第九話 聖者の紋章
ジーク 主人公 アルムンド騎士爵の三男
シンシア 主人公の幼馴染でベントリー男爵の次女
ナボレス伯爵 近隣一帯の寄親
ジークがベントリー領を任されてからあっという間に2年の月日が流れた。次兄の活躍もあり領地は豊かになりつつある。かつての未開発地は大規模酪農地域となり、多くの肉と乳製品を近隣へ出荷している。他領からの人の流入も少なくなく、ジークは積極的に受け入れを行い、放置されていた旧耕作地も今では農作物を実らせている。領の復興の為に借りた借金は未だ残っているが、それが完済されるのは時間の問題だろう。
シンシアの叔父が隠していた塩鉱山は今では国の運営であるが、そこに従事する作業者は多く、衣食住や道具などを提供する事でベントリー領は少なくない恩恵を受ける事が出来た。守備隊は50名にまで拡充され、街道の安全確保と地域の犯罪抑制に貢献している。領を出入りする商人や冒険者も増え、男爵邸のある街はいつも賑わっていた。
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18歳となったジークとシンシアは領内の教会で結婚式を挙げた。当初は身内だけでと考えていたのだが、伯爵から横槍が入り、近隣の領主を招待しての大掛かりな式となってしまった。費用は伯爵と父が援助してくれた。大勢の招待客への対応があり、式を挙げる教会と披露宴を行う男爵邸の関係者は一日中てんてこ舞いだった。主役であるジークとシンシアも式が終わる頃にはヘトヘトになっていた。
その日の夜、2人はジークの部屋のベットに横並びで座っていた。今日から同じ部屋で寝起きする事になる。ジークは緊張で口が上手く回らず、どうにか自分を落ち着かせようと深く息を吐いた。その横に座っていたシンシアはやや強張った面持ちだったが、急に立ち上がり、ジークの正面でネグリジェを脱いで胸を露わにした。
「どうか私を見て下さい。」
突然の事に驚いてジークは目を逸らしたが、シンシアに促され、ゆっくりとシンシア方を向いた。叔母に鞭打たれた跡は消えているようで、健康的で傷ひとつない、美しい裸体がそこにあった。シンシアはその姿のままジークに近づき、彼の左右の手に自分の手を合わせ、小さな声で何かを呟き始めた。するとシンシアの左胸のやや上に光が現れ、次第に何かの形になっていった。それが何なのかジークには分からなかったが、どこかの貴族家の家紋のように思えた。
「これは聖者の紋章と呼ばれるものです。」
「聖者の...紋章?...」
紋章...ジークも聞いた事がある。だがそれは大昔の伝承とか神話に出てくる内容で、作り話の類だろうと理解していた。しかし実際に目の前には不可思議な光の紋様がある。
「紋章を持つ者は非常に稀だと聞きますが、実際に存在しています。私もその1人です。多くの場合は王家や教会関係者以外には秘匿されます。私が持つ聖者の紋章の場合は強制的に教会所属となり、男性であれば聖人として、女性であれば聖女として、一生を教会の中で過ごす事になるそうです。」
その事を懇意にしている司教から聞いていたシンシアの父親は、ジークに惹かれている娘の気持ちを汲んで、紋章の事を家族だけの秘密とし、口外させなかったという。彼女の叔父にも知らせていなかった。
「これまで紋章の事を黙っていてごめんなさい。この事を知ったジークが私を気持ち悪く思うのではと考えてしまって...」
「そんな事で気持ちが変わる事はないさ。安心して欲しい。それよりも、盗賊団討伐の時の不思議な出来事はシンシアが? あの時は俺の左胸が光りだしたと思ったら周囲の時間の流れが遅くなり、盗賊達の剣撃を容易に躱す事が出来たんだ。」
ジークは討伐戦で起きた不思議な現象を説明した上でシンシアにそう問いかけたが、彼女はネグリジェを着直してからジークの横に座り、首を横に振った。
「聖者の紋章にその様な力はありません。体の傷を治したり、病気を癒したり、あるいは体を少し丈夫にする程度と聞いています。ジークは忘れている様ですけど、子供の頃にジークと遊んでいた時もコッソリと紋章の力を使っていたんですよ。」
・・・なるほど、俺の恵まれた体型はシンシアのお陰でもあったのか。・・・
「ジークの胸が光ったのであれば、ジークも何かの紋章を持っているのでしょう。私とは違う紋章なのでしょうけど、私には分かりません。」
自分が紋章を持っているとして、それが何なのか。謎はまだ残ったままだが、シンシアも答えを持っていなかった。暫しジークは考えていたが、何かを思いつく事はなかった。気がつけばシンシアが頭をジークの肩に乗せて眼を閉じている。自分の秘密を話して気が楽になったのか、昼間の結婚式での疲れが出たのか...ジークはシンシアに軽く口付けした後、彼女をそっとベッドに寝かせた。彼女の寝息を聞きながらジークはまた考えていた。
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翌朝、目が覚めるとシンシアがベッドの上に座り、申し訳なさそうな顔でジークを見つめていた。先に眠ってしまった事を気にしているのだろう。ジークはその事には触れず、笑顔で「おはよう」と言った。それから普段着に着替えて部屋を出ようとすると、ネグリジェのままのシンシアが近づいてきて、両手をあわせ、呟いた。聖者の紋章の力。今回は彼女の呟きを聞き取る事が出来た。それは聖書の中にある神の祈りだとされる一節だった。この祈りが夫婦の毎朝のルーチンとなった。それから部屋の前で待機しているメイドを招き入れ、シンシアの身支度を始めさせた。
ひと足先にジークが朝食を食べようと食堂へ行くと、なぜかまだ男爵邸に居座っている母と、昨日の結婚式のために来ていた長兄と妹が既に食事を始めていて、長兄と妹ははニヤニヤしながら入ってきたジークを見た。おそらく結婚初夜がどうだったのか気になっているのだろう。
・・・紋章の事を家族に伝えるかどうかは後でシンシアと相談しよう。王家や教会に伝わるのは避けたいが・・・
ジークは軽く挨拶した後、ニヤニヤしている長兄と妹を無視して朝食を口に運んだ。シンシアが遅れて入って来ると、彼女に対しては流石に失礼だと思ったのか、2人は何事もなかった様に食事を再開した。
「おっ、未だいたんだね。」
食事を終えて今日の予定を話し合っていると次兄が食堂に入ってきた。彼は早朝仕事を終えて漸く朝食にありつけたのだが、食事を急いで口へ詰め込んだせいで咽せてしまった。その様子が何とも面白く、皆が一斉に笑った。