第三話 異常な光景
「裕斗と真理の結婚式、何で来なかったんだよ」
和也のその言葉は、平静を装った健人の心に想像以上のダメージを与えた。長い時間をかけて築き上げた防壁は音を立てて崩れ落ち、心の隅に追いやった暗い感情が今こそ出番だと押し寄せてくる。それこそ八年間かけてようやく消えかけていた罪悪感と後悔を一瞬で連れ戻してくるほどに。
あの頃の関係を何と呼べばいいのか、その答えを未だに出せていない。お互いに依存していただけなのか、青春にありがちな友情と愛情の取り違えなのか、はたまた本当に恋をしていたのか。
親友という明確な関係は、あの日をきっかけに歪み始め、名前を持たない歪な関係に変わっていった。
大学二年の秋、親友の父親の訃報が舞い込んできた。交通事故だったらしい。葬儀場に着くと、頭を下げ謝り続ける夫婦がいた。必死に謝る両親と場の雰囲気に怯え、訳もわからず「ごめんなさい」と泣きじゃくる子供。その向かい側で優しい笑顔を浮かべ「もう良いんです。お子さんが無事で良かった」と子供の頭を撫でる被害者の息子。
その姿を目に「裕斗くん、偉いわね。お父さんが亡くなったばっかりなのに毅然と振る舞ってる。お父さんが助けた子供とそのご両親にあんなに優しく接して。さすが裕大さんの息子ね」と、そんな称賛が聞こえてくるこの光景が、健人にとってはたまらなく気持ちが悪かった。
葬儀の後、裕斗の姿を探すが見当たらず、ようやく見つけたのは喫煙所だった。
「おう。今日は来てくれてありがとな」
こちらに気づいた裕斗がいつもと差して変わらない明るい声で話しかけてきた。
「タバコって思ってたより美味しくないのな。なんで大人はこんなものに金払うんだろうな」
「平気なのか」
「思ったより平気。むせたりするかと思ったけど」
「そうじゃなくて」
「平気だよ。今日さ、親父が助けた子供とその両親が来てくれたんだよ」
「うん、見たよ」
「必死に謝ってくれてさ。その姿を見た子供も泣きながら謝ってて。最後には『本当にありがとうございました』って棺の中の親父に深々とお辞儀してくれてさ」
「うん」
「あんなに必死で謝ってくれたし、親父に直接お礼も言ってくれて。だからもう良いんだ。子供が無事で良かった」
「…」
「何だよ。何で泣いてんだよ」
健人の目にはいつのまにか涙が浮かび、堪えきれなくなった思いは両目の端から溢れ出して、頬を伝って地面に落ちた。なぜ裕斗はこんなことを言うのだろう。辛くて仕方がないはずなのに。あの場で子供の両親を罵倒したって、誰もきっとこいつを責めたりしない。その気持ちは矛先をあらぬ方向へ変え口を衝く。
「良いわけないだろ。何でお前はそんなに無理して笑ってるんだよ」
「…」
「お前はもっと怒って良いんだよ。なんで子供をちゃんと見ていなかったんだって。お前たちが親父の代わりに助けに走れば良かったんだって。お前はそれくらいのことを言ったって良いだろ」
こんなことを裕斗に言うべきじゃない。裕斗の父親がしたことも、裕斗がしたことも、どこも間違っていない。称賛されるべきだ。良い行いをしたと。毅然とした態度で相手に接し、思いやりを持って相手を許す、優しさに満ちた素晴らしい行いだと。そう讃えられるべきなのだとわかっている。それでも裕斗の笑顔や明るい声が、どうしようもなく健人の心を締めつけた。
「言えないよ、そんなこと。だって、俺がそれを言ったら、親父がしたことが報われないじゃん。『良かった』って思わないと、親父が赤の他人の子供の命と引き換えに、家族を残して死んだ大馬鹿者みたいになるだろ」
言い返せなかった。あの場で裕斗が子供の両親を罵倒していたら、裕斗の父親の善行は家族を残して先立ち、こんなにも息子を苦しめている愚行のように見えたのかもしれない。
「それにあの子はきっと何が起こったのかも、自分が今どう言う場所にいるのかもわかってない。助けてくれた優しいおじさんにお礼を言いに行ったら、その家族に怒鳴られたなんて、一生忘れられないだろ。そんなこと望んでないよ」
裕斗はただ、自分の父親が人生の最後にした善行を綺麗な物語として終わらせたかったのだろう。そのために自分の心を押さえ込み、無理をしてまで「良かった」と笑って見せたのだ。
「だから、良い加減泣きやめよ」
「うるせえよ。お前が泣かないから、代わりに泣いてやってるんだよ」
そしてそんな、どこまでも優しくて不器用な裕斗のことを、健人はただどうしようもなく放っておくことができないでいる。
「だから、泣きたくなったら俺のところに来いよ。俺がまたお前の代わりに泣いてやる」
「何だよそれ」
葬式で泣きながら謝っていた親子は、裕斗に許されたことで幾分か救われただろう。事故を起こした運転手もとても善良な人だったそうだ。事故以来、回避しきれずに人の命を奪ってしまったことに苦しみ悔やんで、見る影もなく痩せ細ってしまうほどに。そんな加害者に裕斗たち遺族は重い処罰を望むことはなく、執行猶予が付いた。
ただ、被害者とその遺族だけが割を食っている。そんな「異常な光景」が、十年経った今でもまだ、健人の脳裏を離れない。