第8章:無能な王と、開かれた「脆弱性」
かつて厳格な軍事的規律によって統制されていたオブライエン王宮は、今や息苦しいほどの怠惰が渦巻く巣窟へと成り下がっていた。
精巧な彫刻が施された黒檀の机――かつてアイシャが食糧安保戦略を練り上げた聖なる場所には、今や整理のつかない書類が価値のないゴミのように散乱している。
ハナはその大きな椅子に座り、浅く重い呼吸を繰り返していた。震える指先で軍事予算の数字をなぞるが、彼女にとってそれは、理解不能な古代の呪文にしか見えなかった。
【視点:ハナ ―― 「聖女」の傲慢】
「もう、どうしてこんなに難しいの……?」
ハナは掠れた声で零した。座り直そうとすると、鈍い痛みが走る。
顎と鼻梁に残る疼き――あの断罪の日、アイシャに叩き伏せられた際の「手土産」だ。
宮廷治癒師が最高級の魔法を施したにもかかわらず、骨の砕ける音と熱湯が肌を焼く記憶は、ストレスを感じるたびにハナを苛んでいた。
「お姉様は簡単だって言っていたわ。きっと、わざとシステムを複雑にして、私を大臣たちの前で馬鹿に見せようとしたのね」
彼女は苛立ち紛れに、泥だらけの床へ羽ペンを投げ捨てた。ハナにとって、王妃になるということは、王子の甘い接吻と絹のドレスに包まれることであり、忌まわしい国境の兵站管理に頭を悩ませることではなかったのだ。
執務室の双開きの扉が大きく開かれた。
肩に緩くマントを掛けた王子が歩み寄り、その後ろをティーセットを持ったマーサが、幽霊のように音もなく付き従う。
王子は床に散らばる書類を一顧だにせず、ただ透き通るような寝衣に身を包んだ、脆くも妖艶なハナに目を奪われていた。
「ハナ、愛しい人よ。なぜその美しい顔を、こんな紙屑のために曇らせているんだ?」
王子は近づき、その大きな手でハナの肩を後ろから抱き寄せた。
「王子……頭が痛むのです。あの傷跡が……また疼き始めて……」
ハナは甘えるように王子の腹部に頭を預け、実際には滑らかな肌に戻った頬をなぞった。
王子は低く笑った。それは情欲と、国家の職務に対する軽蔑が混じった声だった。
「そんなものは忘れろ。下卑た大臣共に頭を絞らせておけばいい。我が子の母親となるべき者が、退屈なインクの染みに毒される必要はないのだ」
王子はハナの椅子の前に跪いた。そして執拗な仕草で、妊娠の影響で浮腫んだ彼女の足を持ち上げ、シルクのスリッパを脱がせると、逞しい親指で足裏を揉みほぐし始めた。
彼はハナの指先に捧げるように口づけを落とし、足首から上へと、外の世界が破滅に向かっていることなど忘れたかのように、熱い愛撫を注いでいく。
「ああ、王子……もっと……っ」
ハナは艶めかしい吐息を漏らし、王子の黄金の髪を指でかき乱した。
部屋の隅でティーセットを置いたマーサの表情は、陶器のように無機質だった。だが、その瞳の裏側では、激しい怒りが沸騰していた。
(……恥知らずな、貪欲な豚共め)
マーサは深く呪詛を吐き捨てた。
かつてアイシャの指揮の下、王国の最後の砦であったこの場所で、国家機密の上に跨り睦み合う二人。それは聖なる軍旗に唾を吐きかける不敬そのものだった。
情事は加熱し、王子はハナの身体を持ち上げて執務机の上に座らせた。――重要情報の詰まった諜報報告書の真上だ。数枚の羊皮紙が床に滑り落ちる。
肌の擦れる音と荒い呼吸、ハナの嬌声が部屋を満たし、王国の尊厳ある執務室は、三流の情宿へと成り下がった。
「王子……マーサが見ておりますわ……」
ハナは囁きながらも、迎え入れるように脚を広げ、王子の背中にしがみついた。
「放っておけ。
あんなものはただの侍女だ。部屋の家具と変わりはしない」
王子は吐き捨てるように言い、欲望のままにハナの唇を塞いだ。
マーサは顔を背けた。
胃の底から込み上げる強烈な吐き気を押し殺す。だが、その怒りの中で、彼女の鋭い目は好機を逃さなかった。
机の脚元に、ハナが「複雑すぎる」として投げ捨てた巻物が転がっている。マーサはその血のような赤い封蝋に見覚えがあった。
【北部鉱山抽出契約書】
【傭兵団・給与名簿】
それは王子の権力の心臓部。公金の横領と裏切りの証拠。アイシャの手に渡れば、王冠の正当性を一瞬で瓦解させ得る致命的な文書だ。
エリート隠密から学んだ影のような速さで、マーサは空のカップを片付けるふりをして跪いた。そして、重みのある巻物を侍女服の隠しポケットへと滑り込ませた。
彼女は再び立ち上がり、快楽に耽る王子の背中に向かって完璧な一礼を送ると、音もなく部屋を後にした。
静まり返った廊下で、マーサは深く息を吸い込んだ。肺を満たす安物の香水の残り香を追い出す。
窓の外、暗闇に包まれながらも、新たな鼓動を始めた下層地区を見つめる。
「アイシャ様……『餌』は確保いたしました」
マーサの唇に、冷酷で美しい微笑が浮かぶ。
「せいぜい今のうちに、束の間の天国を愉しむがいいわ。……地獄の底へ引き摺り落とされる、その時まで」




