幽霊兼八 Ⅰ
あれから何年が経ったのか、何人目の菊ちゃんの子孫なのかはもう分からない。いつからか俺は、生きている人の中に菊ちゃんの気配を見つけられる様になっていた。今目の前を通り過ぎようとしているこの子は、今までに会った菊ちゃんの子孫の中で一番魂が似ている。この子の気配を見つけた十二年前からずっと見守っていた。
「その坂を登ってはいけない」
聞こえるはずがないと思いながら声をかけたが、目の前の女性は振り向いた。俺を見てそれから辺りを見回した。丸顔でクリッとした目が印象的な可愛らしい女性。振り向いた瞬間の驚きから、周りを見て思案する表情まで実によく表情筋が動いていて、本当に菊ちゃんに似ている。
十二年間見守っていたから、今がどんな世の中で、この子がどんな子なのかもよく知っている。目を丸めてキョロキョロと辺りを見回す気弱な表情も可愛らしく見えるのは、アイドルという職業故だろうか。
彼女が動かす視線を追って辺りを見回しながら、俺も首を傾げた。ぼんやりと霧がかかった様なハッキリしない景色だが、雑木林に囲まれた土の坂道が前方に延びている。普通、彼女の置かれた状況で見る景色は、河とか花畑だろうに。
生と死の境界はひどく曖昧で、臨死体験をしている人物のイメージが、その場の景色を作っている。見守っていた間は気付かなかったが、この子はとても個性的な思考の持ち主なのかもしれない。
「あなたは、だれ?ここがどこだか教えてくれる?」
戸惑った様に眉を下げつつ微笑みかける彼女は、俺に状況説明を求めてきた。俺の方が聞きたい事はあるのだが……。俺はできる限り優しげな表情を意識しつつ、彼女と目を会わせた。
「君は望んでここに来たのだろう?普段は飲まない量の薬と酒を飲んで」
半年くらい前から表情が乏しくなっていた。食事の量が減って明らかに痩せてた。あんなに好きだった歌うことを避けるようになっていた。そんな様子をただ見るしかできず、ネガティブな行動を止めることもできなかった。こんなギリギリの瀬戸際でしか手を差し伸べられないこの身が情けない。
「確かにお酒と薬を一緒に飲んだけど、何ともなくて事務所に行った気がするんだけど……事務所を辞めるって話してて、あれ?それからの記憶がない。そっか薬が時差で効いたのか。じゃあ、ここはあの世ってこと?目の前のこの人は天使?和装の天使なんて……あっ、閻魔様の小間使い?」
求められた説明に対して明確な答えを返さずとも、状況を理解したらしい。臨死体験によって感情が抑制されているせいなのか、それとも現世で疲れきって感情を無くしていたせいなのか、取り乱す事はなかった。行動の切掛けになった悲しい出来事や辛い出来事を思い出す事もなく、ブツブツと俺が何者なのかの考察をしはじめた。
俺をじっと観察する様子は、落ち着いているというよりも随分と暢気な表情と言動に見える。あの世とこの世の境界に至るほど追い詰められて憔悴していたここ半年の彼女とは別人の様だ。ひとつため息をつけば、女性の呟きが止まって目があった。
「あの世ではなくて、あの世の手前だな。坂を昇ればきっとあの世のだろう。けれど、俺は引き返してほしいと思ってる。ちなみに俺は天使でも、閻魔の小間使いでもない。……君に憑いてた幽霊だ」
「憑いてた幽霊?特に肩が重いとかも無かったし、幽霊が憑いてると思ったことはないんだけど。うーん。良い幽霊さん?あっ、もしかして守護霊様ってこと?」
俺の返事を聞いた彼女は声が軽くなって、好奇心が強く見えてきた。幼い頃に兄君を困らせていた時と同じ表情になっている。それと共に周囲の景色がだんだんと薄れていく。あの世へ行きたいと望むより、現世への未練が彼女の心を占めれば、今ならまだ生者として現世に留まれるだろう。目の前に延びるあの世への坂道を閉ざすにはもう一息ってところか。
どんな言葉なら彼女の心を揺らして、現世への思いを大きくできるだろうか。もう一度アイドルとして頑張れとは言えない。新しい興味で現世への未練を作るべきだろう。今、興味が向いているのは俺に対してか?幽霊なんてこの世の者ではない存在で、現世への未練が作れるのかは分からないが、やってみるしかあるまい。
「守護霊という意識はなかったけれど、君を守りたいとは思っていたから、あながち間違いでもないかもな。さて、こっちに戻ってきて、俺に守護霊の役割を果たさせてくれるか?」
困った様に見える微笑みを作って手招きすれば、こっちへと歩み寄ってきた。よし、いい傾向だ。
だが、俺から五歩離れた所で立ち止まられてしまった。どうかしたのかと尋ねると、俺の足元を指差した。
「ねぇ、守護霊様が乗ってるそれって、ドラえもんのタイムマシーン?」
足がない人は怖いだろうと思って、畳に座っている様に見せていた筈なのに、何故タイムマシーンに見えてるのか?やはりこの子も人とは違う発想を持っている様だ。そういえばお菊ちゃんもずいぶん自由な考え方をする子だった。
