月国の第二王女ですが、太陽国の王太子とは理想の夫婦を演じるだけの契約結婚のはずでした
創世神話では、太陽神リザーブは月神ティアを愛し、その光を昼と夜に分け与えたという。
その二神から生まれた双つ月は、夫婦仲をあらわすように片時も離れることなく、星空に浮かぶ。
だから、両国の婚姻は、昔から祝福されるものと決まっていた。
けれど、神話と現実は違う。
月国の第二王女セレネは、その違いを婚礼の夜に思い知った。
※
「公の場では、神話どおりの夫婦を演じていただきます」
そう告げたのは、今しがた夫となった太陽国の王太子アレクシスだった。
白金の燭台が揺れる。
夜会の名残りの香がまだ薄く残る新しい私室で、彼は一歩も近づかないまま立っていた。
整った面差しにも、金の瞳にも、喜色はない。
冷たいというより、余計なものを最初から切り落としている顔だった。
「両国のため、ですね」
「ええ」
「それ以外は」
「求めません」
短い返答だった。
セレネは、手袋の内側で指を握る。
この婚姻が、政略であることくらい、最初からわかっていた。
月国で育った王女である以上、いつか国のために嫁ぐ日が来ることも。
けれど。せめて、もう少しだけ柔らかな言い方はあるだろうと。
そう思った自分を、愚かだとも思った。
「私に求められるのは、太陽国の王太子妃としての役目ですか?」
「そうです。祭儀、夜会、外交。貴女が月国の王族として礼を失わず、私が太陽国の王族として不備なく振る舞う。それで十分です」
「……私情は不要、と」
「ええ、不要です」
迷いのない声音だった。
セレネは、一度だけ目を伏せる。
甘くてふわふわした恋愛がしたい、なんて言うつもりはない。
もう十八だ。夢見がちな年齢は、とうに過ぎている。
だが、嫁いできた夜に、愛は要らないと明言されて平気でいられるほど、心が石で出来ているわけでもなかった。
それでも、月国の姫として崩れるわけにはいかない。
「承知いたしました」
顔を上げ、セレネは静かに礼を取る。
「では私も申し上げます。公の場で、貴方の名を汚さぬことを、私の神たる太陽神に誓います」
セレネはわずかに震える声に、左手首の真新しい太陽神の銀十字をそっと右手で握りしめた。
嫁いだ以上、改宗は必須だ。
もうセレネの神は、優しい女神『月神』ティアではなく、勇猛な男神『太陽神』リザーブなのだから。
だから、
「私の祖国と、祖国の主神たる月神の、名誉にかけて。太陽神と月神の神話に泥を塗らぬよう、努めましょう」
そっと過去の神の影を添えたのだ。
「助かります」
アレクシスはそれだけ言って、机の上の書類を差し出した。
婚姻に伴う居室、祭儀、同席すべき夜会、外遊の予定。
そこには花嫁への労わりではなく、必要な項目だけが端正に並んでいる。
(冷徹だわ)
けれど同時に、セレネに曖昧な期待も持たせない。
それはある意味で、誠実なのかもしれなかった。
セレネは書類を受け取り、最後の頁まで目を通した。
そして最下部に、自分の名を書き添える。
「契約は、これで成立ですね」
「ええ」
「では、殿下」
セレネは微笑んだ。王女として教え込まれた、欠点のない笑みだ。
「明日から、理想の夫婦を演じましょう」
その言葉に、アレクシスはほんの僅かだけ目を細めた。
何を思ったのかは、わからなかった。
※
太陽国の宮廷は、明るく、華やかで、そして息苦しかった。
誰もがセレネを歓迎した。
月国より贈られた真珠、織物、香、神像。
どれよりも美しいと言われた。
王太子妃殿下と頭を垂れられ、侍女たちは恭しく裾を捧げ持ち、神官たちは祝福を述べた。
ただ、そのすべての奥に、薄い膜のような距離がある。
――和平のための花嫁。
――神話を再演するための月国の姫。
そう見られていることが、セレネにはわかった。
そんな中で唯一救いだったのは、アレクシスが少なくとも、公の場では一度も彼女を軽んじなかったことだ。
優しくはない。
だが、ぞんざいでもない。
