第18章:崩落の序曲(オーバーチュア)
タッタッタッタッ……!
ハンスが駆る軍馬の蹄音が、漆黒の森の静寂を切り裂いていた。
夜明けが訪れる前に、何としてもルークソウの境界へ辿り着かなければならない。道中、彼の鋭い眼光が、低空を滑空する猛禽のシルエットを捉えた。
(……伝書のハヤブサか?)
ハンスは手綱を引き、土煙を上げながら急停止した。ハヤブサが彼の革製の籠手に止まる。ハンスは鳥の足から小さな筒を取り出し、微かな月光の下でその中身を改めた。
アイシャが示した複雑な指示――東部へ移動し、村の遊撃単位を「クロックワーク(時計仕掛け)戦略」の座標に配置せよという命令を、彼は瞬時に脳内へと刻み込む。
「4時と5時のセクターか……。奥様は、奴らの退路を完全に断つおつもりだな」
ハンスは低く呟いた。彼は再び馬を走らせる。今度はより明確な殺意を持って。現時点において、「時間」こそが最も希少な資源なのだ。
【オク・ボナシ王国 ―― 大広間】
一方、権力の中心地では、エゴという名の祭壇の上で「論理」が供物として捧げられていた。大広間は、災厄の予兆を嗅ぎ取った重鎮たちの激しい論争によって揺れていた。
「王よ、この挙兵はあまりに無謀です! 無益な野心のために貴重な資源を浪費するなど!」長老会の老貴族が声を荒らげる。「アイシャ亡き後の兵站問題も解決せぬまま、新たな戦端を開くというのですか!?」
玉座の傍らでは、ハナが不満げに頬を膨らませていた。その整った顔は、子供じみた憤怒で赤らんでいる。「王子様……あの人たちを黙らせて。どうして私をいじめるの……?」彼女が甘ったるい声で囁く。
「私が黙らせてやろう、愛しい人よ」
王子は応え、傲慢な覇気を纏って広間の中央へと歩み出た。
「黙れ、貴公ら! たかがマーベリー卿ごときに怯えているのか? 奴は我が軍の零点五パーセントにも満たぬ戦力しか持たぬ弱小貴族だ! 精鋭を四十騎も送れば、ルークソウなど一分で跪くわ。
奴らは我が使者を殺害した。これは明確な宣戦布告だ!」
「しかし王子、アイシャの監査システムを失って以来、国庫は底を突いております!」別の貴族が食い下がる。
老王が突如として立ち上がり、机を叩きつける音で議論を粉砕した。「黙らぬか! 余が王である! 王家の血を引く我が孫を宿したハナの幸福のためならば、貴公らの異議など知ったことではない! 将軍、直ちに軍を動かせ!」
「御意、陛下!」
将軍が敬礼を送る。間もなく、百騎の精鋭騎士(王子の言った「四十」という甘い見積もりを現場が修正した数だ)の蹄音が、不気味に遠ざかっていった。
【数刻後 ―― エララの馬車内】
「あぁ……疲れたわ。今回のイントリグ(陰謀)は三流すぎて反吐が出るわね」
私は背もたれに身を預け、独りごちた。だが、馬車が突如として急停車する。一人の男が乱暴に乗り込み、私の口を無作法に塞いだ。
「ふざけるなよ、エララ! 貴様、どこで何をしていた?」
男は私の頬を強く掴み、低く唸った。「ロイヤル・サロンが襲撃され、ならず者共が勝手に税を徴収し始めているという。なぜ報告しなかった!?」
私はギラつく男の瞳を見つめた。恐怖よりも、どろりとした悦楽が背筋を走る。
「ふふっ……その掴み方、嫌いじゃないわ。落ち着いて、私もその場に居合わせただけよ」挑発的に囁く。
――パァン! 一発の平手打ち(ビンタ)が飛んできた。私は口端から流れる血を舌で拭い、満面の笑みを浮かべる。「私を打ったわね? 私がこれをどれだけ好んでいるか、知っているでしょう?」
「エララ、貴様の狙いは何だ? これは誰のゲームだ?」男は手を離した。「この件、長老会に報告させてもらうぞ」
「やってみれば?」私は静かに挑発した。「私はハナに助言を与えただけ。あの女がド級の無能なのは、貴方も知っているでしょう?」
男は私を鋭く睨みつけ、闇の中へと降りていった。「……バカなのは知っている。だが、これほどではなかったはずだ。もし貴様が裏で『遊んで』いるのなら、この手でその首を叩き落としてやる」
男の気配が消えた。私は乱れた髪を整えながら、くすくすと笑った。
「ええ、やってみなさいな、愛しい人。けれど、私の首が落ちる前に……この国がアイシャ様の掌の上で灰になるのが先よ」




