第3話 これってすれ違いかも!
八月の終わり。
夏の熱気がまだ校舎に残る中、蝉の声だけが鳴り響いていた。
荒谷呉人は、静かな道場で一人、拳を握っていた。
「はっ、せいっ……!」
打ち込むたびに、汗が飛ぶ。
県大会で優勝してから、あっという間に一か月。
しかしその栄光の余韻は、もう消えていた。
「……なんか、違うな」
突きも蹴りも、いつもより重い。
肩の力が抜けない。
“勝ったのに、満たされない”――その違和感が、呉人をずっと悩ませていた。
そして、ここ最近、もうひとつの原因があった。
――姫野沙耶。
演劇部の公演を控え、毎日遅くまで練習しているらしい。
顔を合わせることが、ほとんどなくなっていた。
翌朝のHR。
隣の席が空いている。
姫野は今日も、朝練で早く登校したらしい。
机の上に、一枚の付箋が置いてあった。
ピンク色のメモ。可愛らしい丸文字。
> 「練習忙しくて、しばらく一緒に帰れないかも!
> でもちゃんと頑張ってるから、心配しないで!
> くれひとくんもファイト♡」
呉人はその文字を見つめ、少し笑った。
「……ファイト、ね」
口では笑ったが、胸の奥はざらついていた。
自分だけ置いていかれるような、そんな気がした。
放課後。
道場の扉を開けると、一人の女子生徒が立っていた。
「失礼します! 今日から入部希望の、一ノ瀬涼です!」
黒髪のポニーテールに、まっすぐな目。
呉人より少し背が低く、声に張りがある。
「お、おう。よろしくな」
「はい! 荒谷先輩の試合、動画で見ました! めっちゃかっこよかったです!」
真っ直ぐな称賛に、呉人は照れくさそうに頬をかいた。
「ありがとな。でも、まだまだだよ」
「そんなことないです! 私、先輩みたいに強くなりたいです!」
その言葉に、少し胸が温かくなる。
最近感じていた空虚さが、少しだけ埋まった気がした。
その日から、一ノ瀬は毎日練習に現れた。
彼女の努力は真面目で、技の吸収も早い。
気づけば呉人は、自然と指導に熱を入れていた。
数日後の夕方。
道場の窓から見える夕焼けが、オレンジ色に滲む。
一ノ瀬が息を切らしながら言う。
「荒谷先輩、あの……突きのフォーム、見てもらっていいですか?」
「いいぞ。腰を落として――そう、もっと重心を下げて」
「こう、ですか?」
彼女の腕を軽く直してやると、
一ノ瀬は少し頬を赤くして笑った。
「ありがとうございます。……先輩、優しいですね」
「い、いや、普通だろ」
「そうですか? でも、優しい人って好きです」
呉人は思わず、言葉を詰まらせた。
“好き”という単語に反応してしまう。
けれど、それは違う意味だとわかっている。
だから笑って受け流した。
――そのやりとりを、偶然、廊下から見ていた人がいた。
演劇部の衣装のまま立ち尽くす、姫野沙耶。
目の前の光景を見つめながら、
小さく呟いた。
「……これって、運命じゃないのかな」
数日後。文化祭。
体育館のステージでは、演劇部の舞台『星の約束』が始まった。
姫野は主役。
星に願いをかける少女の役。
呉人は部活の手伝いを抜け出し、客席の後ろからその姿を見つめていた。
ライトに照らされる姫野は、いつもより大人びて見えた。
その声、その表情――
どれも真剣で、誰かに恋をしているように見えた。
(……すげぇな)
呉人は思わず見とれた。
けれど、姫野の視線が一瞬だけ客席の自分に向いた時、
その瞳が少し寂しげに揺れたのを見逃さなかった。
カーテンコール。
観客が拍手を送る中、姫野は笑顔で頭を下げた。
だが、その笑顔の裏に隠されたものが何なのか、
呉人は気づけなかった。
舞台が終わった夜。
学校の裏庭で、二人は偶然出くわした。
「……見てたんだな」
姫野が先に口を開く。
「うん。すごかったよ。ちゃんと主役だった」
「ありがとう」
「……なんか、元気なさそうだな」
「くれひとくんこそ」
風が吹く。蝉の声ももう聞こえない。
「最近、道場に行ってもいないから」
「忙しかったんだろ? 演劇の練習」
「……でも、見たよ。あの子。新しい子」
呉人は少し驚く。
「一ノ瀬のことか?」
「そう。すごく仲良さそうだった」
「仲良いっていうか、後輩の指導だよ」
「……そうなんだ」
短い沈黙。
姫野は視線を落とし、小さく呟いた。
「……なんかね、最近、私たちすれ違ってる気がする」
「そんなこと――」
「あるよ。私ばっかり“運命”って言ってたのかも」
その言葉に、呉人は胸を刺されたような気がした。
何かを言おうとしたが、うまく言葉にならない。
「……ごめん」
そう言ったのは、呉人のほうだった。
「俺、空手のことばっかで、お前のこと……ちゃんと見てなかったかもしれない」
「……ううん。私も、自分のことでいっぱいいっぱいだった」
沈黙の中、姫野が少し笑った。
「でもさ、こうやってまた話せたから、これも運命かも」
「……お前はほんと、ポジティブだな」
「でしょ?」
二人は、少しだけ笑い合った。
翌日。
空手部の練習が終わった後、呉人は道場の中央に立っていた。
「せいっ! はっ!」
拳が空を切る音が響く。
その姿を、入り口から見つめる人影があった。
姫野沙耶。
「……やっぱ、くれひとくんの空手、好きだな」
呟く声に気づいて、呉人が振り返る。
「姫野……」
「ちょっと、見に来た。久しぶりに」
「勝手に応援しにくるやつが言うなよ」
「ふふっ。だって、また見たくなったんだもん」
呉人は照れながらも、構えを取った。
「じゃあ……見てろよ」
「うん。ちゃんと見る」
突きが走る。蹴りが風を裂く。
そのすべての動きが、以前よりも迷いがなかった。
姫野はその姿に目を奪われる。
「……やっぱり、これって――」
「運命、かもな」
呉人の言葉に、姫野はぱっと笑った。
「今度は私が言う前に言った!」
「たまには先に言わせろよ」
「ずるい~!」
二人の笑い声が、夕方の道場に響いた。
帰り道。
夕暮れの空が茜色に染まっている。
二人の影が並んで長く伸びていた。
「なぁ、姫野」
「なに?」
「俺、今度の全国大会、行くことになった」
「えっ、本当!?」
「うん。推薦枠で出られるんだ」
「すごいじゃん! おめでとう!」
「……だから、今度はちゃんと見ててくれ」
「もちろん! 何があっても応援行く!」
呉人は少し笑い、拳を握った。
「……よし、じゃあ次の勝負だ」
「勝負?」
「全国で勝ったら――ちゃんと伝える」
「なにを?」
「そのとき教える」
姫野は頬を赤くしながら、
「ずるい。そういうの反則だよ」
と言って笑った。
呉人も、静かに笑い返した。
その夜、姫野はスマホのメッセージを打った。
> 「全国でも絶対勝ってね。
> 私もまた、舞台で主役取るから。
> 二人でまた、勝とう。
> これって――やっぱり運命だね!」
送信ボタンを押した瞬間、
呉人の返信が届いた。
> 「ああ。運命は、自分で掴むものだな」
窓の外では、秋の風が静かに吹いていた。
そして二人の物語は、まだ続いていく――。




