第12章:二重密偵(ダブルエージェント)の帰還
貴族街の夜は、あまりに静かで傲慢だ。つい先ほどまで身を置いていた「粘液地区」の喧騒とは、あまりに対照的だった。
トーマスは実にも手際の良い男だ。彼は私を、まるで通り過ぎる影か何かのように、国境の巡回の目を盗んで密入国させてみせた。
私は、自分自身の屋敷の鉄柵の前に立っていた。服は質素で、わざと薄汚れたものを選んでいる。「強盗に遭って失敗した巡礼の旅」というアリバイを補強するためだ。
「レディ・エララ!?」
半月の光の下で私の顔を確認した門番が、驚愕して声を上げた。「お戻りになられたのですか?」
「お父様とお母様はまだ?」
私は声を極限まで弱々しく装いながら問うた。ドレスの下で今なお疼く、トーマスの鞭が残した悦楽の余韻を押し殺して。
門番は慌てて門を開いた。
「まだでございます、お嬢様。旦那様と奥様は今も貴族議会におられます。レディ・アイシャが残した資産を巡る緊急会議が難航しているとか……。
聞けば、多くの重要書類が滞っていることに長老会が憤っているそうです」
(アイシャの資産? ふふ……。彼女がその地下で、どんな怪物を育てているかも知らずに)
私は内心で可笑しそうに独りごちた。
私は二人の若い門番を見つめた。身体が突如として、あの「感覚」を渇望し始める。地下室でトーマスに「壊された」記憶が、私の理性をわずかに狂わせていた。
「そうなの……」
私は歩み寄り、マントをわずかにはだけさせて、白く、しかし痣の残る肩を晒した。情欲を孕んだ視線で彼らを見つめると、彼らの息が止まるのが分かった。
「……だったら、今夜は私に付き合ってくれないかしら? 長い旅のせいで、とても心細いの」
二人の門番は生唾を飲み込み、私が仕掛けた醜悪な誘惑に囚われた。
だが、それ以上の言葉が交わされる前に、正面玄関から一人の侍女が駆け出してきた。
「エララお嬢様! よくぞご無事で! 王宮から至急の招待状が届いております!」
侍女が差し出したのは、百合の紋章の金封が施された手紙だった。ハナからだ。
『親愛なるエララ。明日の朝、薔薇の庭園へ来てちょうだい。
王子様が税金の件で頭を悩ませていて、次の舞踏会について貴女のアドバイスが欲しいの。会いたくてたまらないわ』
私はその手紙を握りつぶし、満面の笑みを浮かべた。哀れなハナ。
彼女は親友を待ち侘びている。私は、アイシャが彼女を玉座から引き摺り下ろし、その顔が絶望に歪む瞬間を待ち侘びているというのに。
【ステータス:エララ ―― 二重スパイ(ダブルエージェント)起動】
【ミッション:ハナの側近層への浸透】
「……お風呂を沸かしなさい」
私は侍女に命じた。声は再び、威厳ある貴族の令嬢へと戻っている。
「明日の朝は、次期王妃様を迎えるのに相応しい完璧な姿でいなければならないから」
私は再び門番の二人に向き直った。彼らは欲望と恐怖の間で小刻みに震えている。
「……他の番兵も呼びなさい。今夜は彼らと一緒に『遊びたい』の」
私の個人的な狂気を知る侍女は、ただ静かに頭を下げた。「承知いたしました、お嬢様。私室の浴場にすべて用意させます」
私はその侍女の顎を細い指先で掬い上げ、青ざめた顔を上向かせた。
「……貴女もよ。今夜は、貴女のことも徹底的に屈服させてあげたいわ」
トーマスの前では、痛みだけを乞う憐れな負け犬。だがこの屋敷では、私こそが女王。弱者を蹂躙する捕食者なのだ。
【エララ邸 ―― 私用浴場】
白い大理石と薔薇の香油の香りが漂う空間に、熱い湯気が立ち込めていた。私は薄汚れたドレスを脱ぎ捨て、トーマスが刻んだ「芸術作品」――全身に広がる赤い痕跡を露にした。
「……入りなさい」
私は腰布一枚の姿になった門番たちと、震える侍女に命じた。
温かい湯に身を沈め、傷口を焼くような熱刺激に溜息を漏らす。最高に気持ちいい。
侍女が怯えながら近づき、絹のスポンジで私の背を流し始めた。
「なぜ手が震えているの、可愛い子?」
私は突如として振り向き、彼女の髪を掴んでその顔を私の胸へと押し付けた。
「この傷を見るのが怖いの? それとも、自分も同じ目に遭いたくて嫉妬しているのかしら?」
私は不健康な高笑いを上げた。浴槽の縁に腰掛け、門番たちに私の足を揉ませる。
「聞きなさい。明日、私はハナに会うわ。貴方たちの『清廉なる』次期王妃様にね。彼女は世界が美しいと信じ、王子の愛がすべてだと思い込んでいる」
私は侍女の頬を赤くなるまで抓り上げた。
「彼女が幸せな夢を見ている間に、私は彼女が自分自身の墓穴を掘るのを手伝ってあげるの。
……楽しいと思わない?」
私は目を閉じ、明日の朝、愚かなハナが私に王宮の機密情報を漏らす姿を想像した。舞踏会のアドバイス? ええ、喜んで。
王国の国家予算がさらに血を流すような、最高のアドバイスを授けてあげるわ。
「アイシャ様……貴女の望むすべてを、私が差し出します……」
豪華な壁の裏側で、私は自らの「支配欲」を満足させていた。
それは明日、本物の「マネージャー(アイシャ)」の足元に跪く忠実な犬に戻るための、歪な精神防衛儀式だった。




