前掛けを外し、手早く私服のゆったりとしたスウェットに着替える。


そして、いつもの習慣として、活気付き始めた地元の商店街へと足を向けていた。


美容室がお休みの日の彼女のルーティン――それは、これからの過酷な一週間を生き延びるための、最低限の買い出しを行うことだった。


頭の上から降り注ぐ午前中の柔らかな木漏れ日が、アスファルトの道を斑に照らしている。


すれ違う主婦たちや、のんびりと歩く老人の姿。その日常の風景の中で、蘭は少しだけ歩調を緩めた。


寝不足のせいで視界の端がかすみ、頭の奥がズキズキと重く痛む。


158センチメートルの細身な体躯は、大きめのスウェットの中で所在なげに揺れていた。


切れ上がった涼しげな瞳は、今日もまた、深い疲労の影を色濃く宿している。


目的の八百屋の前に差し掛かる。


色鮮やかなトマトやみずみずしいキャベツの匂いに混ざって、聞き慣れた、お腹の底に響くようなダミ声が蘭を呼び止めた。


「お、らっしゃい! 蘭ちゃんじゃないか、今帰りかい?」


店先に並んだ平台の奥から、頭にタオルを巻いた恰幅の良い女主人が、大声を上げながら顔を覗かせた。


その手には、泥を落としたばかりの立派な大根が握られている。


「はい、そうなんです。市場の方が、さっきやっと終わりまして……」


蘭は足を止め、少しだけ細い肩をすぼめながら、小さく会釈をした。


愛想笑いを作るだけのエネルギーさえ、今の彼女には残っていなかった。


「そうかいそうかい、相変わらず頑張るねえ。じゃあ、いつも通り、これ持って帰りなよ」


女主人はそう言うと、足元に置いてあった大きなビニール袋を、迷いのない動きで蘭の前に差し出した。


その中には、少し形が不揃いなだけの立派なキャベツ、瑞々しいリンゴ、立派なジャガイモや人参が、隙間なくぎっしりと詰め込まれている。


「え……でも、いつも、すいません。こんなにたくさん……」


蘭は思わず半歩後ろに下がり、細い両手を振って固辞しようとした。


毎回毎回、このように無償で何かを受け取ることは、彼女のささやかなプライドが許さなかった。


「いいんだよ、気にするんじゃないよ! どうせ売れ残りだし、捨てるよりはよっぽど良いのさ。むしろ、あんたに引き取ってもらった方が、こっちとしても助かってるくらいなんだよ」


女主人は豪快にガハハと笑い、蘭の手に無理やり袋の持ち手を握らせた。


女主人はそう言うけれど、蘭にも分別はある。


こんなに栄養バランスが良く、しかも傷一つない新鮮な野菜や果物が、いつも都合よく、同じように売れ残るわけがない。


わかっている。


これは彼女なりの、不器用で、しかし底抜きに温かい「好意」なのだ。


最初は申し訳なさから頑なに固辞したこともあったが、この女主人の、台風のような押しの強さには、結局いつも敵わなかった。


「……ほんとうに、ありがとうございます。大切に食べますね」


蘭は袋のずっしりとした重みを両手で受け止め、深く頭を下げた。


胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされるのを感じる。


「イイってことさ! 若いお嬢さんが一人で頑張ってるんだ、これくらい大したことないよ。……そうそう! 忘れるところだったよ。今ね、この商店街の広場で福引きをやってるんだよ。これ、うちの分のチケット、あんたにやるよ。引いてきなよ!」


女主人はエプロンのポケットをガサゴソと探ると、数枚のカラフルな紙切れを蘭の前に突き出した。


「え、いいですよ。そういうの、私、本当に良いの当たったことないんで。他のお客さんにあげてください」


蘭は苦笑いを浮かべ、首を横に振った。


ただでさえ荷物が重いのに、これ以上寄り道をして体力を消費したくなかった。


何より、一刻も早く家に帰って、洗濯機を回してから、泥のように眠りたかった。


「いいからいいから! 運試しだよ、運試し。こういうのはね、欲のない人間の方が当たるもんなんだから!」


「本当にクジ運ないんですってば。どうせ引いたところで、ポケットティッシュですよ」


蘭はため息混じりに、チケットを見つめた。


「ポケットティッシュだっていいじゃないか! 腐るもんじゃないし、消耗品なんだから、いくらあっても困らないだろ? ほら、ぐずぐずしないで、景気づけに行ってきな!」


女主人は蘭の背中を、パチンと大きな手で叩いた。その勢いに押され、蘭はよろよろと数歩前に進み出る。


いつも新鮮な野菜を分けてもらっている恩人の言葉には、どうしても逆らえない。


それに、まあ確かに、ポケットティッシュでも、一人暮らしの身としては十分に助かる消耗品だ、と蘭は自分に言い聞かせて思い直した。


「じゃあ……ちょっとだけ、覗いてきます」


蘭は押しつけられた数枚のチケットと、ずしっと腕に食い込む重い野菜の入った袋を両手に持ち直し。


商店街の中央にある小さな広場へと向かった。


広場に近づくにつれて、賑やかな音楽と、カランカランと威勢良く鳴り響く真鍮の鐘の音が耳に届いてきた。


赤と白の縞模様の幕が張られた特設テントの前には、数人の近所の住民が並んでいる。


テントの中で、赤い法被を着た近所の商店街の青年が、威勢の良い声を張り上げて蘭を迎えた。


「はい、お姉さん。いらっしゃい! チケットある? お、1回分ね。じゃあ、回して回して!」


蘭は、重い野菜の袋を足元にそっと置き、無表情のまま、目の前に鎮座する六角形の木製の福引き機にゆっくりと手を伸ばした。


どうせ、出てくるのは白い玉だろう。


ポケットティッシュを貰って、すぐに帰ろう。


そして、少しでも長く、夜のコンカフェの出勤時間まで眠ろう。


それだけが、今の蘭のささやかな願いだった。


蘭が細い指先で取っ手を掴み、ゆっくりと回転させる。


カラカラ、カラカラと、乾いた木切りの音が静かな広場に響く。


やがて、コトンと小さな音を立てて、黄色いプラスチックの受け皿に、一粒の玉が転がり落ちた。


しかし、その玉の色は、蘭が予想していた"白"ではなかった。鮮やかな、見たこともない金色に近い輝きを放つ玉だった。


「え……?」


蘭が呆然とその玉を見つめた瞬間、法被を着た青年の動きが完全に硬直した。青年は目を丸くし、口を大きく開けた。


「あ、ああ、あああ――っ!!」


青年は突然、狂ったように手元の鐘を激しく振り回し始めた。


カランカラン、カランカランと、鼓膜を破らんばかりのけたたましい音が広場中に鳴り響く。

周囲の通行人が、一斉にこちらを振り返った。


「おめでとうございます!! 出た、出ちゃいました!! 特賞、高級執事派遣サービス・一ヶ月無料プラン当選です!!」


「……はい?」


蘭は、鳴り止まない鐘の音の中で、間の抜けた声を出すことしかできなかった。


頭の理解が、青年の言葉に全く追いつかない。


「いやぁ! マジで、本当に出るとは思わなかったです! 正直なところ、あのケチな親父が、予算をケチって最初からアタリを抜いてんじゃないかとみんなで噂してたんですけど……本当にちゃんと入ってたんだなぁ!」


青年は興奮冷めやらぬ様子で、額の汗を拭いながら、一枚の豪華な金縁の目録を蘭に手渡した。


「え、あの……執事……?」


「そうなんです! おれも詳しいことはよくわかんないんですけど、ほら、テレビとかに出てくる、家政婦の派遣サービスみたいなもんらしくて、家の掃除とか、洗濯とか、料理とか、なんでも完璧にこなしてくれるらしいです」


「それ、本当に……執事の格好をした人が、家に来て、何でもしてくれるってことですか?」


「そういうことみたいです! すごいなぁ、お姉さん、一生分の運を使い果たしたんじゃないですか? じゃ、手続きが必要なんで、ここに住所と名前、連絡先を書いて貰えます? こちらから手配しておくので、たぶん今日にでも、お姉さんのところに直接連絡来ると思いますから」


青年から差し出されたボールペンを握り、蘭は言われるがままに、簡易的な書類のマス目に自分の住所と名前を書き込んでいった。


その指先は、困惑で少しだけ震えていた。


書類を書き終え、目録を受け取りながら、蘭は心の中で深く、深い悪態をついた。


(何これ……めちゃくちゃ面倒くさい。こんな大層なものより、やっぱり普通に、ポケットティッシュの方が何倍も良かったよ……)


見知らぬ他人が自分のパーソナルな空間に入ってくることへの強烈な拒絶感と、手続きの煩わしさに、蘭の心は一気に冷え切っていった。


野菜の袋と目録を抱え、命からがらといった様子で自分の家へ戻った。


蘭は、玄関に靴を脱ぎ散らかしたまま、大きなため息をつきながら、やはりリビングのソファベッドへと倒れ込んだ。


2LDKの間取り。


一人暮らしには少し広すぎるこの部屋は、かつて別の生活を夢見て借りた名残だった。


でも、今ではただ、蘭の孤独と疲労を収めるための、ガランとした箱に過ぎない。


夜のコンカフェの出勤時間まで、あと数時間。少しでも、一分でも長く寝ておきたい。


でも、洗濯もしなきゃ。


でもでも、なんか気疲れしたので、少しだけ休憩しよう。


目を閉じて、じっと身体の力を抜いていると、意識の輪郭が次第にかすれていき――。


心地よい闇の底へと沈みそうになった、まさにその矢先だった。


ピンポーン、と。


静まり返った室内へ、遠慮がちではあるが、しかし明確な主張を持ったチャイムの音が響き渡った。


「うそ……、誰が来たの……?」


蘭はソファのクッションに顔を埋めたまま、小さく呻いた。


せっかく訪れかけていた睡眠のチャンスを奪われ、怒りと疲労で頭がどうにかなりそうだった。


しかし、チャイムは一定の間隔を置いて、再び律儀に鳴らされる。


蘭は鉛のように重い身体を無理やり引きずり、引きずるような足取りで玄関へと向かった。


ちらりと時計を見ると、すでに数時間が過ぎている。うとうとしてたつもりが、しっかり眠ってしまっていたらしい。


(うわぁ、洗濯しようと思ってたのに)