舞踏会では必要な時だけ手を差し出し、神殿では歩幅を合わせ、夜会では必ず隣に立つ。
ただし、私室へ戻れば話は別だった。
「明日の祭儀ですが、太陽国式の献灯は、聖句第二節の後に一礼を挟むのですね」
婚礼から三日目の夜、明日の和合祭の手順書を読み終えたセレネが言うと、
「覚えたのですか」
アレクシスは顔を上げた。
「一度で?」
「一応」
「難しいはずですが」
「私は王族ですよ。月国でも、神前で間違えるわけにはまいりません」
セレネが答えると、彼はほんの少しだけ沈黙した。
その視線は品定めではなく、確認に近いものだった。
「……そうですか」
それだけで会話は終わる。
けれど翌日の祭儀で、セレネが太陽国式の祈礼を一度も誤らずにやり遂げた時、周囲のざわめきの中で、アレクシスだけが何も言わずに彼女を見ていた。
その視線が何だったのか、セレネにはまだわからなかった。
※
和合祭は、太陽神と月神の結びつきを祝う大祭だった。
太陽国の大聖堂には、昼だというのに無数の灯がともされている。
高い天井に反射した光が、白大理石の床に金の模様を落としていた。
王族、大神官、諸侯、外国使節。
見渡す限りの視線が、新婚の二人へ注がれている。
セレネは祭壇前でアレクシスの隣に立った。
月国から持参した銀糸のヴェールの上に、太陽国の黄金の飾冠。
自国と異国の象徴を重ねた装いは、まるでこの婚姻の証そのものだ。
朗々と祝詞が響く。
神官が両国の和を称え、神話の夫婦の名を唱える。
その後の祝宴までも、滞りなく終わるはずだった。
「見事でしたな、王太子妃殿下」
最初に声を掛けてきたのは、太陽国の大貴族のひとりだった。
歳を重ねた侯爵で、白い髭を整えた顔には笑みが浮かんでいる。だが、その目だけは笑っていなかった。
「月の姫君とは思えぬほど、太陽の礼をよく学んでおられる」
「光栄です」
セレネは微笑んで答える。
「両国の和合のため、当然の務めです」
その返答に、周囲の貴族たちも同意するように頷いた。
だが侯爵は、杯を傾けながらさらに言葉を重ねる。
「ええ、ええ。実に結構なことだ。何しろ月は、太陽の光を受けてこそ輝くもの。太陽国の宮廷におられれば、月国の姫もようやく本来の美しさを得られるのでしょうな」
一瞬、空気が止まった。
婉曲だが、十分すぎる侮辱だった。
月国は太陽国に照らされて、はじめて価値を持つのだと、そう言っている。
セレネは杯を持つ手に力を込めた。
笑って流すべきか、礼を尽くして返すべきか、一拍のうちに計算する。
「侯爵閣下」
と、声が落ちた。
低く、よく通る声だった。
アレクシスが、セレネの半歩前に立っていた。
表情は変わらない。いつもの冷静な顔だ。
だが金の瞳だけが、氷のように冷えている。
「今の言葉を、もう一度」
「で、殿下。私はただ、神話になぞらえて――」
「私が聞いたのは釈明ではありません」
祝宴のざわめきが、すっと遠のいた。
誰もが息を潜めている。
アレクシスは侯爵から視線を外さないまま、淡々と言った。
「月国を貶める発言は、王太子妃への侮辱です」
「しかし」
「そして」
彼は言葉を重ねる。
「私が迎えた妃を、和平の供物のように値踏みするな」
侯爵の顔色が変わった。
セレネも、目を見開く。
それは王太子として、夫として、当然の抗議を一歩越えた、明確な擁護だった。
神話の夫婦を演じるだけの契約。
そこに含まれていないはずの、私的な怒りがたしかに混じっている。
「殿下、私はそのような意図では」
「意図の有無は問題ではない」
アレクシスは冷えた声のまま言い切った。
「私の前で、私の妃とその祖国を軽んじた。その事実だけで十分だ。以後、言葉を慎め」
侯爵は顔を強張らせ、深く頭を垂れた。
ようやく緊張が緩み、周囲に押し殺した息が戻る。
アレクシスは何事もなかったかのように振り向くと、セレネへ手を差し出した。
「王太子妃」
「……はい」
反射のようにその手を取る。
