第九話 歪な関係
「キスだけだから」
裕斗はキス以上のことは求めなかった。あの夜、二人は幾度となく唇を重ね抱き合った。だが、この先に進んではいけないことはお互いによくわかっている。この先に進めば、きっと元のような関係に戻ることはできないだろう。
しかし、一度覚えてしまった快楽を心と身体が忘れてくれない。唇を見れば期待で心が高鳴り、唇を重ねればお互い求めて身体が火照る。「一線を越えてはならない」と思えば思うほど、暗くて深い沼の奥底へと足を取られ、自力で這い出すことができなくなっていく。
「二人はどういう関係なの?」
人気のない校舎裏の一角に呼び出した健人に、真理はいつもと変わらない明るい口調で問いかけた。
「どんな関係って…幼馴染で友達」
「本当に?ただの幼馴染で友達?」
「…そうだよ」
「じゃあさ、私ともキスできる?」
「えっ」
「私も幼馴染で友達だよ?だったら私にもキスできる?」
少しおどけたような、冗談を言うような、いつもと変わらない口調で問いかけてくる。「目は口ほどに物を言う」とはよく言ったものだ。健人を真っ直ぐに見る真理の目は、この質問が冗談でもおどけてもいないことを物語っていた。
「二人は恋人同士なの?」
「違う」
「裕斗は健人のことが好きなのかな?」
「わからない」
「じゃ、健人は裕斗のことが好きなの?」
「…わからない」
「恋人じゃないし、相手が自分を好きなのかも、自分が相手を好きなのかもわからないってこと?」
「…」
「でも、あんな恋人みたいなキスをするんだね。場所も人目も気にせずに」
「だったら何だよ…何で真理にそんなこと言われなきゃいけないんだよ」
裕斗とのこの関係が何なのか。そんなことは健人自身が一番知りたい。この曖昧な関係をはっきりさせて、もやもやを消し去りたい。苦しんでいるのは他でもない自分なのに、なんでこんなに責められなければいけないのか…もしかして
「嫉妬?」
頭の中で思い当たった真理の行動の理由を不意に口に出してしまった。そして次の瞬間、パン!という音と同時に強い衝撃が左頬を襲った。
「こんな関係間違ってるでしょ!」
真理の目には涙が浮かんでいた。
「裕斗を元気づけてるつもりなの?自分が裕斗を支えてるって、そう思ってるの?こんなのただ依存してるだけでしょ!こんな関係これからも続くと思ってるの?」
「うるさいな!関係ないだろ!」
「今は良くても、これからどうするつもりなの?卒業して、就職して、今みたいに会えなくなって、それでも今のままの関係でいられると思ってるの?裕斗のお母さんには?自分の両親には?何て話す気なの?みんなが二人の関係を受け入れてくれるって、本当にそう思う?」
そんなことも、言われなくてもわかっている。わかっているから一線を越えられない。わかっているからこんなにも苦しんでいる。まるで心を写す鏡のように、真理は健人の悩みを的確に捉え、鋭い言葉で心を抉る。
「…わかってるよ」
「わかってるなら、こんな関係は今すぐやめるべきだよ」
真理の言っていることはきっと正しい。こんな「歪な関係」は終わらせるべきだ。裕斗のためにも自分のためにも。
暗くて深いこの沼を這い出して、明かりが差し込む方へと歩いていくべきなのだ。それがたとえ別々の道であっても。