最悪の気分でドアの鍵を解錠し、勢いよく扉を開ける。


しかし、そこに広がる光景を目にした瞬間、蘭の不機嫌な言葉はすべて喉の奥へと引っ込んだ。


そこには、西日の中でも眩いほどの、目の覚めるような美青年が佇んでいた。


年齢は二十代半ばほどだろうか。


端正極まる顔立ちは、まるで一流の彫刻家が長い年月をかけて削り出したかのように完璧で、非現実的な美しさを放っている。


サラリとした漆黒の髪が風に揺れ、その奥にある切れ長の知的な瞳が、真っ直ぐに蘭を捉えた。


仕立ての良い、高級な黒の燕尾服を微塵の乱れもなく隙なく着こなし、その背筋は、まるで定規を当てたかのように美しく、真っ直ぐに伸びている。


「初めまして、お嬢様」


青年は、流れるような優雅な動作で、胸元に手を当てて深く一礼した。


その声は、低く、心地よく耳に響く、極上のバリトンボイスだった。


「……えっと、あ、あの……どちらさまでしょうか」


あまりの非日常的な存在感を前に、蘭は完全に気圧され、言葉を詰まらせた。


「本日、商店街の福引きの特賞に当選されました、高坂蘭様でいらっしゃいますね。当選の連絡を受け、急ぎ参上いたしました。本日より一ヶ月の間、お嬢様のお側にてお仕えいたします」


「あ、本当に、来た……。っていうか、いきなり来るんですね。事前の電話連絡とか、そういうのなしに。……でも、あの、ちょっと待ってください」


蘭は差し出されたあまりに完璧な現実に、慌てて両手を突き出して青年を制した。


「何か問題でもございましたでしょうか?」


青年は、少しだけ不思議そうに長い睫毛を揺らし、小首を傾げた。その仕草一つ取っても、絵画のように美しい。


(やばい。問題大ありだよ……。部屋が、信じられないくらい散らかってるのに!)


蘭は、自分の背後に広がる室内の光景を思い出し、背筋に冷や汗が流れるのを感じた。


「その、本当に、ちょっと待って貰えます? いきなりこんな風に来るとは思って無くて……、その、心の準備というか、ちょっと今は、家の中がマズイっていうか……」


蘭の視線は泳ぎ、言葉は完全に支離滅裂になっていた。


「左様でございますか。状況は理解いたしました。では、お嬢様の準備が整うまで、私はここでお待ちいたしましょう」


青年はそう言うと、一歩下がり、通路の壁際に、姿勢を正したまま彫刻のように佇んだ。


しかし、それを見た蘭は、さらに別の危機感を覚えた。


(いや、それもそれで、絶対にまずいよね!? こんなモデルみたいな目立つ男を、玄関先に立たせておくわけにいかない。お隣さんとかに見られたら、それこそ何事かと思われて変な噂が立つに決まってる……!)


蘭は頭を抱えたくなった。選択肢は二つ。このまま彼を追い返すか、それとも。


「……あの、確認なんですけど。掃除とか、家事全般、何でもしてくれるって……」


「ええ。お嬢様のご要望とあれば、清掃、洗濯、調理、その他諸々の雑務に至るまで、すべて完璧にこなしてみせます。どうぞお任せください」


青年は自信に満ちた、しかし決して傲慢ではない、完璧な微笑みを浮かべた。


(……じゃあ、どうせ掃除をしてもらうときに、部屋の中は見られるわけだし。こういうプロの仕事を専門にしてる人なら、少しくらい汚い部屋にも慣れてるよね? 背に腹は変えられない……)


蘭は大きく一つ深呼吸をし、諦めたようにドアを大きく開け放した。


「じゃあ……もう、入ってください」


「はい。恐れ入ります、お邪魔いたします」


青年は再び恭しく一礼すると、音もなく室内に足を踏み入れた。


彼を招き入れた室内は、言うまでもなく、目を覆いたくなるような惨状だった。


玄関から続く廊下には、昨日脱ぎ散らかしたままのタイツや、コンカフェの衣装のフリルが転がっている。


リビングに足を踏み入れれば、積み上がったファッション雑誌の山、床の至る所を埋め尽くす空のペットボトルやコンビニの弁当ガラ。


典型的な、多忙を極める人間の『汚部屋』そのものだった。


蘭は恥ずかしさのあまり、顔がカッと熱くなるのを感じながら、青年の表情を盗み見た。


しかし、その美しい執事は、眉一つ動かすことなく、ただ静かに、プロフェッショナルな鋭い視線で室内を観察していた。


彼の表情からは、嫌悪感も、侮蔑の念も、一切読み取ることはできなかった。


その冷徹なまでの冷静さが、逆に蘭の心を少しだけ落ち着かせた。


「あの、わたし、もう夜の仕事に行かなきゃいけないんだけど」


蘭が壁の時計に目をやると、針はすでに夕方の時刻を指していた。コンカフェへの出勤時間が、すぐそこまで迫っていた。


蘭の言葉に、青年はすぐさま彼女の方を向き、恭しく一礼した。


「左様でございますか。では、お嬢様がお帰りになるまでの間に、この室内のすべてを完璧に清掃させていただきます。……それと、お戻りになられる時間に合わせて、ご夕食の準備も必要でしょうか?」


「……好きにして」


蘭は、もう考えること自体が面倒になり、すべての判断を彼に丸投げすることにした。


どうせ一ヶ月だけの無料のサービスだ。大したことはできないだろうし、適当に片付いていればそれでいい。


「あ、でも、あの部屋だけは、絶対に中に入らないで」


そう言って、廊下に面したドアを指差した。寝室として使ってる部屋の向かい側。蘭さえも、もう長くその部屋には入っていない。


「承知しました」


「出来れば、洗濯もお願いしていい? 帰って来るのは――」


蘭は自分の帰宅予定の時間をぶっきらぼうに告げると、自分の汚部屋と、謎の美青年から逃げるようにして、家を後にした。


――深夜。


コンカフェでの長いシフトを終え、終電の冷たい空気に揺られて戻ってきた蘭は、心身ともに疲労困憊の極みにあった。


ヒールで酷使した足は棒のようで、笑顔を作り続けた顔の筋肉は強張っている。


重い足取りでマンションの階段を上り、自分の部屋のドアを開けた瞬間、蘭はそのまま完全に言葉を失った。


「……嘘、でしょ……?」


彼女の口から、掠れた声が漏れ出た。


足の踏み場もなかったはずの廊下やリビングは、文字通りチリ一つなく完璧に片付けられていた。


乱雑に散らばっていた服は跡形もなく消え去っている。


床のフローリングは、ワックスでもかけたかのようにピカピカに磨き上げられて、天井の照明を美しく反射している。


それどころか、どこからともなく、鼻腔をくすぐる食欲をそそる芳醇な香りが漂ってきた。


じっくりと肉を煮込んだような、深みのあるスパイスとハーブの匂い。


部屋の中心、綺麗に整頓されたリビングの、ダイニングテーブルの横に静かに佇んでいた。


仕立ての良い黒の燕尾服に身を包んだ、人形のように美しい彼が――。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

「……ただいま……」


蘭は、呆然と返すのが精一杯だった。


「改めて、自己紹介をさせていただきます。わたくし、今回のサービスで派遣されました、執事のレンと申します。本日より一ヶ月の間、誠意をもってお仕えさせていただきます」


レンは、昼間よりもさらに洗練された、深く優雅な一礼を捧げた。


その完璧な所作に、蘭は開いた口が塞がらない。


(……何これ。本当に、私の家じゃないみたい……)


夢でも見ているのではないかと、蘭は自分の頬をつねりたくなった。


「早速ではございますが、お嬢様のためにディナーの準備が整っております。どうぞ、こちらへ」


レンが滑らかな手つきで示したテーブルの上。

蘭がこれまでの人生で、テレビでしか見かけたことがないような、豪勢で美しい料理の数々が並べられていた。


絶妙な火入れで美しいピンク色を残したローストビーフ、香ばしく焼き上げられた魚介のポワレ、色鮮やかな季節の野菜が美しく盛り付けられたサラダ。


(すごい……めちゃくちゃ美味しそう……。でも……)


空腹の胃袋が、不意にグッと鳴った。


しかし、それと同時に、彼女の中に潜む鋭い警戒心とプライドが、一気に頭をもたげた。


こんな美味い話が、世の中にあるわけがない。


「これ……、これだけの料理、一体いくらかかったの?」


蘭は冷たい目線でレンを射抜いた。


「どうぞ、お気になさらないでください。食材の調達費を含め、すべてわたくしの独断であり、費用はわたくしが負担いたします」


レンは、微塵も表情を崩さずに答えた。


「……あなたが負担? なぜそんなことをするの? おかしいでしょ」


「お嬢様にお仕えする執事ですから。お嬢様に最高の心地よさを提供することが、わたくしの役目でございます」


その言葉を聞いた瞬間、蘭の細い眉がさらにきつくつり上がった。彼女の心の中に、拒絶の炎が燃え上がる。


「馬鹿にしないで」


蘭の声は、低く、冷徹な響きを帯びていた。


「貴方との契約、福引きの景品は『執事派遣サービス』のはずよ。そこに、こんな豪華な食材代まで含まれてるわけないでしょ。どういうつもり? 私を騙して、あとから高額な請求でもする気?」


