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暗闇の中で魅入られる

作者: 山城ひすい

ぽっかりと開いた大穴の前で、キヨは白装束に身を包んで座していた。


「ヌシ様、ヌシ様、どうか雨を降らせてくださいませ…村に水を恵んでくださいませ……」


キヨは山の主に捧げられた生贄であった。




山間にあるキヨの暮らす村では【日照りで田畑が荒れた時には”山の主”に生贄を捧げれば雨を降らせてくれる】という古い言い伝えがあった。

村にはもう二ヶ月以上もの間雨が降っておらず、川は干上がり、作物は枯れ、山の木々も荒れていた。

このままでは村が滅んでしまうと考えた村人たちは、古い言い伝えに縋り生贄を山の主に捧げることにした。

そして選ばれたのがキヨである。

キヨはまだ幼さの残る若く美しい娘であったが、早くに両親を亡くして一人で暮らしていた。

村人たちは、死んだ両親の為にもキヨが早く良い家に嫁に行って幸せに暮らすことを願っていたが、そんな折に生贄の話が持ち上がり、キヨが


「あたしが生贄になります。村の為に死ねばきっと死んだ両親も喜んでくれるでしょう」


と申し出た為、悲しさ半分、安堵半分の心持ちでキヨの申し出を承諾した。


山の主が棲んでいるといわれる大穴は”ヌシの穴”と呼ばれており、普段は立ち入りを禁じられている山の中にひっそりと口を開けていて、穴の中は底が見えない程真っ暗だった。

