プロローグ
祖父会津屋清助は帰還後浜田藩の取り調べを受けていた。外では狂人の振りをする話し振りだったが、取り調べの場では一転して理知的だった。行方不明の間に体験した異国での出来事を、淡々と、しかし筋道立てて語ったそうだ。
俺の前では熱に浮かされた様に異国の話をしていた祖父が、お役人さんの前で大人しいだなんて信じられない。異国には大層甘い木の実があったとか、紙の材料にしやすそうな繊維質な植物があったとか、そんな話をお役人にしてあっという間に打ち首になると思っていたのに。「浜田を愛している、偶然に得た異国の知見を浜田の為に使ってほしい」なんて言って帰って来た。
だいたい、じいちゃんが呑気に異国を回っていたお陰で、家をなくしこんな暮らしになったんだろう。浜田の前に家族を愛してくれよ。
祖父清助の帰還から五年余り。異国の話も人々の記憶から薄れ始めた頃、父八右衛門が藩の勘定方を訪ねた。祖父に似た面立ちに、陽に焼けた褐色の肌。船乗りらしいその姿は、ただならぬ野心を漂わせていた。じいちゃんが船で失敗したのに、船乗りとして何かを成そうなどと考えてる親父も俺には信じられない。
この前返って来た時に騒いでいた未開の島の話をお役人さんにしに行ったらしい。俺には分からないが、浜田藩は今とっても貧乏で、その未開の島は一攫千金も夢じゃない地だと親父は言った。お役人様は夢見がちな親父の話を一蹴してくれると思っていたのに、一緒に馬鹿げた計画を動かしだした。
密貿易計画の初めは拠点や船の整備からであった。藩の指導の下に風読みを正確に行う為の方角石を日和山に設置し、金刀比羅神社の建て替えを行った。勿論財政難の藩から資金が出る訳もなく、八右衛門が寄港する先々の商人に儲け話の投資だと言って金を募った。勿論それは嘘偽りなく儲け話の投資であり、ここで投資した商人に竹島から持って来る物を売るのである。金刀比羅神社の建て替えにおいては二軒の宮大工に依頼をしている様に見せかけて、竹島へと向かう船を隠して作っていた。
未開の島は異国ではないなんて言ってるけど、日本の領地として治める役人さんが居ないのならそれは異国じゃないか。こそこそと計画をしている時点で密貿易だ。密貿易なんて成功するわけがない。持ち出す品も、持ち帰る品も、不自然な流通にしかならない。明るみに出れば、自分も連座に巻き込まれるだろう──そう思うと、胸の奥に冷たい恐怖が広がった。何とかして家の商売から離れたい。
建て替え中の金刀比羅神社を横目に、俺は寺子屋へ向かった。隣に座る幼馴染のお菊ちゃんがチラチラと俺の様子を伺っている。お菊ちゃんは聡いから、俺が手習いに集中していない事に気付いて心配してくれているのだろう。
ここにいる誰もが親の跡を継ぐことに疑問を持っていないようで、俺の悩みは誰にも言えそうにない。元々汚い字が一層ひどい事になっている手習いを終えて帰ろうとしたら先生に呼び止められた。先生と一緒にお菊ちゃんもいる。
「兼八君、これは読んだことあったかな?」
先生が一冊の書を差し出した。茶色い紙の表紙に並んだ文字は先生の手跡だ。この村の先生は女性で女性らしい優しさと、教育者らしい几帳面な人柄が手跡によく表れている。
「『うひやまぶみ』?」
表紙の文字を読み上げたら、先生は書物を開いて見せてくれる。お菊ちゃんと一緒にのぞき込むと文字が一杯並んだ難しそうな書物だ。俺達にはまだ早い書物だと思う。
「これはこの寺子屋を造った大先生が一番大切にしている書物だよ。大先生のさらに先生が書かれた書物でね、学問とは何かどう学ぶかが書かれているよ」
大先生は先生の叔母さんで伊勢の偉い学者さんの所に藩の推薦でお勉強に行って、この寺子屋を始めた先生だと聞いた。大先生の先生が書かれたって事はその伊勢の偉い学者さんの書物って事だ。やっぱり俺にそんな難しすぎる書物だ。
「この本には学問はとにかく継続する事が大事だと書かれているのだよ。興味のない事を無理に学んでも継続できないから中途半端になるだろうと。兼八君は学ぶことに迷っている様に見えたけど、何か悩みでもあるのかな?」
「兼八君、船に乗るの嫌なんでしょ?」