「いえ、決してそのようなことはございません、お嬢様」


レンは初めて、その美しい眉を僅かにひそめた。


「はっきりしておくわ。わたしは、誰からも、どんな形であれ『施し』を受けるつもりは無いの。そんな惨めな真似、死んでもしたくない」


「これは施しなどでは……」


「八百屋のおばちゃんがくれる売れ残りの野菜とか、そういう純粋な好意なら、ありがたく受け取るわ。でも、あなたのこれは違う。同情よ。汚部屋の様子を見て思ったんでしょ? まともなものを食べてないに違いないって。それは同情。好意じゃない。わたしは、あなたに養われるつもりなんて毛頭ないのよ!」


蘭は拳をきつく握りしめ、身体を震わせながら言葉をぶつけた。


彼女のこれまでの人生は、誰にも頼らず、自分の力だけで立ち続けるための闘いだった。


その根底を、この完璧な男に揺るがされるのが怖かったのだ。


「……」


レンは何も言わず、ただ静かに蘭の怒りを受け止めていた。


「費用はすべて私が払う。今日の食材費も、あなたの交通費も、その他にかかった雑費も、一円単位で細かく計算して、すべて私に請求して。領収書を見せなさい」


「……」


「それができない、請求しないって言うなら、今すぐこの部屋から出ていって!」


蘭は玄関のドアを指差し、声を荒げた。室内の空気は、今にも破裂しそうなほど張り詰めていた。


沈黙が、二人の間に重くのしかかる。


やがて、レンはゆっくりと、静かに長い目を伏せた。


「お嬢様」


「……何よ」


「お嬢様のご意向、そしてその気高いお覚悟、確かに承知いたしました。わたくしが、お嬢様のプライドを傷つけるような、差し出がましい真似をしてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」


レンの言葉には、不思議なほど実直な響きがあった。


「わかってくれたならいいわ。私はただ、対等でいたいの」


「ええ。今後、このような独断での出費は一切いたしません。明日以降の経費についても、すべてわたくしが細かく取りまとめ、一円単位で正確にご請求させていただきます。それでよろしいでしょうか」


「ええ、そうして。それがルールよ」


蘭は少しだけ溜飲を下げ、腕を組んだ。


「しかし……その上で、大変な無理を申しますが……この、今夜の食事だけは、どうか、わたくしに振る舞わせていただけないでしょうか」


レンは再び、蘭の目を真っ直ぐに見つめて言った。


「……どうして? 払うって言ってるじゃない。お金ならあるわよ」


「これは、お嬢様が福引きで見事に特賞を引き当てられた、その素晴らしい『幸運』への祝福でございます。そして、このように芯の強い、素晴らしいお嬢様にお仕えできることになった、いわば記念すべき今日という日への、わたくしからの感謝の気持ちでございます。どうか、この祝いの席を、わたくしの不手際で台無しにさせないでいただきたいのです」


「……感謝?」


「はい。ですから、どうか」


レンは三度、深く頭を下げた。


その姿勢はどこまでも美しく、そして彼の瞳の奥には、蘭が最も嫌う「同情」や「憐れみ」の色は、微塵も見当たらなかった。


そこにあるのは、ただ一人のプロフェッショナルとしての、純粋な敬意だけだった。


その真摯な姿と、胸に染み入るような響きの良い声に、蘭の身体から、張り詰めていた肩の力がすっと抜けていくのがわかった。


これ以上拒絶するのは、逆に自分の器の小ささを見せるようで、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてきたのだ。


「……いいわ。せっかくの料理が、このまま冷めて不味くなるのもイヤだしね」


蘭は小さくため息をつき、降伏の印として、ダイニングテーブルの椅子を引いて席に着いた。


「でも、こんな風に甘えるのは今日だけにして。それと……あんたも、そこに座って食べなさい」


蘭の突然の言葉に、レンは僅かに目を見開いた。


「いえ、執事がお嬢様と同席して食事を摂るなど、そのような非礼は……」


「わたし一人じゃ、こんなにたくさんの量、絶対に食べきれないわよ。残したらもったいないでしょ。食材費を無駄にする方が、よっぽど非礼じゃない? ……これは命令よ。座りなさい」


蘭は少しだけ意地悪そうに微笑みながら、対面の椅子を指差した。


「……承知いたしました、お嬢様。お言葉に甘えさせていただきます」


顔を上げたレンの口元に、初めて、ビジネスライクではない、僅かに柔らかな本物の微笑みが浮かんでいた。


頑なに心を閉ざし、誰の侵入も許さなかった高坂蘭の、孤独で強固な防壁。


それが、この目の眩むような美しき執事の手によって、ほんの少しだけ、しかし確実にこじ開けられた瞬間だった。


奇妙で、歪で、しかしどこか温かい二人の主従の共同生活は、こうして静かに、その幕を開けたのだった。



   ◇   ◇   ◇



自分だけの住処に、自分以外の誰かがいる。


その奇妙な事実に、高坂蘭の身体はようやく馴染み始めていた。


完璧な執事、レンとの共同生活が始まってから1週間が経過していた。


たったそれだけの短い期間で、蘭の過酷だった日常の景色は、劇的な変化を遂げていた。


まるでリバーシの石が次々と黒から白へ裏返っていくかのように。


――朝。


微睡みの中で耳に届くのは、包丁がまな板を叩く小気味よい規則的な音。


そして、次に感じるのは、出汁の優しく芳醇な香り。


重い瞼を開けながら、這い出すように寝室からリビングダイニングへと向かう。


そこには並ぶのは、完璧な朝食たちだ。


湯気を立てる味噌汁。

ふっくらと炊き上がった五穀米。

そして絶妙な焼き加減の鮭。


何よりも、量がちょうど良い。

無理なくちゃんと食べ終えて、満足感を感じる適量だ。


そして、支度を終えて、出かけようとすると、レンは蘭の動きを完璧に予測したかのようなタイミングで、柔らかな上着を両手で差し出した。


「お嬢様、本日は夜にかけて少し気温が下がる予報でございます。こちらのシルク混のカーディガンを。冷えは万病の元でございますから」


蘭は驚きに目を見開きながらも、その温もりを受け取る。


「……ありがとう。あ、あの、夜なんだけど、コンカフェのシフトが少し延びるかもしれないから、夕食は軽めでいいわ」


「かしこまりました。では、お帰りの時間が遅くなるようでしたら、最寄り駅の改札までお迎えに上がります。夜道の一人歩きは危険です」


――昼。


ヘアサロンでの息つく暇もないほど忙しい合間、バックヤードで一息つこうとすると、受付にレンの姿があった。


彼は仕立ての良い燕尾服のまま、蘭の手に温かいスープジャーと、彩り豊かな手作りのお弁当箱をそっと滑らせてくれる。


周囲のスタッフからの羨望と好奇の視線は少々痛かったが、レンはただ「お嬢様、お健やかに」とだけ言い残し、優雅に去っていくのだった。


――夜。


トリプルワークの終着点であるコンカフェでの勤務を終え、心も身体も鉛のようになって帰宅する。


玄関を開けた瞬間に、チリ一つない清潔な空間が彼女を迎えた。


淀んだ空気までも拭い取ったかのように清らかになった室内に、食欲をそそる夕食の香りが満ちている。


浴室からは、いつでも飛び込めるように適温に沸かされたお風呂の湯気が漂っている。


それだけではない。


いつも脱ぎ散らかしている洗濯物は、蘭のクローゼットに寸分の狂いもなく収納されていた。


まるで一流ホテルのランドリーサービスから戻ってきたかのように、一点のシワもなく美しく畳まれて。


(生きるのって、こんなに楽で良かったんだっけ?)


レンの気遣いは常に完璧だった。


蘭が口に出して何かを求めるより前に、すべての答えが、最も美しい形で目の前に差し出される。


それはまるで、彼女の心をすべて見透かされているかのような心地よさと、どこか恐ろしさを孕んだ完璧さだった。


もちろん、蘭は最初からこの状況を無条件に受け入れたわけではなかった。


彼女の頑ななプライドを辛うじて支えていたのは、毎晩きっちりとテーブルの上に置かれる一枚の「請求書」の存在だった。


蘭はそれを一枚一枚、鋭い目で検分し、一円単位でレンに現金を支払う。


その明確な金のやり取りこそが、「私は施しを受けているわけではない」という、彼女の最後の防衛線だった。


しかし、その請求書を見るたびに、蘭は自分の目を疑わずにはいられなかった。


提示される金額が、あまりにも、嘘じゃないかと思うほどに安かったからだ。


これほど豪華で健康的な食生活を送り、部屋を綺麗に維持しているにもかかわらず――。


計上されている食材費は、彼女が以前一人で適当なコンビニ弁当を貪っていた頃の食費よりも遥かに低かった。


不審に思った蘭は、ある夜、レンをリビングに呼び止めて問い詰めたことがある。


「ちょっと、レン。この金額、本当に対価として合っているの? あなた、私に気を遣って、自分の持ち出しで補填してないでしょうね?」


蘭は腕を組み、レンの端正な顔をじっと睨みつけた。


するとレンは、困ったような、しかしどこか誇らしげな微笑を浮かべ、手元の手帳を開いて見せた。


「滅相もございません、お嬢様。わたくしはプロの執事でございます。お嬢様の資産を適切に管理し、無駄を極限まで省くことこそが使命。これは、すべて徹底した計算に基づく『節約術』の成果でございます」