だが、まぁ自殺するほど追い詰められたと言うことは、普通に見えるように回りに合わせて猫を被っていたのかもしれない。これからはそんな無理をしなくても良いと言ってあげれば、二度と自殺などせずに長生きしてくれるだろうか。
「残念ながらタイムマシーンではない。君がどこからやり直したいと思っているのかは知らないが、人は未来に進むものだ。現状を失敗したと思っているとしても、未来に進めばこれまでの経験は糧になり、その経験も悪くなかったと思えるかもしれないよ。これまでは周りに気を遣って、周りの意見に合わせていたけれど、案外君の独特の感性を生かした方が人を笑顔にできるかもしれない」
「ふーん、本当に見てたっぽいね。ここから戻ったら、守護霊様はまた私を守ってくれるの?」
「あぁ、これからも見守っているよ」
目の前の女性は、「そっか」と小さく呟いて笑うと、一気に坂を駆け降りて俺すら置き去りにしていった。何が彼女の心を揺らして現世に戻したのかは分からなかったが、あの笑顔なら大丈夫だろうと思えた。霧に包まれた坂道の向こうは静まり返っていた。
周囲は一気に真っ白な空間になり、そして無機質な薄暗い部屋に変わった。ピッピッという電子音と薄っらと漂う消毒薬の匂いは、彼女が運ばれた病院の病室だ。どうやら彼女の魂は、ちゃんと体に戻れたらしい。点滴が繋がれ、皺のないシーツに寝かされている姿を見下ろして、ホッと息を吐いた。
誰もいない病室の、ベッドの横にあるパイプ椅子に座って、しばらく彼女を眺めていると、瞼がピクピクと動き出し、ゆっくりと目が開いた。ぼんやりと焦点が定まらない瞳で、首を動かしモゾモゾと手を動かして、繋がれた点滴を見て、そして俺を見た。
ん?俺を見た?見える筈がないと思いつつ、笑顔を作って手を振ってみた。彼女はじっと俺を見てパチパチと瞬いた後、ふわりと口元を綻ばせて点滴の繋がっていない方の手を同じように振り返した。どうやら本当に見えているらしい。
消毒薬の匂いと電子音の中で、幽霊の俺が座っているという異様さ。けれど彼女は怯えるどころか、安心したように笑った。その笑顔に、かつて守れなかったお菊ちゃんの面影が重なる。この子の事は守らねば。
「見えているのか?今までは気付いてもなかったのに?」
「ええっと、守護霊様ですよね?」
どうやら、見えるだけじゃなくて話までできる様になったらしい。俺が見守ってきたあの子の子孫で話ができたのは、大地震の時に助けたヤヱちゃんと、軍人さんに恋してた和子ちゃん以来の三人目だ。共通点は……顔か。皆、あの子によく似た、丸顔で目が印象的な顔立ちだった。いや、臨死体験からの帰還が喋れる条件だろう。
ふと周りに気を向ければ、白いモヤと化した消えかけの幽霊がウロウロしている。この病院、大丈夫なのかと心配になるほどには。
「見えるのは俺だけか?」
「時代劇に出てきそうな和装の男性。夢の中で私を呼び止めた人が椅子に座ってる。幽霊って本当に足が透けるんだねぇ」
ベッドで寝たまま俺を観察して、随分と暢気なレポートを答えてくれた彼女に質問を重ねたが、どうやら、俺以外の幽霊達は見えていない様だ。
「体の調子はどうだ?どこが痛いとか、重いとかあるか?」
「あれだけ薬を飲んだ割には、頭もスッキリしてる」
既に他の幽霊にちょっかいをかけられていないかと思い尋ねたが、彼女は純粋な体調への質問だと思ったらしい。調子が良いと答える表情も穏やかで、今のところは変な霊の影響は受けていない様に見える。だが、油断はできない。回りを漂う他の幽霊から不安定な彼女の魂を守る為にも入院中は傍に居た方が良さそうだ。
「そうか。まぁ、もう少し休んでおけ。俺は君をあの世に行かせないためにここで見ている。俺みたいな霊が見てると怖くて寝れないかもしれんが、今は眠っておけ」
「守護霊様は怖くないよ。約束通り見守っててくれるんだね、ありがとう。おやすみ」
一晩眠れば見えなくなるだろうと思ったんだが、これは一体どういう状況だろう?朝日の差し込む白い部屋のなか、不満げにお粥を口に運ぶ女性から尋問を受けている。
「兼八さんて、何才なの?その姿は亡くなった時の姿?」
「自分では自分の姿が見えないんだ。俺は君にどんな風に見えてる?」
「髪は黒いから若く見える。ちょんまげがあるし、お侍さんだったのかな?それにしては服がボロボロな気もするんだよなぁ。顔立ちは大人だと思う。面長で、一文字眉が凛々しく見える。きっと生きてた頃はモテモテだったんだろうね?」
「髷を結ってるからって、お武家様じゃない。俺は商人だったさ。髪が黒いなら死んだ時より若い見た目になってそうだな。死んだのは五十過ぎてたんだがなぁ」
