第1話 これって運命かも!
夕焼けの校舎が朱に染まっていた。
荒谷呉人は、静まり返った武道場の真ん中で一人、黙々と突きを繰り返していた。
「せいっ、せいっ、せいっ!」
汗が床に落ちる。木の床に反響する自分の気合だけが、世界の音みたいに響いていた。
呉人は空手一筋の高校二年生。
幼いころから父親に仕込まれ、県大会でも名の知れた選手だ。
けれど、恋愛にはまるで免疫がない。
部員たちが放課後に誰とデートだの、告白されたのと騒ぐ中、呉人はずっと型の練習ばかり。
女子とまともに話したことも、ほとんどなかった。
「……恋愛って、どうやって始まるんだろうな」
呟いた自分の声に、少しだけ照れくさくなって笑った。
そんな時、道場の窓の外で、ざわめきが聞こえた。
校門の前。すでに日は落ち、街灯がぽつぽつ灯り始めていた。
コンビニ帰りの呉人は、紙袋を片手に歩いていた。
冷たい夜風にシャツがはためく。
その時、路地の奥から怒鳴り声が聞こえた。
「ちょっと、やめてよ! しつこい!」
女の子の声だった。
呉人は、反射的に足を止めた。
声のする方を見ると、三人の男たちに囲まれた女子生徒の姿があった。
短めのスカートに、少し派手な髪色。
けれど、その瞳は強く、真っ直ぐだった。
不良たちはニヤつきながら、彼女の肩を掴もうとしている。
「……助けるか、いや、でも、関わるなって……」
頭の中で理性が警鐘を鳴らした。
だが、次の瞬間、体は勝手に動いていた。
「おい。離してやれよ。」
低い声が、夜気を切った。
男たちが一斉に振り向く。
「なんだてめぇ、部活帰りのガキが粋がってんのか?」
「さっさと消えろ、空気読めよ」
呉人はゆっくりと歩み寄る。
脳裏で、型の呼吸を整えるように息を吸った。
「俺は空手部だ。暴れるなら、相手になる。」
不良の一人が舌打ちして腕を振り上げた。
その手が降り切るよりも早く、呉人の体が動いた。
――ドンッ。
拳が相手の腹にめり込む。
鈍い音とともに、男がくの字に折れて倒れ込んだ。
残る二人が一歩退いた瞬間、呉人は前に踏み込む。
正拳突き。回し蹴り。
無駄のない動きで二人とも地面に転がった。
「……はぁ……やりすぎたか。」
肩で息をつく呉人の前で、女子が呆然と立っていた。
そして、次の瞬間――
「すっごーい! 今の、映画みたい!」
満面の笑顔。
呉人は拍子抜けして、思わず視線を逸らした。
「い、いや……別に……助けただけで……」
「えっ、助けてくれたの? やっぱり! これって――運命かも!」
「は?」
そう言って彼女は、笑いながら胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
光を浴びたその表情が、まるで太陽みたいだった。
次の日。
呉人は廊下で騒ぎの中心にいた。
「ねぇねぇ、昨日の夜、あの人に助けられたんだって!」
「姫野さん、相手が空手部の荒谷でしょ?」
「キャー、やばい、運命だって言ってたし!」
教室の扉を開けると、そこにいた。
昨日の女の子――姫野沙耶。
明るい栗色の髪を結い、笑顔でこちらに手を振ってきた。
「くれひとくーん、おはよ!」
「おは……よ」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
なぜ俺の名前を――と思ったら、クラスメイトがニヤニヤしていた。
「朝からヒーロータイムかよ、荒谷」
「マジで姫野さん狙ってんの?」
「ち、違う! 俺は別に!」
だが、姫野は構わず距離を詰めてくる。
「ねぇ、放課後空いてる? 一緒に帰ろ!」
「い、いや、稽古があるから……」
「じゃあ見に行っていい? 空手してるとこ!」
「え、えぇ!?」
「だって気になるもん! これって運命でしょ!」
彼女の口癖は、やたらと“運命”を持ち出すことだった。
パンを落として拾ったタイミングが同じでも、
同じ自販機を選んでも、
彼女は笑って言う。
「これって運命かも!」と。
呉人は照れくさくて仕方がなかったが、
どこか、嫌じゃなかった。
それからというもの、姫野沙耶は毎日のように道場へ顔を出した。
窓の外から稽古を見つめ、終わると差し入れを渡してくる。
「お疲れさま! 今日の突き、めっちゃ速かった!」
「見てたのか……」