レンが提示した数字と説明は、まさに主婦のお手本、いや、それ以上のプロフェッショナルな芸術と呼べるものだった。


まず食費に関して、レンは蘭が朝働いている青果市場の性質を完璧に利用していた。


市場の仲卸業者たちが、一般の流通に乗せられないほんの僅かな変形野菜や、その日のうちに売り切りたい余剰食材を、独自の交渉ルートによって破格の値段で買い取っていたのだ。


さらに、食材の「廃棄率」を極限までゼロにするマルチユースを徹底していた。


例えば、大根の皮やニンジンのヘタ、仕入れた鶏肉の骨などはすべて大鍋でじっくりと煮込み、栄養価が最も高い「ベジブロス(野菜出汁)」としてスープや煮物のベースに再利用する。これにより、調味料にかかる費用を大幅に削減しつつ、深いコクを生み出していた。


また、一週間の献立はすべて食材の消費期限から逆算して完璧にパズルのように組み立てられており、冷蔵庫の中で食材が腐るなどというロスは一一切発生しない。


「嘘は一切ございません。お嬢様からいただくこの金額の中で、すべては美しく収まっております」


レンの淀みのない、論理的な説明を聞き、実際に帳簿の数字を確認した蘭は、ぐうの音も出なかった。


彼の手にかかれば、限られた予算が何倍もの価値を持って生活へと還元される。


それを理解した時、彼女の胸の中にあった疑念は、レンへの深い感服へと変わっていった。


(それにしても……身体が、軽い。こんなに朝、すっきりとした心地で起きられたのは、一体いつぶりだろう……)


市場へと続く冷たい朝の道を歩きながら、蘭は自分の両手を見つめ、そっと深呼吸をした。


実際の睡眠時間そのものは以前とさほど変わらないはずだった。


しかし、「質」が全く違っていた。以前のような、泥が身体の奥底に澱のように溜まるような不快な重みがない。


細胞の一つ一つが、栄養と休息によって満たされているのを実感していた。


蘭は少しだけ潤いを取り戻した心で、足取りも軽く、いつものように活気に満ちた市場へと向かった。


しかし、その日の市場は、いつもとは異なる異様な熱気と混雑に包まれていた。


近隣の大型スーパーの特売日が重なったのか、狭い通路にはターレットトラックだけでなく。

買い出しの業者や台車が溢れ返り、怒号のような掛け声が四方八方から飛び交っている。


蘭は山積みの段ボールを載せた大きな台車を両手でしっかりと握り、人の隙間を縫うようにして狭い通路を慎重に進んでいた。その時だった。


前方で、人の背丈よりも遥かに高く積み上げられていた木箱の山が、激しく行き交う人波の振動に耐えかねたように、一瞬、グラリと傾いた。


「あ――」


蘭が気づいた時には、すでに遅かった。


バランスを崩した大量の木箱が、ガラガラと凄まじい音を立てて、通路の下にいる蘭に向かって雪崩を打つように崩れ落ちてきたのだ。


あまりの恐怖に、身体がすくんで動かない。


「危ないっ!」


鼓膜を突き刺すような鋭い叫び声。


それと同時に、蘭の華奢な右腕が、信じられないほどの強い力でグイと後方へと引かれた。


蘭の身体はバランスを崩し、ぐらりと大きく後ろへ傾く。


視界が反転するような感覚の中、彼女がたった今まで立っていたまさにその場所に――。


数箱の重い木箱が凄まじい衝撃と共に激突し、バキバキと音を立てて地面に叩きつけられた。


もし避けるのが一瞬でも遅れていれば、その下敷きになっていたのは間違いなく蘭だった。


間一髪で蘭の身体を抱きとめるようにして助け出したその人物の、低く、少し掠れた声が、蘭のすぐ耳元で響いた。


「……っ、大丈夫か!?」


蘭は激しく波打つ心臓を押さえながら、恐怖で震える顔をゆっくりと上げた。


助けてくれた人物の顔を視界に収める。


そこに立っていたのは、よく日に焼けた小麦色の肌に、泥と汗が染み込んだ見知らぬ作業着を雑に着こなした、いかにも市場で働くガテン系の若い男だった。


がっしりとした広い肩幅と、男らしい太い腕が、蘭の身体をしっかりと支えている。


「あ、ありがとうございます……。助かりました……」


蘭は途切れ途切れの声で、辛うじて感謝の言葉を口にした。恐怖で全身の血の気が引いていくのがわかる。


「いや。怪我がなくて何よりだ。こんな狭いところで、あんな積み方をする方がどうかしてるよ」


男は白い歯を見せて快活に笑い、蘭を安心させるように、ぽんぽんと彼女の肩を軽く叩いた。


だが、その瞬間――。


男の目元の皺、笑った時に少しだけ下がる右の口角、そしてその独特な声の響きが、蘭の脳裏にある記憶の断片を強烈に呼び覚ました。


(……え?)


一瞬。ほんの、瞬きをするほどのわずかな刹那。


目の前にいる日に焼けたガテン系の男の顔が、蘭にとって世界で最も親しく――。


そして、今はこの場所に絶対にいるはずのない"見覚えのある顔"に変わった気がした。


心臓が跳ね上がる。


けれど、そんなはずがない。ありえない。


心配そうに眉をひそめ、蘭の顔を覗き込んできた男の顔は、すでに、先ほどまでの「見知らぬ市場の作業員」の顔に戻っていた。


「どうした? やっぱり、どこか痛むのか? 腰でも打ったか?」


先ほどの光景は、一体何だったのだろうか。


「いえ、大丈夫です。ただ、少しびっくりしただけで……本当に、ありがとうございました」


「そっか。それならいいけど……無理すんなよ? ちょっとでも痛むところがあるなら、念のためにちゃんと病院で見てもらえよ」


男は少し名残惜しそうに蘭を見つめた後、じゃあな、と軽く手を挙げて、再び自分の仕事へと戻るために背を向けて歩き出した。


「あのっ……!」


蘭は思わず、自分でも理由のわからない衝動に駆られて、去りゆく男の背中に向かって声を張り上げていた。


しかし、男は立ち止まることなく、溢れかえる業者たちの雑雑とした人波の奥へと吸い込まれていく。


蘭の声は、市場を包むターレットトラックの轟音と威勢の良い怒号の中にかき消され、彼に届くことはなかった。


(まさか。人違いに決まっているわ。ただの目の錯覚よ。だって、……あいつは……)


激しい動揺が、津波のように蘭の胸を襲っていた。


いくら目の錯覚だ、寝不足のせいだ、と自分に言い聞かせようとしても。


一度心の中に芽生えてしまった不気味な違和感の影は、心の隅へとしわじわと広がっていく。


まるで白いシャツに落ちた一滴の黒いインクのように。


――昼。


午前中の市場での奇妙な出来事と、胸のざわつきをどうしても引きずったまま、蘭は昼の職場であるヘアサロンへと向かった。


シックな黒の衣装に着替え、プロとしての仮面を被る。


蘭は雑念を振り払うかのように、いつも以上にきびきびと激しく、無駄のない動きでサロンの床を立ち回った。


カルテを整理し、ハサミを消毒し、鏡を磨き上げる。


心を仕事に集中させていなければ、あの市場での男の笑顔が脳裏に蘇ってしまいそうだったからだ。


「高坂さん、急で本当に申し訳ないんだけど、あちらの席のヘルプにすぐに入ってくれないかしら?」


サロンのオーナーが、少し困惑したような表情で蘭の肩を叩いた。指名客の対応で手が回らないらしい。


蘭は「はい、喜んで」とプロの笑みを浮かべ、指示されたセット面へと向かった。


そこに座っていたのは、新規の男性客だった。


年齢は三十代後半ほどだろうか。


物静かで知的な雰囲気を纏っており、仕立ての良さが一目でわかる。


上質なネイビーのスーツを上品に着こなした紳士だった。


その佇まいからは、豊かな教養と洗練された大人の余裕が漂っている。


「初めまして。本日、シャンプーとスタイリングのお手伝いをさせていただきます、高坂です」


蘭が鏡越しに丁寧に挨拶をすると、男は本を読んでいた目をゆっくりと上げ、鏡の中に映る蘭の瞳を見て、穏やかに微笑んだ。


「よろしくお願いします。心地よい空間ですね」


蘭は彼をシャンプーブースへと案内し、仰向けになった彼の頭部に温かいお湯をかけ始めた。

豊かな泡が立ち上り、サロン特有のフルーティな香りが広がる。


蘭は指先に力を込め、頭皮をマッサージするように丁寧に髪を洗っていく。


その時だった。耳元で、男が静かに、しかしよく通る滑らかな声で口を開いた。


「……大変な努力家なのですね。手が、ずいぶんと荒れています。痛々しいほどに」


その言葉が鼓膜に触れた瞬間、蘭はびくりと指先を硬直させ、動きを止めてしまった。


彼女の両手は、毎朝の市場での冷水と泥、そして美容室での容赦のない洗髪作業や薬品のせいで、赤く腫れ上がり、指先はささくれだらけだった。


それは彼女が必死に生きている証拠であったが、同時に、人に見せるにはあまりにも無骨で醜いものだという強いコンプレックスでもあった。


これまで、目の肥えたサロンの客から、これほど直接的に手の荒れを指摘されたことは一度もなかった。


「……すみません。プロとして、お見苦しいものをお見せしてしまいました……」


蘭は恥ずかしさと情けなさで胸が締め付けられ、消え入りそうな声で謝罪した。


「いや、謝る必要などどこにありますか。あなたが、毎日それほどまでに、誰かのためにとても頑張っているという、何よりの高貴な証拠だ。私は、素晴らしい手だと思いますよ」


男のどこまでも優しい、包み込むような声が、蘭の凍りついた胸の奥へと深く沁み渡っていく。


その温かさに、彼女の目頭が熱くなった。


シャンプーを終え、再び明るいセット面へと彼を案内し、髪を丁寧に乾かしていく。


施術が一段落したその時、男は自分の上質な革の鞄から、小さな、美しいリボンがかかった箱をそっと取り出した。


「もし、ご迷惑でなければ。これを使ってください。妻にプレゼントするはずだったものの、妻はこの香りが苦手なのを失念してましてね。お嫌でなければ、少しは痛みが和らぐと良いのですが」


彼の手から差し出されたのは、女性たちの間で憧れの的となっている、海外の最高級スキンケアブランドのハンドクリームだった。


一チューブで、今の蘭の数日分の食費が吹き飛ぶほどの代物だ。


「そんな! こんな高価なもの、いただくわけにはまいりません!」


蘭は慌てて両手を振り、強く拒絶しようとした。


「受け取ってください。あなたのその綺麗な手が、これ以上傷つき、痛むのを、私は見ていたくないのです」


男の言葉には、柔らかだが、決して拒絶を許さない不思議な引力があった。


蘭が気圧されるようにして、おずおずと小さな箱を両手で受け取ると、男は満足そうに、優しく目を細めて微笑んだ。


その瞬間。


窓から差し込む昼の光の加減だろうか。鏡の中に映る、目を細めて微笑むその紳士の顔が、一瞬だけ、歪んで変化した。


(また……っ!?)


