第14章:機先(きせん)を制する強行軍
陽が落ちたばかりの空には、冷え切った王宮の石壁と対照的な橙色の残光が滲んでいた。私は静かに側道の廊下を歩く。
指先がわずかに震えているのは、恐怖からではない。先ほど広間で目の当たりにした、王子と王のあまりの愚かさに対する高揚――アドレナリンの残り香のせいだ。
【視点:エララ ―― 影の操り手】
「ハナ、ハナ……貴女は本当に、自分自身を刺し貫く棘を持った薔薇ね」私は低く囁いた。
暗い通路の突き当たり、厨房の備蓄庫の近くで、下男の服を着た一人の男が野菜の箱を運んでいた。アルバートだ。彼はこの秘密組織における、最も信頼できる連絡役だった。
「今日の野菜は新鮮かしら、アルバート?」
盗み聞きしている者の耳には、単なる世間話にしか聞こえないトーンで声をかける。
アルバートは手を止め、額の汗を拭った。
「新鮮ですよ、レディ・エララ。ですが、底の方にあるキャベツがいくつか腐びれています」
それが私たちの合図だ。
『底が腐っている』――すなわち、長老会の足並みが乱れている。私は近づき、彼のエプロンの質を確かめるふりをして、左手で素早く小さな紙片を彼のポケットに滑り込ませた。
「そのキャベツはすぐに『粘液地区』へ送ってちょうだい。腐敗臭が王宮に漂っては困るわ」私は薄く微笑んだ。
「承知いたしました、マイレディ」
私が立ち去ると、アルバートは電光石火の動きで隠しコンパートメントを持つゴミ車へと向かった。一時間もしないうちに、その情報は地区の境界を越え、ヘレンの手へと渡った。
【粘液地区 ―― 暫定司令部】
ヘレンは届いた巻物を険しい表情で受け取った。情報の集積責任者として、彼女は一分一秒の重みを知っている。内容を精査する時間は惜しい。彼女は即座に要点を暗号化して書き写した。
「四番の伝書鳩を飛ばせ。ターゲットは鉄の地区へ向かっているアイシャ様の馬車だ」
一羽の鳩が夕闇の空へと舞い上がり、乾いた大地へと突き進んでいく。
【鉄の地区境界 ―― 川辺】
清らかな川のせせらぎだけが、静かな森に響いていた。私は大きな岩の上に座り、疲れた顔を洗う。軽装の騎士服がわずかに濡れたが、その冷たさが戦略と数字で埋め尽くされた脳を冷やしてくれる。
不意に、上空で羽ばたきの音がした。
馬車の傍らで剣に手をかけ警戒していたハンスが、空を見上げた。彼は腕を伸ばし、一羽の鳩をその逞しい袖に止まらせた。
「アイシャ様」ハンスが歩み寄る。騎士の威厳を保ちながらも、その足取りは速い。彼は鳩の足から小さな筒を外し、休息中の私の前へ差し出した。
「エララからヘレンを経由した緊急連絡です。……王宮の『爆弾』が爆発したようです」
私は布で手を拭き、その紙片を受け取った。エララが記した暗号を素早くスキャンする。
「ルークソウ……薔薇……72時間以内に侵攻……」
私は絶句し、静かだが底知れぬ川の流れを見つめた。脳内で新しいシナリオが構築されていく。
複雑だった政治地図に、巨大な「空白」が生じ始めていた。
「ハンス、サミュエル! 休息は終わりよ!」
私は立ち上がった。疲労の色は消え、捕食者の鋭さが宿る。
「計画変更よ。ロバートの剣の納品を待つ時間はない。今夜中にルークソウへ向かうわ」
「アイシャ様!? ルークソウは三日後には戦域になりますが……」サミュエルが驚愕する。
「だからこそよ」私は馬車に飛び乗った。「王の使いがふざけた要求を持って到着する前に、私たちが辿り着くの。
王が薔薇園のためにルークソウを奪うつもりなら、私はあそこを最初の軍事拠点として確保するわ」
私は、マーベリー卿の領地がある南へと目を向けた。
「ハナには薔薇をあげればいい。けれど、その薔薇が育つ『土地』を握るのは私よ」
私は濡れた布を強く絞り上げた。「ハンス、サミュエル! 猶予は無いに等しいわよ」
馬車に乗り込む寸前、私は思い出したようにサミュエルを振り返った。「……そうだった。サミュエル、先に『仲介人』に会うわよ」
「御意、アイシャ様」
馬車の天板に広げた地図を睨みつける。
(ルークソウはハナにとってはただの庭園に過ぎないけれど、私たちにとっては難攻不落の要塞になるわ。
王宮の最初の剣がその地を叩く前に、マーベリー卿に命の恩を売っておかなければ……)
私は羽ペンを取り、二通の重要な書状を猛烈な勢いで、しかし冷静に書き上げた。一通はマーベリー卿へ。
彼の命を救うことになる早期警告。もう一通はトメ・ヨークへ。この強行軍の費用を賄うための緊急資金援助の要請だ。
「ハンス!」窓を開け、並走する彼を呼ぶ。「この手紙を鉄の地区境界にある秘密の投函所へ。トメへの手紙は夜明け前に届かせなさい。
ルークソウでの作戦には、より多くの現金が必要よ」
ハンスは土煙の中に消えた。サミュエルが操る馬車は、ロバートが指定した場所へと突き進む。そこには、首に大きな傷跡のあるフードを被った男が待っていた。
道徳はなく、対価だけを信じる武器売買の仲介人だ。
「お貴族様が、叩き(たたき)の専門家をお求めかな?」仲介人が掠れた声で訊く。
「軍の制服を着ずに殺しができるプロを三十人」私は手付金の袋を投げた。「金貨44枚。今すぐ南のルークソウへ向かいなさい。任務は攻撃じゃない。マーベリー卿を守る『影の盾』になることよ」
仲介人は金袋の重さを確かめ、口角を上げた。「三十人の屠殺屋を動かしましょう」
【ステータス:C級傭兵集団 ―― 展開開始】
【ターゲット:ルークソウ防衛】
「サミュエル、貴方は車内へ。間道を抜け、マーベリー邸へ突っ切るわよ。敵としてではなく、福音を運ぶ者として辿り着かなければならないわ」
【一方その頃:粘液地区】
粘液地区の心臓部では、トーマスがエララの護衛任務から戻っていた。拠点に足を踏み入れるなり、ヘレンが緊急報告を突きつける。
トーマスは南の空を見つめ、元騎士団長としての闘争本能を滾らせた。頑固なマーベリー卿を相手に、アイシャが一人で交渉に臨むリスクを彼は知っている。
「アルバート!」
「ここに、隊長」
「武器を扱えるならず者を引き連れ、ルークソウへ向かう。
アイシャ様の交渉が難航した際、物理的なバックアップが必要だ」トーマスが防具を締める。「貴様はこの地区を死守しろ。長老会のネズミ共に隙を見せるな。ヘレンを使って足跡を消せ」
「了解しました、隊長。アイシャ様の髪一本たりとも、傷つけさせはしません」アルバートが揺るぎない忠誠を誓う。
その夜、静寂の中で巨大な歯車が動き出した。アイシャが黄金の外交で先陣を切り、トーマスが鋼の武力で後詰めを果たす。
王宮でハナが薔薇の夢を見ている間に、影の軍団はその棘を一気に抜き去る準備を整えていた。