先生の質問になぜかお菊ちゃんが答えた。先生にじっと見つめられた俺は頷いた。
「俺は船乗りに向いてないと思うんです。親父の跡を継ぎたいとも思わないし」
俺の答えにお菊ちゃんは頷いて、先生は視線を左右に動かして何かを考える様に沈黙した。それから俺の目を見て一つ頷いた。
「向いてないというより、別の興味があるんじゃないかな。港をよく見てごらん。船に乗らなくても、この土地でできる働き方はあるでしょう」
お菊ちゃんは先生の言葉に嬉しそうに笑った。それから俺の手を取ってまたニッコリと笑った。
「だったらずっと浜田にいてよ。私、兼八君が遠くに行っちゃうの嫌だもん」
お菊ちゃんの言葉は、俺の胸に深く刺さった。優しくて察しが良くて行ってほしい事を言ってくれるお菊ちゃんの本心の様に聞こえたんだ。お菊ちゃんの為にも船乗りでない仕事に就ける様に考えないと。
そんな事を考えても何も良い案は浮かばず、俺は家業の訓練として北巡行の船に乗せられた。
訪れた加賀の港は朝から喧噪に包まれていた。潮の匂いに混じって魚の生臭さが漂い、荷揚げ場では銀色の鱗を光らせた魚が並んでいる。商人たちが声を張り上げ、陶器や紙を抱えた荷車が行き交う。浜田では見たことのない焼き物の青磁や、白く滑らかな紙が目を引いた。
「兼八は港を歩き回って、何をしていたんだ?」
「珍しい物があるなぁと思ってね。うちが田舎だから珍しいのか、そうじゃないのか考えていたんだ」
「ほう?」
船の舷側から見下ろす加賀の港は、朝の光にきらめいていた。 荷揚げ場には銀色の鱗を光らせた鯖や鰯が山のように積まれ、赤みがかった鯛が桶に並べられている。浜田では見慣れない細長い魚や、干物にされた小魚の束も売られていて、潮の匂いと人々の声が混じり合っていた。
「魚の種類一つにしても港によっては全然違うんだ」
「あぁ、そうだな。魚も作物も土地によって違うものが取れる。遠くのものを求める人がいるから俺らの商売が成り立つんだ」
「食べ物だけじゃないよね?」
親父と問答をしながら俺の視線は船に積み込まれていく荷へと移った。縄で縛られた紙の束、藁に包まれた陶器の壺、木箱に詰められた織物。荷車から次々と運び込まれるそれらを見て、浜田で見慣れた品との違いを思う。
「紙とか焼き物とかの質はうちの方が相当良い気がしたんだ」
「お前、そんな物の目利きができるのか?」
「目利きって言うのかな?見慣れた物が使いやすいか、丈夫かどうかはわかるもんだろう?」
親父は目を丸くしながら俺を連れて出航までの一刻の間、港を歩き回って、追加の仕入れをした。この後は浜田へ帰るだけだ。浜田で売れそうな物を言えと言われて普段見かけない物をひたすら親父に教えた。
加賀の港を出航してからの俺は苦行の日々だった。行きはあちこちに寄港したが、戻りは加賀から浜田に一直線に船を進めたせいだ。陸に足を着きたい。
「帰って来たなぁ」
親父は畳ケ浦の岩礁を眺めながら呟いた。白波が岩に砕け、潮風が顔に吹きつける。船体は軋み、帆がはためく音が耳に響く。俺は帰って来た安堵と、次の出航は例の密貿易になるだろうという不安の板挟みで緊張していた。
「お前、そろそろ慣れたか?」
「ちょっと、せかっく忘れてたのに!言われたら気持ち悪くなってきた」
親父の言葉に吐き気が戻る。船の縁にもたれ掛かると、番頭が笑いながらやってきた。
「初めての航海なんてそんなもんでしょうよ。まぁ張り切って注文した船を急かす理由がなくなったと思えば良いんじゃないですか?」
「いや、あの船は予定通りで変わらねぇ。来年には仕上げて貰わなきゃいかん」
「新しい船?この船だって去年造ったばっかりなのに?」
「まったく、坊っちゃんからも言ってください。二代続けて『阿呆丸』の船主になんかなるなって」
俺は知らない振りで親父の顔を見上げる。ここで止めようとしている番頭はどっちなんだ。知っているはずだろうし、今止めるくらいなら、計画しだした時に止めて欲しかった。親父は何を考えているのか分からない無表情で海を睨んでいる。
「親父、そんなにでかい船を注文したのか?やっと爺ちゃんの一件での借財を返したのに、また借財を重ねるのか?」