蘭は息を呑んだ。


そこに映っていたのは、やはり、"見覚えのある顔"。ここにいるはずのない"蒼真"の顔に見えた。


間違いない、あの愛おしい笑い方が、今、目の前の見知らぬ紳士の顔に完全にオーバーラップしていた。


別々の人間のはずなのに、朝のガテン系の男と、この昼の洗練された紳士。


彼らから感じる、言葉にできない"何か"が、蘭の中で不気味に、そして確実に重なり合っていく。


(気のせいよ。私が疲れているのよ。最近、色々ありすぎて頭がおかしくなっているんだわ……)


そう必死に自分に言い聞かせ、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめる。


蘭の心に、まるで怪奇小説のような、濃く冷たいサスペンスの霧が立ち込めていくのを、彼女は肌で感じずにはいられなかった。


すべての施術を終え、男は静かに、スマートに会計を済ませると、一度も振り返ることなく店を出て行った。


ガラス扉の向こうへ消えていく彼の背中を見送りながら、蘭は自分の赤く荒れた指先と、手の中に残された小さな箱を見つめる。


手のひらに残るハンドクリームの、甘く贅沢な香り。


今起きた非現実的な出来事を冷酷に肯定しているようで、底知れぬ不気味さに身を震わせるしかなかった。


――夜。


夜の帳が完全に街を包み込み、繁華街が極彩色のネオンサインで狂ったように彩られる時間。


蘭は三つ目の職場である、魔法少女コンセプトカフェの騒がしいフロアに立っていた。


ピンクと黒のフリル衣装を身に纏い、頭には大きなリボン。


しかし、昼間の出来事がどうしても頭から離れず、いつものような"ランラン"としての完璧な作り笑顔が、どうしても上手く作れない。


口角が引きつり、瞳の奥は冷たく沈んだままだった。


(私は、彼に会いたいんだわ。蒼真に会いたい、その気持ちが心の底で強くなりすぎて、きっと、今日私に優しくしてくれた全然関係のない男性たちの顔に、自分で勝手に蒼真の面影を重ねちゃっているんだろうな……。情けないな、私)


そうやって、すべてを自分の精神的な脆弱性のせいに思い込もうとしても、胸の奥で早鐘を打つ不穏なざわめきは、一向に収まる気配を見せなかった。


そんな時だった。


BGMのポップミュージックを切り裂くように、店の片隅からドスの効いた、不快な怒声が響き渡った。


「なんだその態度は! 客を馬鹿にしてんのか、オラァ!!」


見ると、カウンター席の端で、泥酔して顔を真っ赤にした中年男が、まだ入ったばかりの若いメイドの女の子の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで絡んでいた。


テーブルの上にはひっくり返ったグラスからビールが溢れ、床を汚している。


運悪く、今夜は店長が急用で不在だった。


他の若いスタッフたちは、男のあまりの剣幕と恐怖に完全に怯えきり、足を震わせて遠巻きに見ていることしかできない。


蘭は、ギリと奥歯を噛み締め、覚悟を決めた。ここで誰かが行かなければ、あの女の子が危ない。


「お客様、申し訳ございません。何か私どもの方に、不手際がございましたでしょうか?」


蘭はフリルのスカートを揺らしながら男の前に立ち、できる限り穏やかで丁寧なトーンを維持して対応しようと試みた。


しかし、完全に理性を失い、アルコールに脳を支配された泥酔男に、まともな理屈や接客の言葉が通じるはずもなかった。


「あぁ!? なんだお前は! 偉そうに仕切りやがって!」


男の濁った矛先は、瞬時に蘭へと向いた。


男は立ち上がり、信じられないほどの力と速さで、蘭の細い手首をガシリと掴んだ。


肉に指が食い込み、激しい痛みが走る。


「……っ! 離してください!」


蘭は身をよじって逃げようとするが、男の巨体に阻まれ、狭いカウンターの隅で完全に逃げ場を失ってしまった。


「お前、よく見たらいい女じゃねえか。あのガキよりお前の方が気に入った。おい、そこへ座れよ、俺と一緒に酒を飲め!」


男の口から放たれる、胃の底がひっくり返るような強烈なアルコールの匂いと、粘着質で下卑た視線。


蘭の全身に、鳥肌が立つような猛烈な吐き気が込み上げる。恐怖で顔が引きつり、涙が溢れそうになった、まさにその時だった。


「そこまでにしていただけませんか。見苦しいですよ」


硬質で、凛とした、凍りつくような声が、二人の間に鋭く割って入った。


蘭が驚いて目を開けると、少し離れたボックス席に一人で座っていた、紳士的な客が静かに立ち上がっていた。


彼は、仕立ての良いグレーの三つ揃いのスーツを完璧に着こなしており、クレーマーの男とは対照的な、極めて理知的で落ち着いた佇まいを見せていた。


メガネの奥の冷徹な瞳が、泥酔した男を静かに見下ろしている。


「ああん? なんだてめえ、部外者はすっこんでろ!」


男は蘭の手首を掴んだまま、新しく現れた邪魔者に怒鳴り散らした。


「彼女が明確に拒絶し、怖がっています。これ以上の狼藉を働くのであれば、即座に警察を呼ばせていただきます。すでに店のスタッフが通報の準備をしております」


紳士の毅然とした、一歩も引かない態度。


酔った男は一瞬だけその迫力にたじろいだが、すぐにプライドを刺激されたのか、逆上した。


「ふざけんな!」


空いた左拳を振り上げて紳士に殴りかかろうとした。


しかし、事件は一瞬で決着した。


紳士は、男の放った大振りの拳を、まるでスローモーションでも見ているかのような最小限の美しい動きでひらりと交わした。


それと同時に、男の空振った腕の関節を正確に掴み、電光石火の速さで背後へと軽く捻り上げたのだ。


「がはっ……!? 痛ぇ、痛てえええ!」


男は短い悲鳴を上げて、そのまま床へと無様に崩れ落ちた。


抵抗する術を奪われ、床に顔を押し付けられている。文字通り、あっという間の出来事だった。


騒ぎを聞きつけた、ようやく我に返った他の男性スタッフや近隣の店舗の人間が、店内に駆け寄ってくる。


紳士は床に倒れて呻いている男を一瞥すると、すぐに蘭の方へと向き直り、メガネの位置を直しながら、優しく、本当に優しく微笑んだ。


「お怪我はありませんでしたか? 怖い思いをさせてしまいましたね」


「は、はい……。私は、大丈夫です……。本当に、ありがとうございました……」


蘭が震える声を絞り出してお礼を言うと、紳士は彼女を安心させるように、さらにその深みのある笑みを深めた。


その瞬間。


蘭の全身の毛穴が、一斉に恐怖で開き、総毛立った。


もう驚かない。


奇妙な予感が、彼女の脳裏を過っていた。


きっと、この人の顔も、あの人に、見えるんじゃないかって。


だから今度は、逃げることなく、取り乱すことなく、確固たる意志を持って、彼の顔をじっと網膜に焼き付けるように観察することが出来た。


間違いない。


メガネの奥の、優しく細められたその瞳。口元の絶妙な曲線。それは、紛れもなく、確実に"蒼真"の顔だった。


けれど、蘭がそう確信した次の瞬間には、彼の顔はやはり、元の、見知らぬ理知的な紳士の男性の顔へと静かに戻っていた。


それは、決して愛しい人に会えたという"喜び"などではなかった。全身の血が凍りつくような、圧倒的な"恐怖"だった。


朝の市場、昼の美容室、夜のコンカフェ。


全く異なる場所で、全く異なる身分の、接点のないはずの三人の男たち。


その全員の顔に、一瞬だけ浮かび上がる、同じ一人の男の影。


これは偶然などではない。自分の精神の狂気でもない。


何かが、恐ろしい何かが、自分の知らない水面下で確実に動いている。


蘭は、底なしの深い闇が、自分の足元から音もなく、じわじわと這い上がって来ているのを感じた。


背筋を突き抜ける戦慄に、彼女はただ、ネオンの光の中で立ち尽くすことしかできなかった。



   ◇   ◇   ◇



三人の男たちの残像が、高坂蘭の擦り切れた脳裏に焼き付いて離れず、その思考を容赦なくぐちゃぐちゃにかき乱していた。


早朝の市場で泥まみれの木箱から自分を救い出してくれた、日に焼けたガテン系の男。


昼の美容室で、荒れた指先を労わり最高級のハンドクリームを贈ってくれた、上質なスーツの紳士。


そして先ほど、夜のコンセプトカフェで暴れる客から身を挺して守ってくれた、理知的なメガネの男性。


彼らは間違いなく、蘭を襲った様々な危機から救い出してくれた恩人たちだった。


しかし、彼女の心を満たしていたのは、救われたという安堵や感謝などでは到底なかった。


身体の底から湧き上がってくるのは、得体の知れない冷たい恐怖感であり、その異常な共通性が蘭を何よりも混乱させていた。


三人とも、全く異なる衣服を纏い、全く異なる顔立ちをしていたはずなのに。


一瞬だけ、笑った時の口元の歪みや瞳の光彩が、あの最愛の恋人である"蒼真"と完全に重なって見えたのだ。


(おかしい。全部おかしい。私の頭が狂ってしまったの? それとも……?)