キヨは目を閉じて村人たちの祈りの言葉に耳を傾けていた。

祈りが終わればキヨはこの底無しの穴に自ら身を投じることになっている。

飛び込んだ後にどうなるかはわからない。しかしキヨは今この瞬間ですら恐れも悲しみも持ってはいなかった。

キヨが持っていたのはただ、生まれてから今まで世話になった村人たちを救いたいという思いだけである。

両親を亡くしてから何かと世話をやいてくれた村人たちに恩返しができればと常々考えていたキヨは、生贄になることに何の躊躇いもなかった。

ただ一つ気になることがあるとすれば、この穴に棲んでいるのであろう”山の主”はいったいどのようなものであろうか。ということくらいである。

落ちた先で穴の底に叩きつけられるのか、それともそのままぱくりと喰われるのかはわからないが、もしも”山の主”の姿を見れるのならば一目くらい見てみたいと思っていた。


「ヌシ様、ヌシ様、何卒―――」


ごうっと村人たちの祈りを遮るように穴の中から突風が巻き起こった。

風はまるで意思を持つかのようにうねり、竜巻となってキヨを包むとそのまま穴の中へ吸い込まれていった。


風が止み、村人たちが顔を上げた時にはキヨの姿はどこにもなかった。




キヨが目を開けると、そこはたいそう豪華で美しい部屋の中であった。

はて、自分はヌシの穴の前にいたはずなのにとキヨが首を傾げていると、すぐ近くから声が聞こえた。


「よく来てくれたね」


気が付くと、キヨの前には立派な着物を纏った美しい青年が微笑みながら座っていた。


「山道は険しくて大変だっただろう。さあ、これを食べるといい」


出されたお膳には真っ白な菓子が置かれていた。

キヨは青年に言われるがまま菓子を口にいれると、それは甘く口の中でさらりと溶けていき、なんとも言えない程美味しかった。

あまりにも美味しかったので、キヨは出された菓子を一つ残らず食べてしまった。


「美味しかったかい?」


青年にそう聞かれてキヨはあまりの美味しさゆえにがっついてしまったことが恥ずかしくなり、顔を赤くして小さく頷いた。

それを見た青年は嬉しそうに眼を細めていた。



目を覚ますとあたり一面真っ暗だった。

横たわっていたキヨは身を起こしてきょろきょろと見まわしてみたが、光一つ見当たらず真っ黒な闇の中で水滴が落ちるぽちゃんという音だけが響いていた。

あれは夢だったのだろうか。先程見た青年や豪華な部屋は影も形もない。

ただ一人暗闇の中に取り残されたキヨは不安になり、自分以外の何かがあればと手探りで探し始めた。

すると、少し身を動かしたところでざらりとした壁にあたった。

手でぺたぺたと壁に触れて探ってみると壁は地面よりも少し暖かいことがわかったので、キヨはその壁にもたれかかった。

ほんのりと暖かい壁に不安が和らいだのか、キヨは眠りに落ちていった。




ヌシの穴の前で、一人の若者が立ち尽くしていた。

この若者、名を平助といい、村人たちからは村一番の臆病者と呼ばれていた。


「おキヨちゃん………」


平助は幼い頃からキヨを好いていた。

平助とキヨは同じ年に産まれて、子どもの頃から親しい仲であり、平助はいつかキヨと夫婦になりたいと思っていた。

しかし、平助はキヨが村でも評判の娘であったことと、元来の臆病な性格が災いして一度もそれを口にしたことはなかった。

キヨが生贄を申し出たと聞いた時も平助は悲しくて悲しくて仕方がなかったが、キヨに会いに行くのも怖くて布団に包まってひたすら泣くだけしかせず、それどころか、生贄の儀式でキヨが突風にさらわれた時にも恐れおののいていの一番に村へと逃げ帰ってしまう有様だった。

そんな臆病極まりない平助であったが、数日も経つとあの日の恐怖を忘れてキヨに想いをはせ、仕事もろくに手が付かなくなってしまった。

平助は毎日毎日キヨの姿を思い浮かべてはヌシの山をぼうっと眺めていたのだが、ある日どうしてももう一度キヨに会いたいという気持ちが溢れてしまい、村人たちの目を盗んでヌシの山へ入り、穴へと向かった。

