第13章:傾国の薔薇(ロイヤル・ローズ)と予算の崩落
――チチチ、と。
樫の枝で鳴く雀の声がエララを揺り起こした。彼女はまどろみの中で、ベッドの傍らに横たわる二人の門番と一人の侍女の温もりを感じた。
昨夜、エナジーを枯渇させるまで繰り広げられた、肌の饗宴の残骸だ。エララは一物も纏わぬ姿で起き上がり、朝風に身を晒した。
その白い肌には、至る所に悦楽の紅い痕跡が刻まれている。
「あぁ……人生って素晴らしいわ」
髪を梳きながら、エララは独りごちた。彼女にとって肉体的な快楽は前座に過ぎない。
自らが丹念に組み上げた王宮の崩壊こそが、メインディッシュなのだから。
【オブライエン王宮 ―― 薔薇の庭園】
薔薇の甘い香りが漂っているが、エララにはそれが香水で誤魔化された死臭のように感じられた。白いガーデンチェアに座るハナが、膨らみ始めた腹部を愛しそうに撫でている。
「エララ! 戻ったのね!」
ハナは重そうに立ち上がると、少し浮腫んだ顔に喜びを浮かべてエララを抱きしめた。「とても心配したわ……大丈夫だったの?」
「ええ、大丈夫よ、ハナ。祈りが私を守ってくれたの」
エララは聖母のような微笑みを浮かべた。神をも欺ける、完璧な偽善の笑みだ。
ジャスミンティーを楽しみながら、ハナは愚痴をこぼし始めた。近くで見れば、彼女の鼻筋はわずかに歪んでいる。
「鼻がまだ疼くのよ、エララ」ハナは涙ぐみながら、こめかみの髪をかき上げた。そこにはアイシャが浴びせた熱湯による、赤黒い火傷の痕が残っている。
「鏡を見るたびに思い出すわ。アイシャお姉様の残酷さを。あの人は怪物よ。嫉妬だけで、妹の顔を壊すなんて……」
エララは殊更に痛ましそうな顔を作り、ハナの頬を優しく撫でた。
「あぁ、可哀想なハナ……」
(この泥棒猫、本当に無自覚なのね。私なら熱湯どころか、硫酸をぶっかけてやるわ。
鼻が折れたくらいで済んだことを感謝しなさい)
内心の毒を隠し、エララは攻勢に出た。
「いいのよ、ハナ。下層地区で朽ちていく怪物のことなんて誰が気にするかしら? 今や貴女こそが、この王宮の主役なのよ」
「でも、王子様はアイシャが残した混乱のせいで忙しくて」ハナが唇を尖らせる。「結婚式は世界一豪華にしたいのに、この庭園ときたら……退屈だわ。薔薇も色褪せて、私のステータスに相応しくないわ」
――隙あり。エララは身を乗り出し、甘く挑発的な囁きを落とした。
「ハナ、なぜこの薔薇が色褪せて見えるか分かる? これは下賤な民のための花だからよ。
次期王妃に相応しい美しさを求めるなら、ルークソウ地方の『血塗られた大紅薔薇』が必要だわ」
「ルークソウ? でも、あそこは辺境貴族との係争地だって王子様が言っていたわ。
デリケートな場所なんですって」
「デリケート?」エララは短く笑い、ハナの手を固く握った。「ハナ、貴女は王位継承者を宿しているのよ。貴女の幸福に比べれば、地方貴族のプライドなんて何の意味があるのかしら?
王様や王子様が貴女を本当に愛しているなら、結婚の贈り物としてルークソウを差し出すはずだわ。……もし断るなら、彼らは貴女とお腹の子を軽んじている証拠よ」
ハナの無垢な瞳に、底知れぬ野心とエゴが宿る。「……そうね、エララ。私は次期国母だもの。欲しいものは何でも手に入れる権利があるわ」
ハナは即座に侍女を呼びつけ、甲高い声で命じた。「王様と王子様に伝えなさい! 今すぐお会いしたいと!」
「行きましょう、エララ。私の願いが叶う瞬間を見届けて」
「ええ、ハナ。貴女の幸せな顔が見たいわ」
(求め続けなさい、ハナ。王国の予算を食い潰し、貴族たちが反旗を翻すまで。貴女と王子の首が槍の先に掲げられるのを、私は特等席で見守ってあげるわ)
【中央王宮 ―― 最高評議会】
私たちが到着した時、大広間は殺伐とした空気に包まれていた。老王が疲れ果てた目で座り、その隣で王子がいら立ちを露にしている。前では長老会の重鎮たちが激しい議論を戦わせていた。
「アイシャ・ファン・オブライエンの追放により、軍事兵站に致命的な空白が生じております! 監査のやり直しを!」
「黙れ!」王子が顔を真っ赤にして怒鳴る。「二度とその女の名を口にするな!」
そこへ、ハナが優雅に、そして背後に従者のように控えるエララを伴って現れた。
「王様……王子様……」ハナの柔らかな声が、一瞬にして広間の緊張を弛ませる。
王は顔を綻ばせた。「ハナか。どうした、身重の身体で無理をしてはならんぞ」
王子も寄り添い、彼女の腰を抱く。「何か悩み事か、愛しい人よ」
ハナは「世継ぎの母」としての色香を振り撒きながら、深く息をついた。「結婚式のこと……そして、この子の未来のことを考えていたのです。
この庭園の薔薇は、あの子を迎えるにはあまりに萎れすぎていると感じて……」
「……それで、何を望むのだ?」
「ルークソウが欲しいのです」ハナは断言した。「あそこを私の結納品にしてください。
あの子が比類なき美しさの中で生まれてこられるよう、あそこに薔薇の宮殿を建てたいのです」
静寂が広がった。長老会が顔を青ざめさせて互いを見やる。
ルークソウは単なる土地ではない。忠誠心は高いが極めて誇り高い辺境貴族、マーベリー卿の自治領なのだ。
「ルークソウだと?」王子が躊躇する。「だが、あそこはマーベリー卿の領地だ。一方的に奪えば……」
「私のことは愛していないの?」ハナの目に涙が溜まる。
いつもの、拒絶を許さない泣き落としだ。「老いた騎士たちの体面が、貴方の血を引く子の母親の願いよりも大切なことなの?」
王はハナの身勝手な勇気に当てられたのか、突如として机を叩いた。
「孫の母親が望むのであれば、ルークソウは彼女のものだ! マーベリーに使いを出し、譲渡を迫れ。拒むならば武力を行使するまでだ!」
王子も父に負けじと声を張り上げた。「拒むなら俺自らが軍を率いよう。ルークソウをお前の庭にしてやる、ハナ」
背後で、長老会の面々がこめかみを押さえるのが見えた。操りやすいハナを担(担)ぎ上げたはずが、彼女が薔薇のために内戦の火種を撒くとは予想外だったのだろう。
私は深く頭を下げ、勝利の笑みを隠した。
【通知:外交的危機を検知】
【国家予算ステータス:致命的赤字】
「ありがとう……嬉しいわ」ハナが王子に抱きつく。その目は王を、そして権力を陶酔したように見つめていた。
(いいわ。薔薇のために戦いなさい。アイシャ様が地下で鋼を打っている間にね)