「へぇ、幽霊って死んだときより若い姿でなれるんだ。髷があるって事は兼八さんは江戸時代より昔の人なの?」
「あぁ、 生きていたのは、江戸に幕府が有った天保の頃だ。俺は君と同じ浜田の生まれで、阿呆なジジイと、お人好しな親父のお陰で家を追われた木っ端の商人だ」
「立派な商人の違いでしょ?木端の商人だったら、守護霊じゃなくて、怨霊になりそうじゃない?」
名前に始まり、俺の生い立ちなんかを一通り聞いた彼女は、やっと落ち着いた様子になった。朝食の食器を片付けて、それから床頭台に置いてあった手紙を読んで、寂しそうな表情をした。あの手紙は、昨日救急車を呼んだ人が置いていった物だ。恐らく彼女の進退に関わる事が書いてあったのだろう。
なんて声を掛けようか考えているとノックの音が響いて、看護師が血液検査の道具を持って病室に入ってきた。そうして申し訳なさそうな表情で退院のお願いを告げられた。血液検査の結果次第だが今日の午後にも退院して欲しいと。
俺も早く退院した方が良いと思う。この病院、幽霊が多すぎる。それに彼女は実家に帰ってゆっくり休むべきだと思うんだ。ついでに俺も久しぶりに故郷に帰りたい。
退院を了承して看護師が退室すると、彼女の携帯電話が鳴った。少し戸惑いがちに話している相手は誰だろう。
「うん、うん、分かってる。来週には帰るから……うん。うん。大丈夫だから。ちゃんと帰るから待ってて……」
どうやら俺が説得するまでもなく、故郷に帰るらしい。
「怒られちゃった。ネットニュースになってるんだって。私みたいなファンが居ない木っ端アイドルでも、グループの名前だけでニュースになるんだね」
電話の相手は彼女の母親だったらしい。彼女が突然にアイドルを辞めた事をネットニュースで見て心配したのだと教えてくれた。
「ところで君は、何故、あの世に行こうとしてたんだ?」
「えっ?兼八さん守護霊様でしょ?ずっと見てたんじゃないの?」
「守護霊じゃなくてただの幽霊だ。それに君が元気に楽しそうに暮らしてるうちはあんまり見てない。ずっと見られていたら気持ち悪いだろう?だけど君が、辛いとか苦しいとか悲しいとかそういう気持ちを持つ様になってからは、見ていた。半年くらいか。君が苦しんだ理由も何となく分かる。けれど、俺の推察が当たっているとは限らないだろう?例えば君が望むならば怨霊になって、君を追い詰めた人達にケガをさせたり気を狂わせるくらいはできたさ。けれど、それが俺の見当違いだったら悲惨じゃないか。君の望まない事はしたくなかったからね。君はあの子たちが怪我してグループを辞めて欲しかったのか?」
「そんな事は思わないよ。文句を言わせないようにダンスが上手くなりたかったし、嫌がらせをされないくらいに人気者にはなりたかったけどね」
「そうだろうな。だから何もせずに見守ってた。いや、なにもできずにだな。幽霊のできる事なんて高が知れてるからな。君が俺に気付かない限りは、こうして話を聞くこともできなかったし。だがこれからは、この世に引き留めた責任ってやつで、できるだけ君を手助けしたいとは思っている。こうして喋れる事だし、俺は幽霊だから秘密を漏らす相手もいないんだ、なんでも話してくれ」
「じゃぁ、名前で呼んで。君なんて他人行儀な呼び方じゃ相談なんてできないよ」
名前で呼ばれたいという願いを了承すると、先程の看護師が再びやってきて、血液検査に問題が無かったと告げた。この幽霊だらけの病院から早く退院できて何よりだ。
美味しくなく量も少ない昼食に満足できなかった美紀ちゃんは、退院手続きの待ち時間に、院内のコンビニへと向かった。 俺は幽霊になっても商人の癖が抜けず、並んだ品物をまじまじと眺めていた。品揃えをチェックしている間に美紀ちゃんは、どこでも売っているお菓子とペットボトルのお茶を買っていた。アイドルを辞めたのならダイエットの必要もないのだから、好きな甘い飲み物にすれば良いのに。
「美紀ちゃん!」
コンビニを出た所で後ろから大きな声で呼び掛けられた。声の大きさに驚いたのか、美紀ちゃんの方がビクッと大きく跳ねた。一瞬眉を寄せて困ったような顔をしたけれど、にっこりと笑って振り向いた美紀ちゃんは、呼びかけた女性の方へと歩み寄って行くと声を潜めて話しかけた。
「結衣ちゃんのおかあさん?どうしたんですか?」
「……結衣が入院しているの、この病院なんです」
「そうなんですね。結衣ちゃん元気になると良いですね」
「結衣に会っていってやってくれませんか?美紀ちゃんが引退したって聞いて、落ち込んでるんです」
「私、もうアイドルじゃないので。誰かを励ますとかできません。ごめんなさい」
勢いよく頭を下げた美紀ちゃんは、足早にその場から離れた。呼び止める声は聞こえていただろうに全く振り向かない美紀ちゃんを、女性が追いかけてくる事はなかった。