息を切らして山を登った平助はヌシの穴にたどり着くと穴の中に向かって大声で叫んだ。


「おキヨちゃーん!」


声は穴の中に吸い込まれ、返事はおろか木霊すら返ってこなかった。


「おキヨちゃーん!おキヨちゃーん!!」


平助は尚もキヨを呼び続けたが、結果は変わらなかった。

やがて叫ぶ気力もなくなった平助は、やはりもう二度とキヨと会うことは叶わないのだと諦めて村へ帰ろうと大穴に背を向けて歩き始めた。

すると先程まで何もなかったところに急に霧が立ち込めてきた。

嫌な静かさと霧に包まれてしまった平助は恐怖のあまりがくがくと震え、足が竦んで動けなくなってしまった。


ザッザッザッ


草を踏んで歩く音が平助の横から近づいてきて止まった。

平助は顔中から冷や汗を流しながら恐る恐る音の止まった方向に顔を向けた。


そこには、立派な着物を纏った見たこともない男が立っていた。


「ここで何をしていた」


男が尋ねてきた。


「あ、あ、……あの、あの、あの」


平助はあまりの恐怖にうまくしゃべることができなかった。


「お前は誰だ、ここで何をしていた」


男に再び質問されると、平助はなんとか口を動かして答えた。


「おっ、おらは、ふも、ふもとのむむむ村の者でっ………あ、怪しい者じゃねぇです!」

「名は」

「へっ平助、といいます!」

「ここへ何をしに来た」

「いえあの、……ま、薪を、取りに来て…迷ってしもて………」


平助はキヨに会おうとしに来たことを隠そうと嘘をついたのだが、男はそれを見抜いたのかぎろりと平助を睨みつけた。


「ヒィッ!!お許しくだせぇ!お許しくだせぇ!!ほほ、本当はおキヨに会いたくて来ましただ!!」


男の眼光があまりに恐ろしく、平助は慌てて土下座をして本当の事を述べた。


「キヨに会いに来た…」

「ど、どうしてもおキヨを一目見たくて、それで、決まりを破ってお山に入りましただ…どうか許してだせぇ!!」


怒ったのか納得したのか判別がつかない声色で男が呟いたので、平助は地面に頭を擦りつけてただただ謝罪した。

すると男は予想外のことを口にした。


「そんなにキヨに会いたいのなら、その願い叶えてやろうか」

「へっ!?」


平助が驚いて顔を上げると、男は言った。


「明日から日に一度、酒をなみなみに入れた瓢箪をこの穴に投げ入れろ。それを百日の間一日も欠かす事無くやり遂げればお前の願いは叶う」

「ほ、本当でごぜぇますか!?」

「もちろんだとも。ただし、一日でも欠かしたら二度と叶わぬぞ。よいか」

「はい!必ず、必ずやり遂げますだ!!」

「よかろう。では約束だ」

「ありがとうごぜぇやす!ありがとうごぜぇやす…!!」


約束を交わした平助が感謝を述べて頭を上げると先程の男の姿はどこにもなく、霧はすっかり晴れて元の山の景色に戻っていた。

平助はしばし呆然としていたが、やがてハッっと立ち上がり村へ向かって駆けだした。

村へ戻るとすぐに平助はできる限りの酒と瓢箪を買い集めた。

そして次の日は朝早くに起き、瓢箪になみなみの酒を入れて誰にも見つからないようにヌシの穴へ向かった。

穴にたどり着くと柏手を打って瓢箪を投げ入れ、キヨに会えるように祈った。




キヨは再びあの豪華で美しい部屋の中にいた。


「ここは………」


あの若者に菓子をもらった部屋に戻って来たのかと思ったが、キヨが今いる部屋はあの部屋よりも小さく、壁や天井の装飾も異なっているようだった。

同じ屋敷の別の部屋にでも連れてこられたのだろうかとキヨが思案していると、襖が開いて女が三人入って来た。


「失礼いたします。貴女様のお召し物を持ってまいりました」


女の一人がざあっとキヨの前に着物を並べた。

見たこともない程艶やかで美しい布で織られた色とりどりの着物たちにキヨが面食らっていると、女はキヨに着物を選ぶように促した。


「お好きなものをお選びくださいませ。どれも一級の品でございます」


好きなものを選べと言われても、とキヨは困惑した。こんな上等な着物を着たこともなければ選んだこともない。

どれを選べばいいのか見当もつかなかった。

困惑して答えないままのキヨを見て女は迷っているのだと思ったのか、どれを選んでもお似合いですよと助言をくれたもののキヨにはさっぱりで、あまり待たせるのも悪いかと気を使ったキヨは最初に目に留まったものを適当に選んだ。


「こちらでございますね。ではこれに合う帯や飾りを見繕って参りますので少々お時間を」


そう言うと女はキヨが選んだ水縹色の着物を持って部屋を出ていった。


「見繕っている間に湯浴みはいかがですか?」


別の女に声を掛けられ、キヨは言われるがまま浴場に案内された。

炊かれた風呂は丁度いい湯加減で、キヨはゆったりとした心持ちで入浴を楽しんだ。

特別な湯だったのだろうか、風呂からあがると家事や畑仕事で荒れていたはずのキヨの手は赤子のように滑らかで白く美しくなっていた。

驚いたキヨだったが、とりあえず先に服を着ようと思い直して置いたはずの白装束に手を伸ばしたがそれは忽然と消えており、記憶違いかと辺りを探そうとしたその時。


「お待たせいたしました」


先程、着物を持って行った女が現れた。

女は着物と一緒に帯や飾りを持ってきたようで、慣れた手つきでささっとキヨに着付けてしまった。


「お化粧をさせて頂きますゆえ、どうぞこちらへ」


三人目の女がキヨを鏡台の前に座らせた。


「では目を閉じて、じっとしていてくださいませ」


キヨは言われた通りに目を閉じると、ふわふわと柔らかいものが顔を撫でるような感触がした。

女はキヨが少しくすぐったいなと思っているわずかな間に化粧を終わらせてしまったのか、目を開けてくださいませという声が聞こえたので目を開けると、鏡には美しい乙女の姿が映っていた。


