第2話 これって勝負かも!
五月の風が、新緑の校庭を駆け抜けていく。
荒谷呉人は、空手部の道場で一人、黙々とミットを打ち込んでいた。
「せいっ! せいっ! ……はぁっ!」
その拳には焦りが滲んでいた。
県大会は一週間後。去年はベスト8。だが、今年は――「優勝」が目標だ。
空手を始めて十年、父親の期待、部長としての責任、全部が背中に乗っている。
けれど、最近、集中できない。
理由はひとつ。
道場の外で、ガラス窓に張り付くように笑っている少女――姫野沙耶。
「くれひとくーん! 今日もかっこいいー!!」
……あの声で、気合が全部持っていかれる。
放課後の道場はいつも静かだった。
けれど今では、姫野の声がBGMみたいに響く。
呉人が突きを放てば「すごーい!」。蹴りを決めれば「惚れ直した!」。
最後の礼をすれば、「今日も運命感じた!」。
部員たちの視線が痛い。
「荒谷先輩、モテ期ですね……」
「いや、あれはモテ期っていうか……侵略だな」
「くっそ羨ましい侵略だな……」
呉人は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ちょっと静かにしてくれ! 集中できない!」
「えー、私、応援してるだけだよ?」
「応援のボリュームがすでに練習妨害なんだ!」
それでも姫野はお構いなし。
稽古が終わればすぐ駆け寄り、タオルとスポーツドリンクを差し出す。
「おつかれ、くれひとくん! 今日も世界で一番かっこよかったよ!」
「そ、そんな大げさな……」
「だってほんとだもん! これって――」
「運命、だろ」
「そう! もう言ってくれるようになったんだね!」
笑顔がまぶしくて、呉人は思わず目を逸らした。
帰り道。夕焼けに照らされる河川敷。
二人で並んで歩くのが、最近の恒例だった。
川面がキラキラと光り、風が頬をなでる。
「ねぇ、くれひとくん。県大会って、そんなに大事なの?」
「当たり前だろ。これに勝てば、全国に行けるんだ。俺の夢の一歩なんだ」
「そっか……。じゃあ、応援もっとがんばらなきゃ!」
「……応援は、ほどほどでいい」
「えー? 私、全力じゃなきゃ嫌だよ」
呉人は苦笑した。
「全力って、恋愛だけじゃなくて応援もか」
「恋も勝負も、どっちも本気! 私の辞書に“手加減”はないの!」
「……そりゃ強いな」
「でしょ? だからね、私も頑張る」
姫野は小さく拳を握る。
「実は、文化祭でやる“演劇オーディション”があるの。主役を狙ってるんだ」
「へぇ、すごいじゃないか」
「だからね、くれひとくんが大会で優勝したら、私も主役取る!」
「……何その勝負」
「運命の勝負!」
二人の笑い声が風に乗って流れた。
大会前日。
呉人は道場にこもり、最後の稽古をしていた。
「せいっ、はっ……!」
技のキレは悪くない。けれど、心の中には小さな違和感。
「……何か、足りない」
いつもより静かだ。
外を見ても、姫野の姿がない。
その事実に気づいた瞬間、胸がざわついた。
「まさか、体調でも――」
だが、すぐに頭を振る。
「何を考えてる。集中しろ」
拳を握る。
けれど、その夜も彼女からのメッセージは来なかった。
県大会当日。
体育館には選手たちの気合が満ちていた。
観客席を見渡すが、姫野の姿はない。
「……来ない、のか」
胸にわずかな寂しさを抱えたまま、試合開始の合図が鳴る。
初戦、二回戦、準決勝――。
呉人は次々と相手を倒していった。
父親も顧問も誇らしげに頷く。
だが、勝つたびに心のどこかが空っぽになっていく。
決勝戦の直前、ふと背後から声がした。
「くれひとくんっ!!」
振り返ると、汗だくで駆け込んできた姫野がいた。
「遅れてごめん! 電車、止まっちゃって!」
呉人の胸に、張り詰めた何かが一気に溶けていく。
「……来たのか」
「当然! これって運命でしょ!」
呉人は笑って頷いた。
「見てろよ。今日の俺は、運命に勝つ。」
決勝の相手は、因縁のライバル・成瀬。
去年の大会で敗れた相手だ。
静まり返る会場。審判の「はじめ!」の声。
鋭い突き。激しい蹴り。
成瀬の攻撃は重く、速い。
だが呉人は一歩も退かない。
――守るための拳じゃない。
――今は、見ていてほしい。
姫野の声が、遠くで響いた気がした。
「がんばれ、くれひとくんっ!!」
心が熱くなった。
呉人は踏み込み、回し蹴りを繰り出す。
空気が裂ける音。相手の防御を破る一撃。
「ポイント、荒谷!」
歓声が爆発した。
その瞬間、すべての緊張が弾け、呉人は初めての優勝をつかんだ。
大会後の夕暮れ。
二人は会場近くの公園で並んで座っていた。
姫野は、タオルで呉人の汗を拭きながら笑う。
「すっごくかっこよかった! まじで感動した!」
「ありがとう。途中でお前の声が聞こえて、びっくりしたよ」
「えへへ、応援届いてたんだ」
「ああ。ちゃんと届いてた」
沈黙。
風の音と、木々のざわめきだけが聞こえる。
呉人は迷った。
何かを言わなければならない気がした。
「……なぁ、姫野」
「ん?」
「その……お前といると、試合より緊張する」
「え?」
「つまり……なんていうか、その、これって……」
「運命かも?」
「……先に言うなよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
呉人の頬は真っ赤だったが、もう目を逸らさなかった。
次の日。
呉人が学校に行くと、掲示板に演劇部のキャスト結果が貼られていた。
「主役、姫野沙耶」
思わず微笑む。
だが、姫野の姿は見当たらなかった。
後ろから友人が言う。
「姫野さん、今日から放課後ずっと練習らしいよ。結構ハードみたい」
――すれ違う予感が、胸の奥に小さく刺さる。
けれど呉人は、そっと拳を握った。
「……いいじゃないか。あいつも“勝負”の真っ最中だ」
空を見上げる。
青空の向こうに、また会える日を思い描く。
放課後、校門を出たところで、息を切らせた姫野が駆けてきた。
「くれひとくんっ!」
「どうした、稽古?」
「練習の合間! どうしても言いたくて!」
彼女は笑って、両手を広げた。
「くれひとくんが優勝して、私も主役になった! 二人とも勝ったんだよ!」
「そうだな」
「ねぇ、これって――」
「運命、だな」
「うんっ!」
二人は笑い合う。
それはまだ恋人にはなりきれない、けれど確かに特別な笑顔だった。
風が吹き、姫野の髪が揺れる。
その瞬間、呉人の心に新しい決意が灯る。
――次は、言葉にしよう。
――この“運命”を、自分の意志で。