猜疑心という名の鋭い棘が胸を刺す。だが同時に、どうしようもない矛盾が彼女の内で蠢いていた。


(でも……なぜか、心のどこかでホッとする自分もいる。まるで、本当に蒼真がすぐ傍で私を守ってくれているみたいに……)


絶対にここにいるはずのない恋人の影を追い求め、そこに温もりを感じてしまう自分への嫌悪。


猜疑心と安堵感という、激しく相反する感情の渦が、蘭の精神を限界まで摩耗させていった。


それに加え、連日のトリプルワークによって蓄積された肉体的疲労は、すでに人間が耐えられる許容量を遥かに超えていた。


目の前に座る若者の声が、まるで深い水底から響いてくるかのように、やけに遠くに聞こえた。


「……ランランちゃん?なんか顔色が変だけど大丈夫……?」


蘭は必死に笑顔を取り繕おうとしたが、頬の筋肉が凍りついたように動かない。


視界が急速に狭まっていく。


手に持っていたラミネート加工のメニュー表がぐにゃりと奇妙に歪み――。


店内の壁を飾るピンクと黒のきらびやかなLED照明が、まるで夜空の星のように激しく明滅し始めた。


耳の奥で、キーンという高い金属音が鳴り響く。


(だめだ、立っていられない。倒れ……)


そう自覚した瞬間、蘭の視界は完全にブラックアウトした。



身体からすべての力が抜け、操り人形の糸が切れたかのように、床に向かって崩れ落ちていく感覚。



固い床に叩きつけられる強烈な衝撃を覚悟した、まさにその刹那だった。



誰かの、驚くほど力強い腕が、倒れゆく彼女の華奢な身体を横からしっかりと支えた。


「おい、しっかりしろ! 蘭!」


愛しい人が、自分の名を呼ぶ声がした。


周囲のスタッフや客たちの「きゃあ!」という悲鳴やざわめきが、まるで厚いガラスを隔てた向こう側のように、くぐもって聞こえる。


意識が遠のいていく暗闇の中で、蘭は自分の身体がふわりと宙に浮き上がる不思議な感覚を覚えた。


暖かく包み込むように、誰かに抱きしめられている。


(この温もり……私、知ってる……)


懐かしくて涙が出そうな温もりそのもの。


ふざけ合って笑いながら過ごした、あの愛おしい日々の記憶。


(蒼真……なの……?)


完全に霞んでいく意識の淵で、蘭は声にならない声でそう呟いた。


なぜ、ここに蒼真がいるのか。


そんな合理的な疑問すら浮かばないほど、その背中の温もりは、極限状態の蘭に絶対的な安心感を与えていた。





しかし、その時、彼女を抱きしめていたのは、"蒼真"でもなければ、先ほど彼女を助けたあのメガネの紳士でもなかった。


店内にいた"全く知らない客の一人"。


――服装も顔立ちも極めて平凡で、これまで店内の風景の一部として完全に没入していた。


およそ目立たない一人の男が、倒れた蘭を素早い動きで抱き起こしていたのだ。


慌てふためく周囲のメイド姿の店員たちを、男は片手を挙げて冷静になだめていた。


「ひ、人が倒れた! 救急車! 救急車を呼んで!」


「大丈夫だ。ただの極度の疲労による迷走神経反射だよ。この子、病院に連れて行かれるのはちょっとまずいんだ。君たちも、彼女から何か事情を聞いているだろう?」


男の低く落ち着いた声に、受付にいた先輩格のメイドがハッと目を見開いた。


「ええ、確かに……なんか戸籍のこととか、あまり公にできない事情があるって、本人がポロッと言ってたけど……」


「大丈夫、すべて私に任せてほしい。私が責任を持って彼女を自宅まで連れ帰って、適切に介抱する。家がどこにあるかも、私はすべてわかっているから――」


男の言葉に、店員の一人が不審そうな目を向け、思わず問い詰める。


「え? なんでお客様がランランちゃんの家を知っているんですか……?」


「私はこういう者だ」


男は慣れた手つきで、片手で懐を探ったかと思うと、一枚の名刺をテーブルに置いた。皆がのぞき込み、一様に「ああ」と納得した表情を見せる。


「大丈夫、私は彼女を傷つけるような怪しい者じゃない。あとのフロアの片付けは頼むよ」


男はそれだけを言い残すと、蘭を抱きかかえたまま、夜の街へと歩き出した。


その足取りには、一歩の迷いも、躊躇いもなかった。


夜の冷たい風が吹き抜ける繁華街の入り組んだ路地を、まるで毎日何年も通い慣れた自分の家への帰り道であるかのように。


迷うことなくまっすぐに蘭の住むマンションへと向かっていた。





蘭が薄らと意識を取り戻した時――。


視界に最初に飛び込んできたのは、見慣れた部屋の天井だった。


身体の感覚が少しずつ戻ってくる。ベッドの上に優しく横たえられている。


そして、窮屈だったコンカフェのフリル衣装から、清潔な綿のパジャマへと着替えさせられていることに気づいた。


(私、お店で倒れて……それで、どうしてここに……?)


朧げで、霧がかかったような頭で記憶の糸をたどっていると、枕元から不意に、微かな人の気配を感じた。


その人物は、しきりに蘭の顔を拭っている。


何をしてるのか、わからずにいると、ふいに気づいた。


(あ、もしかして、メイクを落としてくれてる?)


蘭の顔に塗りたくられていた厚いメイクが、男の持つコットンとクレンジング剤によって、一枚ずつ丁寧に、優しく落とされていく。


それが終わると、ぬるま湯で濡らした白いタオルを丁寧に絞り、蘭の額や頬、首元をやさしく拭っていた。


その指先の動き、タオルの当て方は驚くほど手慣れている。


まるで長年連れ添った本物の家族か、あるいは熟練の看護師のように、ごく自然で迷いがなかった。


――その人物の作業は、肌の保湿と整肌まで、完璧に行われた。


自分自身でさえ、ここまでしない日の方が多い。


化粧水ローションのボトルを手に取った。

手のひらに適量を注ぐと、体温で少し温めるようにしてから、蘭の肌を包み込むように優しくハンドプレスしていく。


水分が逃げないよう、乾ききった角質層の奥深くまで浸透させるための丁寧な手つきだった。


美容液セラムを数滴、特に乾燥や疲労が出やすい目元や口元になじませた。


仕上げに、補給した水分と栄養に蓋をするための乳液ミルクや保湿クリームを取り出した。


手のひらで薄くのばし、蘭の頬や額、顎へと内側から外側へ向かって優しく引き上げるように塗布していく。


本来ならば、これは異常事態だ。


恐怖のあまり喉が裂けるほど叫び出すような状況だ。


面識もない、名前すら知らない見知らぬ人物が、なぜか自分の部屋の鍵を迷いなく開けて侵入し、無防備に眠る自分の身体に直接触れている。


着替えていることから考えても、裸も見られているのだろう。


しかし、本当に不思議なことに、蘭の心には羞恥心も、拒絶感も、そして生命の危機感も、ひとかけらさえ湧いてこなかった。


(あたたかい……)


冷たくささくれ立っていた蘭の心を、じんわりと内側から溶かしていくような感覚があった。


ただただ絶対的な安らぎと、自分のすべてをそのまま委ねてしまえるような、魂の深い部分からの信頼感だけだった。





浅い眠りと、微かな覚醒を何度も繰り返すうち、蘭の意識は少しずつ、確かな輪郭を持ってはっきりとしてきた。


ベッドの温もりの中でうとうととしながら、静かに呼吸を整えていると、リビングから、ひそやかな、しかし張り詰めた話し声が漏れ聞こえてきた。


聞き覚えの無い声。男性の声だということはわかるが、レンではなく、ましてや"蒼真"であるはずもない。


どうやら、誰かと電話で深刻な話をしているらしい。


(何の話をしているの……?)


本能的な好奇心と、心の底にこびりついた違和感に突き動かされる。


蘭はベッドの中で完全に息を殺し、壁の向こうの声に全神経を集中させて耳を澄ませた。


聞こえてくるのは、今にも理性がはち切れそうなほど焦燥しきった声だけだった。


「……だから、もう限界なんだ。これ以上は、彼女の身体が保たない。今日だって、店で倒れたんだ」


その緊迫した恐ろしい声色に、蘭の心臓がどきりと大きな音を立てて鳴った。寝返りを打たないよう、身体を固くする。


「ああ、わかっている。時間オーバーをしてしまったことのペナルティは、当然受ける。再び、あの身体……、魂の牢獄につながれようともかまわない。でも、この計画だけはやりきりたい――」


電話の向こうの相手の言葉を遮るように一度言葉を切り、苦しげに深く息を吸った。


「――とにかく、『アストラル・リンク』の接続を切り替えてほしい。レンの肉体に戻るよ。今、彼女が目覚めたら、見知らぬ男に介抱されていることに、ショックをうけてしまう」


(アストラル・リンク……?)