「これ……あたし…?」


キヨは鏡に映ったのは別人ではないかと疑った。だが、そっと指先を自分の頬に当ててみると鏡の中の乙女も同じ動作をする。


「とてもお綺麗ですよ」


女はにこやかに微笑んだ。



身支度を終えたキヨは大広間に通された。

部屋に入ると正面にあの青年が座っており、ここが最初に彼と出会った部屋だということもわかった。


「こちらへ、もっと近くで見せておくれ」


青年が手招きする。キヨが近くまで寄ると、青年はおお…と息を漏らした。


「美しい。とても良く似合っているよ。着物も私が好む色であるし、化粧もキヨの美しさを引き立てている」


青年に褒められて、キヨは顔を赤くして俯いた。

男に容姿を褒められたことはあるが、この青年に褒められるほど嬉しいと感じたことはなかった。

照れたキヨを青年は愛おしく思ったらしい。青年は立ち上がると、キヨの手を引いて先程自身が座っていた座布団の隣に敷かれた座布団にキヨを座らせ、自らも隣に座った。


「さて準備は整った。皆、宴を始めよう」


青年が手を叩くと、食事が運ばれてきた。

お膳から溢れるくらいに並べられた数々の料理は、どれもキヨが生まれて初めて見るものばかりだった。

青年に促されてキヨがおずおずと料理を口に運ぶと、それはほっぺたが落ちるほど美味しかった。


「とても美味しいお料理です!」


キヨが満面の笑みで青年に言うと、青年は満足げに微笑んだ。そしてどこからともなく瓢箪を取り出すと、深紅の盃に酒を注いでくいっと飲み干した。

青年が酒を飲む一連の動作があまりにも艶やかだったので、キヨはつい見とれてしまった。

すると、キヨの視線に気づいた青年が優しい眼差しでキヨを見つめ返してきた。キヨはその表情に心臓がどくんと跳ね上がり、高揚して耳まで赤くなってしまったのを隠そうと俯いた。


「キヨ?どうしたんだい」


急に顔を隠してしまったキヨに青年が声をかける。

キヨはなんとか胸の高鳴りを抑え込んで答えた。


「あ、あなた様の所作が優雅で美しいと思って……見惚れておりました」

「それは嬉しいな。わたしもキヨが美味しそうに食事をしているのを見ていると愛おしくなるよ」

「いえそんな!田舎育ちですから所作なんて碌なものではありませぬ!」

「そうかい?わたしはキヨの一挙手一投足どれもが愛おしく見えるよ」

「そんな、滅相もない………」


青年の言葉にキヨはますます顔を赤くした。


「キヨ、顔を上げて」


青年が優しく声をかける。その魅惑の籠った声に鼓膜を揺さぶられたキヨは、おずおずと顔を上げた。


「やはりそなたは美しい」


キヨは再び顔を隠した。




男との約束通り、平助は毎日欠かさずヌシの穴に通った。

穴に行っては酒の入った瓢箪を投げ入れて祈る。しかし、裕福ではない平助が酒と瓢箪を百個用意するには金が足らなかった。

平助は以前よりも仕事に精を出し働いて金を稼ぎ、その金で再び酒と瓢箪を買うことを繰り返した。

食事も出来るだけ簡素なものにし、とにかく酒と瓢箪に金をつぎ込んだ。

平助は村人たちに見つからないようにも気を配った。ヌシの穴がある山は祈祷の時以外は立ち入りを禁じられている。山に入ったことが村人に見つかり、通えないようにされては約束が果たせなくなってしまう。

