高橋美咲
どうにかゼミの課題を提出したから、明日からしばらくはのんびりできる。七月下旬にもなればすっかり夏だ。湿気が纏わりつく空気に、空から降り注ぐ紫外線。大学からの帰り道、暑さに耐えれなくなった私は、炎天下から逃げる様にスーパーに入った。
「はぁー!涼しい!文明の利器最高。」
冷房の効いた店内の涼しさに、オッサンみたいな口調で独り言が漏れた。母さんに頼まれた食料品の買い物は最後にする事にして、一先ず遅めの昼食を摂る為に三階のフードコートへと向かった。
お好み焼きでも食べようかななんて思いながらエスカレーターに乗っていたら、向かい側、下りエスカレーターに見知った顔を見つけて驚いた。向こうは私に気付いた様子すらないけれど、見間違うはずがない。付き合って三年も経つ自分の彼氏が、別の女と手を繋いで下りのエスカレーターに乗っている。しかも私がしたら、「恥ずかしいから離れろ」と嫌がる距離感で別の女と顔を近づけて楽しそうに話をしている。
一緒にいる女の子は染めた長い髪を緩く巻いて、バサバサ音がしそうな睫毛を付けた派手なお化粧をしている。私とは真逆の外見だ。何も知らずに見ればお似合いのカップルに見えて、ストンと納得してしまった。
三年前の春に友達に人数合わせに呼ばれた合コンで知り合った彼は、関西弁の人懐っこくて明るい人で、飲み会が苦手な私も話しやすかった。洋服や髪色がちょっと派手な気もしたけど、大阪はみんなこんな感じと言われて納得した。
「美咲って、素朴で落ち着くよね。付き合うなら落ち着ける子がいいなと思うんだ」
そう囁かれて私はすっかり舞い上がった。背が高くて、鼻筋が通っていて、誰もが振り返るようなイケメン。自分がそんな人と付き合うなんて思ってもなかった。
一緒に松江までドライブに行ったり、出雲の海を眺めたり。会話が弾まない時があっても、「彼はクールな人だから」と自分に言い聞かせてきた。時々彼のアパートにお邪魔してご飯を作ってあげたらすごく喜ばれたし。
これまでの事を思い返しつつも、すれ違うまでの間にスマホを取り出して、画面を見ている振りをしながらカメラを起動した。写真はシャッター音が大きすぎる。こういう時は動画だね。画面越しに見る二人の幸せそうな姿は、まるで他人のドラマのワンシーンのように無機質だった。
頭ではわかっていても、心が状況の理解を拒否していて、ラインの画面を開いた。フードコートの端っこの席でお好み焼きを目の前に、動画を彼に送りつけた。迷いは一瞬で動画に短いメッセージを添えた。事実確認は必要だもんね。
『この子はだぁれ? 浮気してたの?』
心臓が耳元で鳴っている。怒りよりも、この三年間を否定されたくないという気持ちが強かったと思う。五分後には、酷いメッセージが返って来た。
『何言ってんの?お前が遊びに決まってんじゃん。お前みたいな田舎の女と俺が釣り合うわけないし』
薄々そんな気はしてたけど、遊ばれてたかー。いつからだろう?あいつサイテーだな。「田舎の女」っていう文字が何より鋭く刺さった。「都会は怖い所」って言ってた幼馴染の声を思い出しながら詰め込むように目の前のお好み焼きを食べた。明日は美紀に会いに行こうかな。
結局、食料品の買い物のことなんてすっかり忘れて帰った私に、母さんの呆れた声が飛んできた。
「美咲! 卵は? 牛乳は? ……あんた、何その魂の抜けたような顔」
「忘れた」
母さんなりに心配をしてくれたのか、夕飯は豚玉お好み焼きを焼いてくれた。昼にフードコートで食べたお好み焼きは美味しく思えなかったけれど、母さんの特製お好み焼きは、ふわふわで、生地にも出汁が効いていて美味しかった。すごく満たされて、あんなチャラ男の事なんかどうでもいい気がしてきた。我ながら現金なものだと思う。
次の日幼馴染みの美紀が最近始めた雑貨屋さんに行った。【会津屋小間物店】なんて古風な名前のお店は、レトロな外観なのに、入ると厳つい神楽面が睨みを利かせていたり、繊細な簪が並んでいたり、豪奢な着物が吊るされている不思議空間だ。入口の正面にソファーとローテーブルがどっしり置いてあって、お客さんとのんびりお茶したりするらしい。
お店に行くと誰もお客さんはいなくて、暇そうにしてた美紀が嬉し気にレジカウンターの後ろの扉からお茶を入れて持ってきた。ねぇ、経営状態大丈夫?