「男なら、海に夢を見るもんだろう?大きい船ならそれだけ稼げるってもんだ。俺だってもっと大きく商売して、大金持ちになりてぇんだ。藩主様だって金策に頭を悩ませてるんだ。より稼げる方法で商売して上納金を納めりゃ喜ばれる」
笑顔を作るように口の端を挙げた親父の返事を聞いた瞬間、俺の胸にお菊ちゃんの顔が浮かんだ。「ずっと浜田にいてよ」と笑ったあの時の声が潮風に混じって蘇る。
「爺ちゃんの夢に振り回されてるのに、よくそんな事が言えるよ」
俺は船乗りにはならない。お菊ちゃんとの約束を守るためにも、陸で生きる道を探さなければならない。そんな決意を込めた返事に親父は目を伏せた。
「お前に継がせるのは無茶かもしれねぇな。さぁ、もう一息だ。吐くんじゃねぇぞ」
浜田に戻って一息ついたころ、俺は夕食の席で改めて親父と向かい合った。
「俺やっぱり船乗りは無理な気がするんだ」
「なんだ?番頭のやつも言ってたが、初めての航海なんて吐かずに乗ってるだけで立派なもんだぞ。そのうち慣れるだろう?」
「言い方が悪かった。無理なんじゃなくて、俺は船乗りじゃない廻船問屋としてやっていきたい。船宿とか、荷揚げ屋みたいな」
「お前の目利きがあれば、船に乗ってくれるだけでも大儲けできそうなんだがなぁ」
「俺は、爺さんや父さんみたいに海に夢を見られない。遭難して命が助かっても財産をなくす、危ない目に遭って財産を得ても藩への上納金で残るのはほんのちょっとだ。だったら俺は危険の少ない陸で商売をしたいと思う」
「兼八の言いたい事は分かった。まぁちょうど、陸で商売する人に伝ができたんだ。お前の修行させてもらえないか頼んでみよう」
三日としないうちに俺は大阪商人に紹介された。この商人さんが大阪へ帰る船に俺も一緒に乗っていく。親父が竹島へ出航するよりも先に浜田を離れる事になったのだ。だが、きっとこの大阪商人も密貿易の協力者だろう。油断はできない。
「君が、あれらの商品を選んだんだって?うちは広く色々な物を扱っているんだ。その目利きを生かしてくれよ。出航は五日後だ。それまでに親しい者との別れを済ませておくといい」
大阪行きの前日、寺子屋の帰りにお菊ちゃんを寄り道に誘った。完成に近づいた金刀比羅神社の横を歩きながらこの二か月の航海の事を話したら菊ちゃんは盛大に笑った。
「なに、その情けない話は?それじゃぁ、八助さんはわざわざ加賀まで行って一体何をしてたの?」
「なにって、訓練だよ」
「船に乗ってるだけが訓練なの?」
「まぁ、俺も情けないとは思うんだけどな。お菊ちゃんは、家を継ぐの?」
「うん、そのつもり。兼八さんはどうするの?浜田にずっと居られる方法は見つかった?」
「いや、それが……大阪に行くことになった。たぶん二度と浜田には帰って来れない」
「どうして?」
菊ちゃんは目を丸くして立ち止まった。俺は菊ちゃんの手を引いて日和山に向かって歩く。日が傾きだして海の色が橙に染まりだしている。風は冷たくないけれど、お菊ちゃんの手が冷たくなっていく。何を話せばいいのか分からない。
「お菊ちゃんは、うちの爺さんの事は知ってる?」
「えぇっと、その、あれよね、遠く異国に行ったっていう」
「うん。だれも爺さんの異国の話なんて信じちゃいない。だけど、どうも父さんは信じてるっぽいんだ。船主になってすぐにわざわざ大きな船を作り直して、俺を大阪に見習い奉公に出すなんて何か拙い事を企んでいるんだと思う」
ズザッズザッと硬い草履で土を踏む音が聞こえて近くにお役人さんの気配を感じるから、俺は分かりにくい言い方しかできなかった。万が一にも菊ちゃんの一族が親父の企みに巻き込まれることなどないように伝えたいのに。
菊ちゃんは聡い。俺の少ない言葉でもきっとわかってくれる。潮風に吹かれながら二人で歩く道は、見知ったはずなのにどこか不気味に思える。
どうにか日和山の頂上まで来て、やっと息をついた。この時間になれば風見の人もいない。少しは内緒話もできるだろう。日和山の頂上から眺める今日の港は穏やかで、けれどこんな日の傾いた時間に動く船はない。係留された船がゆらゆらと揺れるばかりだ。
「本当はもっと違う言葉で渡したかったんだけど、これ。」