ここで平助の臆病な性格が役に立った。こそこそ逃げ隠れするのは臆病者の平助にとって造作もない事だったからだ。

ある時はまだ日も登っていない早朝に出かけ、またある時は仕事で別の山に行くふりをしてヌシの穴のある山へ向かった。

こうして平助は村人たちに一切気づかれないまま、ヌシの穴に通い続けた。

全てはもう一度キヨに会いたい一心であった。




食事を終えた青年とキヨは、女たちによる舞を楽しんでいた。

舞いなど見たことがなかったキヨは女たちの優雅な動作やきらびやかな衣装に目を奪われていた。

手の動きに従ってひらりひらりと舞う袖はまるで羽衣を纏った天女たちが踊っているように見えた。

青年の方は舞いに見とれているキヨを見つめながら、時折酒を口に運んでいた。


舞が終わると、キヨは女たちに拍手を贈った。

女たちは青年とキヨに一礼すると、しずしずと部屋の外へ下がっていった。


「面白かったかい?」


青年がキヨに尋ねると、キヨはとても美しくて楽しかったと答えた。

青年は満足そうに笑って、また酒を口にした。


「あなた様は酒がお好きなのですか?」


キヨは気になっていたことを思い切って青年に尋ねた。

食事の間も、舞を見ている間も、青年は度々瓢箪を取り出しては酒を注いで美味しそうに飲んでいたからだ。


「そうだね。酒は好きだよ。昔は酒を飲むくらいしか楽しみがなくてね、自分には酒以外に好きなものなど無いと思っていたのだが………今はそうでもない」


青年の含みのある言い方にキヨは首を傾げた。青年はキヨを見つめながら言葉を続けた。


「今は酒よりもキヨの方が好きだよ」


青年の真っすぐな告白にキヨは真っ赤になって目を丸くした。


「キヨを見ていると楽しい。それに心が穏やかになる」


愛おしそうな青年の眼差しに、キヨはすっかり照れてしまって言葉を口にするのがやっとだった。


「そんな、そんなこと言われましても………あたし…」


青年はくすりと笑うとまた酒を口にした。


「キヨも飲んでみるかい?」


キヨが照れて戸惑っているのを知ってか知らずか、空になった盃に酒を注ぎながら青年は言った。

そして盃をキヨの方へ差し出した。注がれた酒からはなんとも芳しく甘い香りが漂っていた。

キヨはそっと盃を受け取ると、しばしそれを眺めてから一気にあおった。


「………美味しい」


一息ついてキヨが呟くと、青年は朗らかに笑った。

青年が声を上げて笑ったのは初めてだったので、キヨは首を傾げて尋ねた。


「あの、お酒を飲むのは初めてで…はしたなかったでしょうか?」

「いや、そんなことはない。キヨが思ったより豪快に酒を飲み干したので感心したのだよ」

「…恐れ入ります」

「気にすることなど何もない。そのままでいいのだよ。キヨとならもっと美味しく酒を飲めそうだ」


青年は盃に再び酒を注いだ。


「もう一杯、飲んでくれるかい」


キヨは注がれた酒を先程と同じように一気に飲み干した。

すると、キヨの身体はぽかぽかと内側から熱を帯びてきて、急に眠気が襲ってきた。

キヨがとろんとしたことに気が付いたらしい青年はキヨを抱き寄せて自分の肩にもたれさせた。

青年からは花のような芳しい香りがして、キヨは眠りに落ちていった。




目が覚めると、キヨはまた真っ暗な闇の中にいた。


「あなた様………?」


青年に呼びかけるが、返事はない。

キヨは身体を起こそうとして、自身の身体が冷え切っていることに気が付いた。


「寒い………」


先程はあんなに身体が熱かったのに、その熱はどこにもない。

どうにか暖を取ろうとするも、キヨの身体は凍ったように動かなかった。


「寒い………」


息をするのですら喉が凍りそうだった。

誰か自分を温めてくれないかと心の底から願ったが、ここはヌシの穴の中だ。誰も来やしないとキヨは絶望感に苛まれた。

やはり先程のは夢だったのだ。きっと死にゆくキヨに慰めをと山のヌシが見せてくれたのだろう。

キヨは自らの死を受け入れようとまた目を閉じた。その時だった。


「キヨ……キヨ…………」


あの青年の声が聞こえた。

キヨは目を開けて青年を探すが、見えるのは暗闇だけだった。


「キヨ……キヨ…………!」


再び青年の声が聞こえた。

キヨは残った力を振り絞って返事をした。


「あ、なた………さ…ま……」


すると、キヨの視界に二つの丸く紅い星が現れた。