温かい。意外なほど、しっかりと。
「次へ参りましょう」
「承知いたしました」
歩き出した後も、しばらくセレネの心臓はうるさかった。
これは公のための演技だと、自分に言い聞かせても収まらない。
だって、今の彼はあまりにも。
(契約の外だった)
※
その夜。
昼の喧騒が嘘のように、私室は静かだった。
「本日は、お疲れさまでした」
先に口を開いたのはセレネだった。
「祭儀も祝宴も、無事に終わりましたね」
「ええ」
「……先ほどは、ありがとうございました」
アレクシスが書類から目を上げる。
祝宴の後だというのに、彼はもう王族宛ての報告に目を通していた。生真面目というより、それ以外のやり方を知らない人の所作だった。
「王太子として当然のことをしたまでです」
「そうでしょうか」
セレネは小さく首を傾げた。
「契約には、私の祖国まで庇っていただく条項はなかったはずです」
沈黙が落ちる。
燭台の火が揺れた。
アレクシスは書類を閉じると、机の上に置いた。
「……貴女は、ああいう時も取り乱さないのですね」
「取り乱して良い場ではありませんでした」
「怒ってはいた」
「ええ」
否定しないのだ、とセレネは思う。
「ですが、私は月国の王女ですから」
自分でも驚くほど静かな声で言えた。
「侮辱されたからといって、国を背負ったまま感情を露わには出来ません。そう育てられました」
「そうですか」
アレクシスはわずかに目を伏せる。
「……貴方は、私が思っていたよりずっと強い」
その言葉に、セレネは息を止めた。
褒められたかったわけではない。
けれど、異国へ来てから初めて、一人の人間として見られた気がした。
「強くなど」
「いいえ。強い」
彼はきっぱりと言った。
「そして、公正だ。昼の祭儀も、祝宴も、誰より正しく振る舞っていた。我が国の、太陽国の礼を、三日であそこまで身につけるとは思わなかった」
「それは、貴方の名を汚したくなかったからです」
言ってから、少しだけ頬が熱くなる。
正直すぎただろうか。
だがアレクシスは笑わなかった。
ただ、静かに立ち上がる。
セレネの前まで来て、ほんの一瞬だけためらった後、右手を差し出した。
あの祝宴の時と同じ手だ。
けれど今、ここには誰もいない。
「殿下?」
「……昼のあれは、王太子としての言葉でもありました」
低い声が落ちる。
「ですが、それだけではない」
セレネは目を瞬かせる。
彼の金の瞳が、真正面から自分を見ていた。公の場で人々に向ける光ではない。もっと静かで、もっと近い色だった。
「私は、貴女を侮辱されるのが不快だった」
それは告白というには硬すぎて、それでも十分に私的な言葉だった。
「契約にない行動だったと、貴女は言った」
「はい」
「なら」
彼の指先が、そっとセレネの手に触れる。
「今から先は、契約の外です」
熱が、じわりと伝わった。
振り払おうと思えば出来た。
けれどセレネはそうしなかった。
ただ、見つめ返す。
「セレネ」
初めて、名前を呼ばれた。
王太子妃でも、月国の姫でもなく、ただ名だけを。
「次は、公のためではなく」
アレクシスは彼女の手を取り、指先を包み込む。
「私の隣へ来てください」
神話のような愛ではない。
両国を照らすような大きな言葉でもない。
けれどその一言は、国を越えてきた花嫁の胸に、静かに、確かに落ちた。
セレネは一度だけ目を伏せる。
それから、彼の手を握り返した。
「……はい、殿下」
少し考えて、首を横に振る。
「いいえ。アレクシス様」
その呼び直しに、彼はほんの僅かに目を見開いた。 やがて、ようやく笑う。
昼の太陽のような華やかな笑みではない。
誰にも見せない、静かな、ほとんど不器用な微笑だった。
月国の第二王女は、その夜になって初めて知った。
神話どおりの夫婦になれなくてもいい。
契約から始まった婚姻でもいい。
自分の意思で隣に立つと決めたなら、そこから先はきっと、誰のものでもない二人の物語になるのだと。