これまで生きてきて一度も耳にしたことのない言葉だ。


あまりにも非現実的で、SFの用語のような不気味な響きを持ったその言葉が、蘭の鼓膜に鋭く、深く突き刺さった。


「わかった、マツシタさんの身体を回収に来てほしい。大丈夫、何も傷つけてないから。マツシタさんの家族にも遭遇してないと思う、こんな時間だから……」


(マツシタさんの身体……回収……? 何それ……?)


さらに周囲を警戒するように声を潜め、しかし今にも泣き出しそうな、悲痛な響きを帯びた声で言葉を続けた。


「次の面会日には、すべてを打ち明ける。だから、それまでは続けさせてほしい。レンも許してくれると思う。そうじゃなきゃ、本当に蘭が死んでしまう……! 僕は、彼女を救うためなら、悪魔にだって、魂を売るよ!」


蘭が、死んでしまう。


その衝撃的な言葉と、"アストラル・リンク"という謎の単語。


そして、あの美しい執事"レン"の、"肉体に戻る"という、およそ常識では信じがたい、世界の理を覆すようなフレーズ。


レンという男は一体何者なのか。


そして、なぜそこまでして、自分の身を削るようにして私を守ろうとするのか。その執念の裏にある、本当の目的は何なのか。


"次の面会日には、すべてを打ち明ける"


その日が、自分の日常を侵食しているこの異常な現象の、すべての真実に至るための、決戦の日になるのだろう。


蘭はシーツの中で、固く、固く目を閉じた。


規則正しい寝息をわざと立てながら、完全に寝たふりを続け、隣の部屋から聞こえなくなった謎の言葉を、何度も、何度も胸の中で反芻し続けた。



   ◇   ◇   ◇



月に一度だけ訪れる、特別なその日。


高坂蘭は、自分を縛り付ける三つの過酷な仕事のすべてを休みにした。


早朝の市場の怒号も、昼の美容室での華やかなハサミの音も、夜のコンセプトカフェでの甘ったるい歓声も。


今日だけは、彼女の世界から完全に遮断される。


カーテンの隙間から、まだ頼りない朝の光が薄暗い室内に差し込んでいた。


食卓の上には、いつものように完璧な手際で用意された朝食が並んでいる。


昔ながらの純喫茶で出てくるような、どこか懐かしいモーニングセット。


サクッと小気味いい音を立てそうなほど絶妙にきつね色に焼かれた、厚切りのトースト。その上には、四角いバターがじわりと熱で溶け出している。


ガラスの小鉢には、みずみずしいレタスと真っ赤なミニトマトのミニサラダ。


そして、淹れたての珈琲の芳醇で深い香りが、優しく湯気となって立ち上っていた。


それらを用意してくれた執事のレンは、非の打ち所のない端正な容姿にいつもの黒い燕尾服を纏い、少し離れた場所で静かに佇んでいた。


蘭は、ただじっとその朝食を見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。


上着を羽織り、カバンを肩にかける。


その一連の動作を、レンは咎めるような視線も向けず、ただ穏やかな、しかしどこか深い憂いを帯びた瞳で見守っていた。


「今日は一日、お休みにして」


「承知しました。お嬢様はどちらに――」


「悪いけど、何も聞かないで。何も言えないから。夜のご飯もいらない」


蘭はドアノブに手をかけ、振り返ることなく、それだけを静かに告げて家を後にした。


カチリ、と鍵が閉まる音が、静まり返った廊下に冷たく響いた。


彼女が向かったのは、華やかな都心の喧騒から遠く離れた、鬱蒼とした緑に囲まれた近代的な総合病院だった。


ガラスとコンクリートで構成された巨大な建物は、一見すると最先端の医療を提供するクリーンな施設にしか見えない。


しかし、蘭はその清潔な光に満ちた正面玄関には目もくれなかった。


周囲の目を避けるように、人通りの途絶えた静かな住宅街の裏路地へと足を進める。


覆い被さってくるかのような背の高いコンクリートブロック塀の回廊を抜けた先に、鉄の扉があった。


手慣れた手つきで、扉に埋め込まれた小さな操作パネルに指を滑らせる。


十数桁にも及ぶ秘密の暗証番号が入力する。


冷たい電子音が鳴り、次に名乗る。


「高坂蘭です。桐生蒼真の面会に来ました」


重たい鉄の扉が内部の空気圧の音と共に、音もなくゆっくりと開いた。


そこは、一般の患者はおろか、そこで働く通常の医療従事者にさえ存在を秘匿されている、特別な病棟だった。


白く無機質な壁がどこまでも続き、天井の蛍光灯が規則正しく並んで、冷徹な光を床に落としている。


靴音さえ吸収するような、静まり返った廊下。

鼻腔を突くのは、通常の病棟よりも遥かに濃密で強烈な、薬品と消毒液の冷たい匂いだった。


蘭は息を潜めながら歩を進め、一番奥に位置する、重厚な扉の個室へと入った。


部屋の中央に置かれた最新鋭の医療用ベッド。

その上には、数え切れないほどのプラスチックチューブや細い配線に身体中を繋がれた"蒼真"が、ピクリとも動かずに静かに横たわっていた。


衣服から覗く彼の肌は、光を透過してしまいそうなほど青白く、生きている人間としての血の気が完全に失われている。


人工呼吸器の規則正しい、シュー、シューという機械的な吸気音と、心電図の微かな電子音だけが、この部屋が死の世界ではないことを証明していた。


だが、その穏やかな寝顔だけは、蘭の記憶の奥底に大切に仕舞われている、優しかった恋人のままであった。


「蒼真……」


蘭はベッドの傍らに置かれた丸椅子に、ゆっくりと腰掛けた。


彼の動かない、冷たい右手を両手でそっと包み込み、眠り続ける彼に向かって、まるですぐにでも返事が返ってくるかのように優しく語りかける。


「今月もね、本当にいろいろなことがあったよ……。商店街の福引きで執事が当たったり。意味わかんないでしょ? なに、執事が当たるって。自分で言っても意味不明過ぎて、笑っちゃうよ」


「……」


「でも、しっかり働いたから。大丈夫、あなたの治療費は、今月もちゃんと稼いできたからね。だから、安心していいよ……」


この一言に全てが込められている。


蘭が睡眠時間を極限まで削り、身体をボロボロにしながら三つの職場で稼ぎ続けてきた理由の、全てが――。


蘭は、周囲の人間に「男に貢ぐため」と自虐的な冗談めかして語っていた。


それは、本当のことだ。


ここに横たわる最愛の恋人である"蒼真"の、生命を維持するための、費用として、貢いでいる。


そうしなければ、彼は死んでしまう。


彼は、不幸な事故により、大きな怪我を負ってしまった。


身体はボロボロ、特に、神経系の損傷がひどく、彼は意識不明のまま、ずっと眠っている。


最先端の医療であっても、生命の維持は出来ても、その治療は出来ないと言われた。


決断をしてほしい、とも。


(決断? 彼を殺す決断ってなに? そんなのできるわけない)


だから、決意した。


この隔離された最先端の病棟で、法外な維持費を支払い続けることによって、彼を生かせるのなら。


自分は、喜んで、身を粉にしてでも、働きましょう、と。


彼女の切れ上がった涼しげな瞳から、微かな光が零れ落ちそうになる。その時だった。


背後で、カチャリと静かにドアのラッチが外れる音がした。


蘭は振り返らなかった。


その部屋に満ちる空気の僅かな揺らぎ、そして微かに漂ってきた、あの我が家のものであるはずの香気。


振り返らずとも、そこに誰が立っているのか、彼女には完全にわかっていた。


執事のレンが、いつの間にかそこに静然と立っていた。蘭の肩はピクリとも動かず、少しの驚きも見せなかった。


「やっぱり、来たのね」


その声は、驚くほど穏やかで、凪いだ海のように静かだった。


「わかってるわ。あなた……、蒼真なんでしょう?」


静寂が部屋を支配した。レンの姿をしたその青年は、美しく整ったその唇を僅かに戦慄かせ、言葉を失ったように息を呑んだ。


「……いつから、気づいていたんだ」


「んー、いつからだろうね」


蘭は椅子から静かに立ち上がり、ベッドの上の蒼真の、少しパサついた黒い髪を、壊れやすいガラス細工に触れるかのように愛おしそうに何度も撫でた。


「こんな日が、いつか来るかもしれないって……、誰もいない部屋で、ずっと夢見ていた頃から、かな」


彼女はそこで初めて身体を反転させ、レンの完璧な容姿をしたその男へと真っ直ぐに向き直った。その瞳には、深い覚悟の色が宿っている。


「それで、一体どういうことになっているの? 私に、全部説明して」


レン――その器に蒼真の魂を宿した青年は、観念したように視線を伏せ、それからゆっくりと語り始めた。


「この病院で、国からの莫大な資金援助を受けて極秘裏に研究されている技術……『アストラル・リンク』について、まずは説明しなければならない」


「アストラル・リンク。電話でも言ってた言葉ね」


「わかりやすく言えば、魂を複製する技術だ」


「そんなこと、できるの? ――って聞くのは、違うよね。今、目の前に実在しちゃってるんだから」


「信じられないのは当然だよ。人間の記憶や意識、精神のすべては、すべてこの身体に納まっている。それを読み取ることさえ出来たなら、複製は出来る」


「それは、そういう理屈かもしれないけど、どうするの?」


「人間の身体に蓄積されたデータというものは、全身の神経ネットワークにおける超微細な『量子状態』のパターンの集合体に過ぎない。アストラル・リンクの根幹をなす『生体量子コヒーレンス・デコード(生体量子可干渉性解読)』という技術で、対象者の無数の量子が織りなす量子もつれを、一時的に固定化する。そして、記憶や人格、精神のバックアップとして『アストラル・データ(魂の量子位相情報)』を完全な形で抽出する」