懐から取り出して、お菊ちゃんの目の前で布を広げた。俺が山の樫の木の枝を削って作ったばち簪を、お菊ちゃんはマジマジと眺めている。本当はもっと綺麗なやつを渡したかった。結婚しようって言いたかた。一生俺が守ってあげたかったけれど、守るためには離れなきゃいけなくなった。
まじないの様な物だ。もしかしたら悪人の一人くらいからならば、目を突いて逃げれば、守りに役立つかもしれない。そんなことに巻き込まれずに穏やかに暮らして欲しいけど。
「一応、神社でお祈りしながら、作ったんだ。お守りとして受け取って」
はっとしたように、俺の顔を見たお菊ちゃんが、にっこり笑う。布の上の簪を持ち上げて、目の前に持ってまた繁々と眺める。ばちの部分は拙いながらも透かし彫りを入れたからその模様を見ているのだろう。と思ったら、パキリという音が響いて、一本足の不格好な簪を渡された。
「私は帰ってきてくれるのを待ってるから。帰ってくる時にはそれを持ってきて。それからね、私からはこれ。船の上で着て。おばあちゃんに教わって、私が作ったの」
見事にパッキリと割れた簪に唖然としているうちに、お菊ちゃんは袂から包みを出して目の前で開いた。 差し出されたのは、ずっしりと重みのある紙の襦袢だった。開いてみると、そこにはお菊ちゃんが毎日寺子屋で書いていた、あの優しくて几帳面な仮名文字が、隙間もないほどに並んでいる。
「墨がね、風を通さないんだって。私の下手な字も、こうして重ねれば兼八さんを守る盾くらいにはなるでしょ?」
彼女は照れくさそうに笑ったけれど、その指先は少し震えていた。「ずっと浜田にいてほしい」って言ってくれたのに裏切るように出ていくことになった自分に、こんな立派な「防具」を用意してくれたのか。
「兼八さんが航海に出てる間に用意したの。船の上でも寂しくない様にって。遠くに行っても忘れないでね」
「うん。ありがとう」
紙襦袢を広げて撫でれば、お菊ちゃんの想いが痛いほど伝わってきた。包んでいた風呂敷ごと受け取って、たわいもない話をしながら、海を眺めた。夕日に赤く染まった海には動いている船はない。皆港に入っている。方角石の北側に立って空と風を読む。穏やかな風で草木も穂先が揺れるだけ、見渡す限りの空に雲もないし、空気の湿り気も、鳥の飛び方も、明日が晴れだと言っている。俺は間違いなく明日ここを出ていくのだ。
翌朝、高田屋さんの船に乗って外ノ浦港から出港した。出航して一刻ほど経った頃、陸がぼんやりとしか見えない海の真ん中で、俺は奉公先の高田屋のご主人と向かい合って、親父の計画と高田屋さんの考えを聞いた。そして俺は大阪で振り売りをすることになった。
大阪へ渡って一年半ほどすると、不審な品物を見かけるようになった。やはり俺の一族は阿呆丸の一族だったのだと思った。港で取引される薬草なんかを見ながら、ふとお菊ちゃんの事が気になった。
近所ってだけで巻き込まれる様な事になっていないだろうか。例えば密貿易で得たものをお土産として貰っていたら、その物証で密貿易に関わるものとみなされないだろうか。
俺は菊ちゃんを助けたい一心で隠密奉行と取引をして、浜田へと向かった。振売りとして街道を、播磨から備前、備中、安芸、と辿り山を越えて石見、浜田へと入った。道中では異国の物に遭遇する事はなかった。どうやら、販路は船便の大阪だけらしい。
浜田に入り菊ちゃんに会うと、不安げに異国の木の実を差し出し、俺の身を案じてくれた。俺は菊ちゃんにお守りを渡した。あの時菊ちゃんが割ったバチ簪の半欠けだ。
「また帰ってくる。必ず会いに来る」
「待ってる」
俺と菊ちゃんが交わした言葉はそれが最後だった。俺が次に浜田を訪れた時には菊ちゃんは居なかった。
お菊ちゃんが浜田に居なかったあの日から、俺は飛脚になった。菊ちゃんを探して日本中を走り回ったんだ。けれどお菊ちゃんには会えないまま、俺は老いて朽ちた。朽ちたはずの俺だが、なぜかあの世へ行くことができず、ずっとあの世とこの世の狭間で立ち止まっている。
江戸時代の竹島事件をモチーフにしていますが、史実と異なる架空の成分を多分に含んでおります。