二つの星はキヨにゆっくりと近づいてきた。


「キヨ…こんなに冷え切って可哀想に」


キヨの口元に柔らかくて弾力のある何かが押し当てられた。


「口を開けなさい。これを飲めば温まる」


言われた通りにキヨがゆっくりと口を開けると、甘い液体がキヨの口に流し込まれた。

キヨがなんとかしてそれを飲み込むと、その瞬間身体の芯が熱を帯びてきた。


「もっと飲みなさい」


キヨの口元に再び弾力のある何かが押し当てられ、口に液体が流し込まれた。

液体を飲み干すとまたキヨの身体は熱くなり、血が通ったように手足が動かせるようになった。

キヨは両腕に力を入れてふらつきながらも上半身を起こした。


「もっと………もっと飲ませてください……」


キヨが懇願すると紅い二つの星が更に近づいてきた。

そして固くほんのりと暖かい何かがキヨの口に当てられると、また液体が口の中に入ってきた。

キヨは乳を吸う赤子のようにごくごくと液体を飲んだ。

液体はキヨの五臓六腑に染み渡り、足の先から頭の上まで熱を帯びてきて、先程の寒さが嘘のように熱くてたまらなくなった。

しかし、キヨは液体を飲むのを止めなかった。

唇に押し当てられた固い何かに手を伸ばし、縋りつくように液体を求めた。その姿はまるで愛おしい者に口づけをするようであった。


「………っ、………ん……」


縋りついた何かからは、花のような芳しい香りが漂っていた。




静まり返ったヌシの穴の前に平助は立っていた。

あの日から今日で百日目。一日も欠かすことなく瓢箪を投げ入れ続けた。

今日で満願。平助は震える手で瓢箪を穴に投げ入れ、柏手を打った。


「今日で百日目じゃ!約束通りキヨに会わせてくれ!!」


平助は穴に向かって叫んだ。

すると、平助のまわりに俄かに霧が立ち込めてきた。平助はびくりとしたが百日前に男と出会った時も霧が立ち込めてきたことを思い出してもしやと思い辺りを見回した。


ザッザッザッ


横から足音が聞こえてきた。平助はハッとして音がする方向を見る。足音はゆっくりと近づいてきて、やがて霧の中から女が現れた。

平助は一瞬キヨだと思ったが、女が村ではまず見ることのない上等な着物を着ていたのでキヨではないと悟り落胆した。


「もし、そこの方」


女が平助に声をかけてきた。

声はキヨに似ていたが、女は頭に薄布を被っており顔は見えなかった。そして腕には赤子のようなおくるみを抱いていた。


「お、おらになにか用か?」


平助が上ずった声で返事をすると、女はふっと微笑んだ。


「すみませんが、少しの間だけ坊を抱いていてくれませんか」


女がおくるみを差し出してきた。急な頼みに平助は不思議に思ったが、赤子を抱くくらいならとおくるみを受け取ろうとした。

その時だ。おくるみの中から真っ白な子蛇が平助に向かって飛び出してきた。


「うわあ!!」


平助は驚いてしりもちをついた。

飛び出してきた子蛇は舌をチロチロさせながら平助に近づこうとしている。平助を敵だと思っているのか今にも噛みついてきそうだった。


「これ坊!いたずらに人を驚かせてはいけません!」


女が子蛇を叱った。子蛇はしゅんとしたような顔で平助に背を向けて女の方へ這っていった。

女は手を差し出して子蛇を腕に乗せ、めっと叱ると子蛇はおくるみの中に戻っていった。


女と子蛇のやり取りを平助は呆然と眺めていた。そして子蛇から女に視線を移すと、しりもちをついたことで先程は見えなかった女の顔が見えた。

その顔を見た瞬間、平助は青ざめた。


「お、お、おまえさんは………」


女の顔はキヨと瓜二つだった。


「まあ、気づいたのね平助さん。そうよ。あたしはキヨ。久しぶりね」


キヨはにこやかに微笑んだが、平助の顔はすっかり血の気が引いていた。


「お、おまおまおま………」


平助は何か言おうとしたものの、恐怖のあまり口が動かない。


「少しの間にだいぶ変わってしまったから気づかなかったでしょう?あたし結婚したの。この子はあたしの息子よ」


キヨは愛おしそうにおくるみを撫でた。傍から見たら平和な母子に見えただろうが、平助は全身から冷や汗が止まらなかった。

平助はおくるみを撫でるキヨの目が人間の目ではなく、真っ赤な蛇の目していることに気づいてしまっていた。


これはキヨじゃない。キヨのふりをした化け物だ…!