「ふうん。読み取ることができるってのは、仕組みはまったくわかんないけど、そういうもんだと思うことにする。問題は、他の人の身体に、入れるの? レンって人は誰?」


「レンも、ここの意識不明の患者の一人さ。イケメンだろ?」


「蒼真の方が、私は好きよ?」


「ありがとう。――誰にでも、その身体に入って操れるってわけじゃないんだ。今、他人の身体に入って、こうして動き回れるのは、僕だけだ。世界中でも、今のところ僕だけなんだ。たぶん、君も知っている、君と僕の……あの複雑で、忌まわしい生い立ちや血筋が関係しているんだろう」


「私たちの恋が、許されない理由、だね。でも、そのおかげで、こうして蒼真とお話できるようになるなんて。皮肉な話ね」


「同感だよ。――蘭、僕は、君にどうしても伝えたいことがある」


蒼真は、レンの美しい顔を苦しげに歪め、胸元をきつく締め付けた。


その手の震えが、彼の内面の葛藤を物語っていた。


「今、君が、毎日必死になって倒れても倒れても起き上がり働いて。そうしてでも、守ろうとしているそのベッドの上の身体は、もう二度と目を覚まさないよ」


「……」


「治療することはできない。すでに死んでいるから。機械で体液を循環させてるから、細胞が維持されてるだけ。君に寄生して、君の若さも、心も、身体も、すべてを蝕んでいくだけの悲しい存在。そして、僕の魂はもう……その身体を離れて、ここにある」


「……うん」


蘭は感情を押し殺したように、静かに、ただ短く相槌を打った。その表情は硬く、何を考えているのか読み取れない。


「その身体はもう、僕にとって、牢獄と同じだよ。その身体に戻ったら、真っ暗な闇の中に閉じ込められるだけ。今は違うよ? こうして身体を離れたことによって、おなじように身体を離れた魂たちは、ここの特別なコンピューター上に生成された仮想世界で住んでいるんだ」


「住んでる?」


「そう。そこでは魂たちでコミュニケーションができる。そこで、レンに頼んだんだ。君の身体を貸してほしいって。レンは、身体には異常が無いけど、精神に問題があって、身体には戻れないんだ。でも、仮想世界の中では、明るく過ごしている。快く身体を貸してくれたよ」


「もしかして、福引きで当たったのって――」


「そう。裏から手を回して貰った。商店街の人たちに協力して貰ったよ」


「そんなことをして、貴方は、何がしたかったの? 私に伝えたいことって何?」


蘭はあきれた表情で虚空を見つめる。


そんな表情をさせてしまうとは、蒼真は思いもしていなかった。


もっと喜んで貰えると思っていたのだ。そうでなくては、この計画は暗礁に乗り上げる恐れがあるが――。


しかし、もう、立ち止まることは出来ない。


「その身体はもう治らない。そして、魂はここにある。この身体の持ち主にも、許可をもらってる。だから――」


「――だめ、それ以上は言わないで」


蘭は、遮るように冷たく、しかし懇願するような痛みを込めて蒼真の言葉を止めた。


蒼真が何を言いたいのか、ようやく察したのだ。


そして、それは蘭がずっと目をそらしてきた"決断"に違いなかった。


「いや、言わせてほしい」


蒼真は力強く一歩を踏み出し、躊躇うことなく蘭の細い両肩を掴んだ。


レンの身体から伝わる強い体温が、彼女の皮膚を打つ。


「姿は全く違っていても、僕は、僕の魂は、間違いなく君の愛した蒼真だ。僕は、君と、幸せになりたい。だから……、このレンの身体を持った僕と、結婚してほしい」


プロポーズ。


蘭は、幾度となく、こんな日が来ることを、夢見てた。


ある日、蒼真が目を覚まし、そして、蘭に結婚しようと言ってくれる日を、待っていた、はずだった。


でも――。


「この、蒼真の身体はどうするの?」


「諦めてほしい。僕たちの未来にとって、蘭の幸せのために」


蘭の鋭い視線は、目の前で必死に訴えかけるレンの姿をした蒼真を、決して見ようとはしなかった。


彼女の瞳は、ただじっと、ベッドの上で機械に生かされている、蒼真だけを凝視していた。


凍りつくような長い沈黙が、重苦しく病室を満たした。


やがて、蘭は掴まれた肩を静かに揺らし、彼の両手を拒絶するように振り払うと、ゆっくりと、しかし決定的に首を横に振った。


「嫌よ」


その一言は、地中深くから掘り出された鋼のように硬く、冷冷としていた。


「死なせてあげないわ。私はこれからも、あなたの治療費を世界の果てまで払い続ける。それが、この病院との契約だもの。私が治療費を払い続ける限り、この病院の最先端医療は、決して蒼真を死なせない。心臓を止めない。そう契約したのよ」


「蘭、頼むから目を覚ましてくれ! もう君を、地獄のような生活から解放させてほしいんだ! そのボロボロの、ただ肉の塊として残っている身体には、もう僕の魂の欠片すら入っていない! 僕は今、ここに、君の目の前に生きているんだ! あの身体が地球上から消え去ったとしても、君は絶対にひとりぼっちにはならないんだよ!」


「そうだとしても、私は『蒼真』の、そのすべてを、愛しているのよ」


蘭の声に、初めて激しい感情の色の波が混ざり合った。


「魂だけがあればいいなんて、そんな綺麗なこと思わない。その眠っている身体も、冷たい指も、細い髪の毛一本も、その全部が私の人生には必要なのよ。どれ一つとして、あなたに諦めていいと言われる筋合いはないわ」


蒼真の顔が、絶望の深い闇に染まっていく。彼はついに、血を吐くような真実の一端を告げた。


「僕たちの恋は、この世界では決して許されない恋だ。その身体がある限り、僕たちは、決して結ばれることはない。でも、レンの身体なら……この全くの他人である青年の身体なら、僕たちの恋は、誰にも咎められない、世界から祝福される、許される恋になる」


「そんなこと、わかってるわよ!!」


蘭はついに、堰を切ったように激しく叫んだ。その美しい瞳から、大粒の涙が次から次へと溢れ出し、彼女の白い頬を濡らして床へと落ちていく。


「そのことを考えなかった日なんて、生まれてから今まで、一日だって、一分だってないわ! 誰よりも、きっと蒼真、あなたよりも……私の方が、その未来を何千回も、何万回も強く強く願った!」


「だったら――! だったら、この手を取ってくれ!」


「無駄よ」


蘭は乱暴に袖で涙を拭うと、声音を再び氷点下へと戻し、静かに言い放った。


「その説得は、すべて無駄。どんなに、悪魔みたいに甘くて優しい言葉を私の耳元でささやいて、私を新しい幸福へと誘惑したとしても、無駄よ。私は絶対に、蒼真を二度と殺させない。この私の命が尽き果てて死ぬその瞬間まで、蒼真をこの世に絶対に繋ぎ止めてみせるわ」


その、常軌を逸した狂気的なまでの執着を前にして、蒼真はついに最後の、そして最悪の手段に出るしかなかった。


彼は震える手で、着ていた燕尾服の胸ポケットから、冷たく鈍い光を放つ医療用のメスを取り出した。


その鋭利な刃先を、ベッドの上で眠り続ける、自分自身の肉体の喉元へと狂気的に突きつけたのだ。


皮膚が一瞬、刃の重みで微かに沈む。


「わかった。なら、僕は最後の手を使うしかない。これなら君も納得するだろう」


「……」


「君をこの呪縛から解放するために、僕が、僕自身のこの手で、この動かない僕を、殺す。大丈夫、僕の魂は君とずっと――」


「やってみなさいよ」


その声には、感情が抜け落ちていた。


「蒼真が死んだら、私も死ぬ。それだけのことよ。蒼真が望んでいる未来は来ない。私だけが解放される? 呪縛? 勘違いしないで。私の愛を、呪縛だなんて言うことは、蒼真だって許さない。私は、決して、蒼真を殺さない。ただ、それだけよ」


「蘭……」


「出来ないこと、言わないで。殺せるなら、私を説得しなくてもいいじゃない。いつだって出来たでしょ? 蒼真が今も生きてるってことは、それが出来ないってこと。メスなんか用意しなくても、ケーブルを引っこ抜くだけでいいのに」


蘭の放った底知れぬ狂気は、蒼真の抱いていた絶望のすべてを完全に凌駕し、圧殺した。


「ああ……ああ……」


「あなたは所詮、蒼真のコピーよ」


蒼真は力なく、握っていたメスをシーツの上、そして床へとカラランと虚しい金属音を立てて落とした。


彼の身体からすべての支えが消え失せ、その場にガタガタと崩れ落ちる。


小さな子供のように声を上げて激しく泣きじゃくりながら、蘭の足元へと縋りつき、彼女の細い脚を抱きしめた。


「ごめん……っ、ごめん、ごめん、蘭……! 君の人生を、僕がすべて奪って……本当に、本当にごめん……っ!」


しかし、蘭はその彼の涙ながらの懺悔にも、自分を締め付けるレンの身体の温もりにも、もはや一欠片も心を動かされることはなかった。


彼女は足下で泣き叫ぶレンの完璧な美貌には一切見向きもしない。


幾重もの機械に繋がれて眠る、蒼真の青白く冷たい頬に、世界で最も深い愛を込めて、優しくキスを落とした。


「いいのよ、蒼真。さあ、あなたのために……明日から、またたくさん、たくさん働かなくちゃね」


暗闇の底で、蘭は、この世の誰よりも幸せそうな、狂おしい微笑みを浮かべるのだった。




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