どっしりとした白いソファーに美紀と並んで座るとお店全体が見渡せる。中央のテーブルに並んでいる商品、なんだか赤いアクセサリーが増えてない?
隣に座る美紀に浮気の証拠を突きつけた後の彼氏のラインの画面を開いてスマホを美紀に差し出した。受取った美紀が画面をスクロールした所で、店内が涼しくなった。冷房が効き始めたのかな?
「…………はぁっ?コイツ何様よ?……田舎の女? 遊びに決まってる? 釣り合わない?」
美紀の口から聞いたことのない低い地響きのような声が漏れた。肩を小刻みに震わせながらガタリと立ち上がった。小柄な美紀が怒ったってたいてい怖くも何ともないんだけれど、立ち上がった美紀を見上げるとすごく迫力を感じた。
「何様なのよ、その薄っぺらい男おぉぉぉ! 浜田を、島根を、何だと思ってんの! 美咲の三年間を何だと思ってんのよ! あー、ムカつく! 今すぐこの画面から手を突っ込んで、そいつの鼻の穴にこの神楽面突っ込んでやりたいわ!!」
空中で見えない敵を殴るようなジェスチャーを繰り返し烈火のごとく怒る美紀に、私はすっかり冷静になった。他人が怒っていると自分は冷静になれると言うのは本当なのだと、人生で始めて実感した瞬間だと思う。
「……美紀、私のために怒ってくれてありがとう。もういいよ、昨日お母さんのお好み焼き食べて、なんか満足しちゃったし」
「良くない! 私が良くないの! こんな奴があと半年もこの町に居ることが許せないわ!」
「美紀、そろそろ落ち着いて。私も二度としょうもない男に引っ掛からない様に気を付けるから、もうこんなことは起きないから怒りを治めて」
「私の知り合いに何回も似たような人を好きになって、何回も辛い思いしてるのがいるんだよね。タイプは変わらないって言うからさ、心配だよ」
美紀は鼻息荒くレジカウンターの奥へ向かうと、カウンター裏の収納扉を開けて、ゴソゴソと漁り、古びた桐箱を一つもってきた。
「……美咲、そいつに復讐したい?」
「えっ?復讐?私が何したってアイツには大したダメージにならない気がするよ」
「うちの店にさ、いくつか呪いの道具があるんだよね。ためしに使ってみない?」
持ってきた桐の箱からは、骨董品と呼ぶに相応しい土鈴が出てきた。丸っこいフォルムの土鈴を振ればコロコロと素朴な音が鳴った。呪いなんて言葉は全く連想できない。
「呪い?これが?可愛らしい土鈴じゃない。私には歴史資料に見えてるけど」
美紀は苦笑してカウンターの奥を見つめている。
「うーん。本当は私が使うつもりだったんだけど、要らなくなっちゃったんだよね」
美紀が使うつもりだったのは、きっと噂のイジメがあったからなんだろうけど。美紀がこっちに戻ってきてもうすぐ一年。この一年の間にイジメてた子への恨みも、アイドルへの未練も断ち切ったのか。だとしたらその断ち切った方法を教えて欲しい。
美紀が急に動きを止め、何もない空間に耳を澄ませるような仕草をした。
「……え? 結衣ちゃん? ……あ、アクアス?」
「美紀? 誰と話してるの?」
「あ、いや。……美咲! とりあえず今日は気分転換に行こう。アクアスで白イルカに癒されよ!」
さっきまでの烈火のような怒りはどこへやら、美紀は急にソワソワし始めた。
「今から? まだお茶飲んでるんだけど」
「いいから! 今すぐ行かないと、大事な『ご縁』を逃しちゃう気がするの!」
美紀のその言葉には、妙な説得力があった。まるで、誰か別の意志に突き動かされているような――。私はわけも分からず、強引に美紀の車の助手席へと押し込まれた。経営状態も心配だけど、この幼馴染の「勘」というか「突飛な行動」には、昔から逆らえないのだ。
