第16章:死の保険(デス・インシュアランス)の締結
私は馬車の扉をゆっくりと開いた。サミュエルが即座に手を差し伸べる。その指先に手を添え、私は優雅に降り立った。黒いドレスの裾が、ルークソウの湿った大地を静かになぞる。
私は落ち着いた歩調を保ちながらも、鋭い視線で左右を索敵した。
そこには、重装鎧を纏った十人以上の騎士たちが立っていた。
私のシステム分析によれば、彼らの精神状態は「忠誠」と「絶望」の間で揺れ動き、どん底に達している。
(……正直に言えば、怖い。恐ろしいわ)
半月の下で鈍く光る槍の穂先を前に、心臓が激しく脈打つ。だが、危機管理において、恐怖を表に出すことは損失でしかない。
私は毅然とした足取りで、城の隅にある石造りの小屋へ入った。扉を支える衛兵が、侮蔑と困惑が入り混じった表情で私を睨む。「……入れ」
中へ進むと、そこには今にも消えそうな蝋燭が一歩灯っているだけだった。「待っていろ。主はすぐにお見えになる」
背後で扉が重々しく閉まり、私とサミュエルは息の詰まるような静寂の中に残された。
扉が施錠されると、急に冷気が骨の髄まで突き刺さるように感じられた。
私は自分の手がわずかに震えているのに気づく。これはもはや、紙の上の数字のやり取りではない。命のやり取りなのだ。
「ご安心ください、サラ様。私が貴女をお守りします」
サミュエルが低く囁いた。彼は私の心拍の乱れを見抜いているようだった。その言葉が、凍てつく空気の中で小さな体温を与えてくれる。
突如、板張りの床から隠し扉が開いた。その年齢にしては見事な俊敏さで、一人の男が姿を現した。使い込まれた鎧に城の埃を纏ったその男は、地上へ這い上がると腕の汚れを払った。
「まさか、貴女がここへ来るとはな。……アイシャ様」
「マーベリー卿。お会いできて光栄だわ」
私は立ち上がり、丁寧に一礼をした。現在の武力の差を認め、敬意を払う――それが交渉の定石だ。
「なぜ、そんな姿に?」マーベリーは隠し扉を閉じると、私の頭を覆うターバンを複雑な眼差しで見つめた。「……あの愚か者どもの仕業か?」
「ええ。そして、奴らは再び愚行を繰り返そうとしている。だから、ここへ来たの」
私は背筋を伸ばし、残された唯一の武器である「気品」を崩さずに言い放った。
「ほう……?」マーベリーは椅子に重々しく腰を下ろし、硬直している私を見て溜息をついた。「……アイシャ様、座られよ。今は立場こそ違えど、貴女は多くの面で私より強かだ」
私はゆっくりと椅子にかけたが、背筋は伸ばしたままだ。マーベリーは目を細め、猜疑心に満ちた目で私を見た。
「……復讐がしたいのよ」私は声を低めて告げた。
「かつて私が守り抜こうとした、あの愚かなシステムを叩き潰したい」
マーベリーはしばし沈黙し、それから突然、嘲笑の声を上げた。「復讐だと? アイシャよ……これは演劇ではないのだぞ。
たかが三十匹のドブネズミを連れてきて、裏切られたという私情のために、私の領民の命を差し出せと言うのか?」
彼は身を乗り出した。その覇気が、突如として威圧的に膨れ上がる。
「ハナが薔薇を欲しがっているから王子が攻めてくる、だと? そんな情報は聞き飽きている。
私の間者も掴んでいることだ。だが、貴女が言わなかった事実がある。――私が抗えば反逆者、降伏すれば領地没収だ。
ならば、貴女の首を王の使いに差し出せば、一滴の血も流さずに領地問題を交渉できるのではないか?」
サミュエルが即座に動き、剣の柄を握りしめた。
小屋の外の衛兵たちも、気配を変える。空気は一触即発の熱を帯びた。
「計算ミスだ、アイシャ」マーベリーが低く唸る。「私を甘く見すぎたな。宮廷での地位すら維持できなかった『マネージャー』の言葉を、誰が信じるというのだ?」
項に冷や汗が流れる。一言でも間違えれば、サミュエルはここで一箇中隊を相手に絶望的な戦いを強いられる。私は深く息を吸い込み、マーベリーの目を真っ直ぐに見据えた。
「……ええ、どうぞ。
卿、私の首を差し出しなさいな」
私は静かな微笑みを浮かべた。その余裕に、マーベリーの眉が動く。
「北部の全物流コードと小麦の供給網を握る女の首を差し出せばいい。……そして、王子が単に薔薇を求めているだけでなく、この城を他の辺境貴族を威圧するための収容所に変える計画を立てている……その事実を知る唯一の人間を、殺せばいいわ」
マーベリーが絶句した。「……どういう意味だ?」
「経営学的な推論よ、卿」私は机を指先で叩いた。「ハナは単なる口実に過ぎない。真の目的は、南部の最後の障害である貴方の影響力を削ぐことにあるの。
私の首を差し出せば、奴らは戦わずして最初の勝利を手に入れるだけ。……彼らは首を受け取った一ヶ月後、貴方の交渉力が消えた頃に、結局この土地を奪いに来るわ」
私は身を乗り出し、すべてを賭けて言い放った。
「貴方が私を必要としているのは、前線で戦うためじゃない。この侵攻を王国にとって『極めて高コスト(ひきあわない)』なものにし、撤退せざるを得ない状況を作るためよ。
私の三十人は、破壊の専門家。正規軍と正面から戦うのではなく、奴らの兵站を、橋を焼き払うためのユニットよ」
マーベリーは沈黙した。私の震える手と、それとは裏腹に揺るがない声。彼は気づいた。私が慈悲を乞うているのではなく、「死の保険」を提案しているのだと。
「……貴女という女は」マーベリーは背もたれに身を預け、苦々しく笑った。「自分が奴らより賢明であることを証明するために、命を懸けるというのか?」
「命を懸けているのは、私なしでは貴方が『72時間以内』に死ぬ運命だからよ」私は鋭く返した。
重苦しい静寂が小屋を包んだ。マーベリーは天井を見上げ、再び私に視線を戻した。「……一度の過ち、アイシャ。計画の中に一度でも嘘を見つけたら、その時は、私が自ら貴女のその頭を叩き割ってくれる」
私は止めていた呼吸を静かに吐き出した。「――契約成立ね、卿。……さあ、貴方の部下を呼びなさい。焼き落とすべき橋のリストを精査しましょう」