「当たり前じゃん。好きな人の頑張ってるとこ、見逃せないもん!」
呉人はその言葉に毎回固まった。
“好き”という単語をそんな軽々しく言うのかと思った。
けれど、彼女は真剣そのもの。
その瞳に曇りがなく、ただまっすぐに呉人を見つめていた。
だんだんと、稽古の後の帰り道に二人で歩くのが日課になっていった。
姫野の話はとにかく明るくて、彼女が笑えば不思議と疲れも吹き飛ぶ。
呉人はそんな時間が、悪くないと思い始めていた。
ある日、部活終わりの夜。
道場の裏で、また声がした。
「おい、この前の女、どこ行った?」
前に絡んできた不良たちが、別の仲間を連れてやってきたのだ。
数は五人。明らかに報復に来ている。
「おい、荒谷。てめぇのせいで恥かいたんだよ」
「もう一回、遊んでやるよ」
その瞬間、背後から声がした。
「くれひとくんっ!」
振り向くと、そこに姫野が立っていた。
どうやらまた見に来ていたらしい。
「下がってろ、姫野!」
「でも――」
「いいから!」
呉人は深呼吸した。
空手の試合ではない。けれど、負けられない。
守るべき人がいる――そう思うと、不思議と恐怖はなかった。
次の瞬間、五人が一斉に襲いかかってきた。
呉人は踏み込み、体を低く構えた。
蹴り、突き、払い。
痛みも感じないほど、体が勝手に動いていく。
まるで稽古で積み重ねてきた全てが、今この瞬間のためにあったように。
そして――最後の一人を肩で投げ飛ばした。
地面に沈む音だけが、夜に響く。
「……ふぅ……」
肩で息をする呉人の前に、姫野が駆け寄ってきた。
「くれひとくん……かっこよすぎる……」
「け、怪我はないか?」
「ないよ。でも、心臓がやばい。ドキドキしすぎて爆発しそう」
呉人は頬を掻きながら目を逸らした。
「そんなこと、言われても……」
「ううん、本気。私ね、運命だって本当に思ってる」
「運命……?」
「だって、助けてくれたのも、空手やってるのも、全部つながってるでしょ?」
「……どうかな」
「じゃあ、私がこれから毎日くれひとくんを見に来るのも、運命だよ」
「そ、それはただのストーカー……」
「違う! 恋人予備軍!」
「予備軍って何だよ!」
二人の笑い声が夜に溶けた。
数日後。
学校ではすでに「姫野と荒谷が付き合ってるらしい」という噂が広まっていた。
呉人は否定したが、姫野は満更でもない顔で、
「もう運命ってことにしとこ!」
と笑っていた。
昼休み、屋上で二人並んでパンを食べていた時、姫野がふと真面目な声を出した。
「ねぇ、くれひとくん。私ね、昔から“運命”って言葉が好きなんだ」
「……知ってる」
「でもさ、初めて“本当にそうかも”って思えたの、くれひとくんの時なんだよ」
呉人は何も言えなかった。
けれど、風が二人の間を抜けるとき、ほんの少しだけ、心が温かくなった気がした。
「……なあ、姫野」
「ん?」
「もし本当に運命ってやつがあるなら、俺にもわかるようにしてくれ」
「ふふ、簡単だよ」
姫野はにっこり笑って、指先で呉人の胸をつついた。
「ドキドキしてるなら、それが運命のサイン」
呉人の鼓動が、確かに速くなった。
「……ちょっと、反則だろ」
「えへへ、勝負ありだね!」
放課後。
夕焼けの道場で、呉人は一人、型を取っていた。
「せいっ、せいっ!」
その向こうの窓には、いつものように姫野の姿。
目が合うと、彼女は嬉しそうに手を振る。
呉人も思わず笑って、軽く会釈を返した。
稽古を終えると、姫野が駆け寄ってくる。
「今日も最高だったよ、くれひとくん!」
「ありがとう。でも、見られてると緊張するな」
「じゃあ、緊張に慣れるまで毎日見に行くね!」
「……そうなると思ったよ」
笑いながら並んで歩く二人。
赤く染まる空の下、影が並んで長く伸びていく。
「なあ、姫野」
「なに?」
「その“運命”ってやつ……信じてもいいかもな」
姫野は足を止めて、にっこり笑った。
「でしょ? 言ったじゃん。これって――」
「運命かも!」
二人の声が重なった。
⸻
その瞬間、夕日が完全に沈んだ。
けれど、夜空には一番星が瞬いていた。
呉人の胸に、確かに何かが灯った気がした。
それが恋の始まりなのか、運命の導きなのかは、まだわからない。
――ただ、彼はもう、ひとりではなかった。