美紀の運転で約三十分。その間美紀はどこか上の空で、さっきまで私より怒っていたのとは別人のようだった。駐車場入ってすぐの所に止めて、アクアスを目指して歩く。帰って行く親子連れとすれ違う度に、美紀は子供の顔を確認しているみたいだった。
いつの間に手配したのか、美紀が携帯の画面で電子チケットを提示してスルッと入館する。
うす暗くて少しヒンヤリと感じる館内入ってすぐは右側に水槽があった。足元に広がる水槽に縦縞の魚と横縞の魚が泳いでいる。私は上からのぞき込む様な見方になる。ボコッとしたコブが頭にある魚がスイスイと泳ぎ回ってる。美紀は魚よりも周りのお客さんを気にしている様に見える。
それから壁沿いに小さ目の水槽が連なって、柱のような水槽の中に沢山のイワシがいた。時間帯を選べばイワシトルネードってやつが見られるのかもしれない。その奥にはクラゲの水槽が有って、眺めていると気が抜けてきて、怒っていた事がますます馬鹿らしく思えてきた。
「美咲、見て、見て、おいしそう!」
美紀がやっと水槽に目を向けたと思ったら、その視線の先はカニだった。ズワイガニは確かに美味しいけれど、水族館でその発言はどうかと思う。美紀の言動にも毒気を抜かれていく。
神話の海と名付けられた大きな水槽には、エイやらサメやらの大型の魚が泳いでいる。ここのサメ達はのんびり屋なのか怠け者なのか、みんなして底でじっと過ごしている。
泳いでるエイに喜んでいるカップルを横目に見て、そう言えば三年付き合って一回も水族館デートなんてしたことなかったなと思い出した。
トンネル状になっている水槽を見上げながら通り抜けて、二階へと進む。二階に上がると明るくて開けた空間になっていた。賑やかな子供の声が響いていた。ふれあい体験のできる水槽らしい。
そこをスルーして、この水族館の目玉シロイルカの水槽に向かおうとしたら、美紀がふれあい水槽にスタスタと向かって行った。そして見知らぬ女の子の肩を叩いた。
「美紀ちゃん?!」
振り向いた女の子がすごく目を丸くしながらも嬉しそうに笑っていて、何となく美紀のファンだった子なんだろうなとは思った。その子の保護者も笑顔でペコペコお辞儀をしているし。
もしかして元々会う約束でも有ったのかと思ったけれど、あの驚き様は違う気もする。美紀が振り向いて手招きをするから寄っていくと、女の子は私を見てあからさまにガッカリという表情を浮かべた。
「結衣ちゃん、私の友達の美咲ちゃんだよ」
「美紀ちゃんのお友達って、あのお兄ちゃんじゃなかったの?」
「美紀に男友達なんていたの?あっ、さっき話してた、似たような女性に何回も失恋してる人?」
美紀が結衣ちゃんと呼んだ子が目を丸めた。それから美紀の右肩を凝視している。っていうかアイドルがファンに男友達の事を知られていて良いのだろうか?そこからは結衣ちゃんも一緒に回る事になった。
階段を昇って、小水槽のエリアへ進む。砂の中から顔を出すチンアナゴや、イソギンチャクの間に隠れるクマノミを見つけるたびに、結衣ちゃんは「わあぁっ!」と声を上げてはしゃいだ。すごく微笑ましくて癒される。
「結衣ちゃん、私の応援してくれてる時は入退院を繰り返していたんだ。こんなに元気にはしゃいでる姿が見れてうれしい」
美紀が隣で目を潤ませながら囁いた。グシグシと手の甲で目元をこすってまた結衣ちゃんの隣に並んだ。病気と戦っていた子が、今、私の故郷の水族館でこんなに笑っている。そう思うと、なんだか胸の奥が温かくなった。
アシカ・アザラシプールに置くと、タレ目のママさんゴマフアザラシが岩の上でゴロゴロしていた。子供たちは泳いだりしてるのに。
「ねぇ美咲ちゃん。あのアシカのげんきくん、美紀ちゃんに似てない?」
「えっ、私、アシカ似!?」
結衣ちゃんが指差したのは、器用に鼻先でボールを操るアシカだった。
「あはは! 確かに、一生懸命なところとか、ちょっと目がクリッとしてるところがそっくりかも!」
私が笑うと、美紀は「もう、二人して失礼なんだから!」と頬を膨らませた。でも、その表情はアイドル時代に作っていた笑顔よりも、ずっと柔らかくて素敵だった。
ペンギン館に入ると、結衣ちゃんが窓の外に広がる日本海を指差した。
「浜田って、本当にかっこいい街だよね。お魚も美味しいし、水族館は楽しいし、海はこんなに青いんだもん。私、大人になったらここに住みたい!」
その言葉に、私は不意を突かれた。郷土史を学んでいる私は、この街の「過去」ばかりを見ていた。でも、県外から来たこの小さな女の子は、今の、この街の「輝き」を全身で受け止めている。「田舎の女」と私を捨てたあの男の顔が、結衣ちゃんのキラキラした瞳に上書きされて、どんどん薄まっていく。
最後に辿り着いたのは、シロイルカのプールだった。青白い水の中を、白い巨体が優雅に舞っている。バブルリングが水中に描かれるたび、歓声が上がった。そこで、美紀がニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ねぇ結衣ちゃん。実はね、美咲ちゃん、昨日サイテーな男に振られたばっかりなんだよ」
「ちょっと、美紀! 何で子供にバラすのよ!」
「いいじゃん、厄払いだよ。ねぇ結衣ちゃん、こういう時はどうすればいいと思う?」
結衣ちゃんは、シロイルカから視線を外して、真剣な顔で私を見上げた。
「……美咲ちゃん。その男の人は、シロイルカの可愛さが分からないくらい、目が曇ってたんだよ。シロイルカが『次、もっといいことあるよ』って言ってるもん。だから、元気出して!」
子供に励まされる大学生。あまりにも情けなくて、でも、おかしくて。シロイルカが水槽越しに私を見て、プッ、と泡を吐いた。まるで「その通り!」と相槌を打ったみたいに。
帰りの車の中、私はスッキリした気分だったけれど、美紀はまだ怒りが継続してたらしい。国道九号線を西へ。フロントガラスの向こうには、日本海に溶け出そうとする真っ赤な夕焼けが広がっていた。
「ねぇ美咲、クソ男本当に呪ってやろう?」
「えっ?まだ言ってたの?シロイルカに癒され足りなかった?」
「シロイルカと結衣ちゃんには癒された。でも、それとこれとは別!あの土鈴におまけをつけてあげるから、四日後の朝またお店に来て」
夕日に照らされた美紀の瞳が、いたずらっぽく、それでいて少しだけ物騒に光った。私はその迫力に押され、ただ頷くしかなかった。
四日後お店に行くと夕日色の紐が土鈴の持ち手にくくられて可愛くなっていた。ふと店内に貼られている大きなポスターに目が向いた。店の雰囲気には似合わない、現代的なちょっと厳ついポスター。
「美紀、サッカーの応援なんかしてるの?」
「あれも地元の魅力の一つだよ。ちょうど、今日は試合なんだ。ほら、一緒に行こう!」
連れて行く気で今日を指定したと気付いた時には遅かった。私はそのまま美紀の軽自動車に押し込まれた。
試合会場に着くと美紀は、一際大きな声を出し汗だくになりながら太鼓を叩き続けている男性に「宣伝部長!」と呼びかけた。振り向いて手を挙げて答えてくれた笑顔がアクアスのオニカサゴに似ている気がする。可愛いとかカッコいいという言葉では括れないけれど、どこか愛嬌があって惹かれるものがあるし、見ているだけで不思議と安心する。
魂を込めて叩く太鼓のリズムと、必死に叫ぶ姿は。サッカーチームだけじゃなくて、この街を誇りに思っている様に見える。サッカーの事は良く分からないけれど、同じ町を愛する同士としては最高の仲間になれる気がする。
不意にバッグの中の土鈴が、カラコロと祝福するように鳴った気がしたとき、ゴールが決まった。