平助は心の内でそう悟り、すぐに逃げなければと焦った。だが、腰を抜かした平助の両足はまるで縛られたように動かなかった。


「ひっ…!」


声にならない悲鳴を上げ、平助はずりずりと後ずさった。

その時、再び足音が聞こえて霧の中から前に出会った男が現れた。


「どうだ?お前の願い叶えてやったぞ」


男はキヨの隣に立った。男の目もまた真っ赤な蛇の目をしていた。


「まあ、おまえ様。いらしたのね」

「ああ。キヨと坊が心配でな」

「相変わらず心配性ね。あたし一人でも大丈夫だと申したのに」

「客人とはいえ、愛しい妻が一人で男と会いに行くのだぞ。心配にならないわけがなかろう。おまえや坊にもしものことがあったらわたしは居ても立っても居られなくなる」


男は優しくキヨの頬に触れた。キヨも愛おしげに男の手に自分の手を重ねる。

ふたりが仲睦まじくしていると、おくるみから子蛇が顔を出した。


「ふふ、坊がやきもちをやいてるわ。父上だけ母上に撫でてもらってずるいって」

「おやおや、坊はいつも母に抱いてもらっているだろう。少しくらい父に譲れるような器の大きな男になってもらわなければ困るな」

「あら、独占欲が強いのは父親譲りでしょうに」


キヨは笑いながら子蛇を撫でてやった。子蛇は満足げな顔をしてキヨに身を摺り寄せている。


「坊、似るなら父より母にしろ。母の器量と胆力と美貌は父を凌ぐぞ。独占欲は似なくて良い」


父の言葉が理解できなかったのか、子蛇は父と母を交互に見比べてきょとんとしていた。


「そうね、独占欲は似ない方が良いわ。母に似てもいいけれど、父上にもちゃんと良いところはあるのよ」

「ちゃんととは…キヨ、わたしの良いところとは何だ?」

「………………………………………………………………………………………一途に愛してくださるところ」

「だいぶ考え込んだな」

「沢山ありすぎて選ぶのに迷っただけですわ」

「本当か?」

「本当よ。だってあたし、おまえ様のすべてを愛していますもの」

「……………キヨには敵わん」


男が困ったように頭を掻くと、キヨはクスクスと笑って男に口づけをした。

そしてキヨは平助の方へ視線を向けた。しかしそこに平助の姿はなかった。


「あらいつの間に」

「わたし達が話している間に逃げたようだな」

「残念ね。もう少しくらい話がしたかったのに」

「向こうが会いたければまた来るだろう」

「それもそうね」


二人は再度見つめ合うと、今度は男の方からキヨに口づけた。


「ところでキヨ、そろそろ坊に兄弟を作ってやろうかと思うのだが今夜あたりに……」

「おまえ様!?坊の前で何を言い出すのです!!」

「痛った!!!」


ばちーんと小気味良い音が響き、二人と一匹の姿は霧の中に消えていった。




二人の目を盗んで逃げだした平助は息絶え絶えになりながら村に辿り着いた。

そして自分の家に閉じこもり、それきり外へ出てこようとしなかった。

平助の様子を見た村人たちは山で何かあったのかと尋ねたが、平助はヌシの穴に行ったことも穴の前でキヨに会ったことも、決して話はしなかった。


ヌシの穴は今でも立ち入りを禁じられた山の奥にあり、ぽっかりと口を開けている。

穴の前で耳を澄ますと、時折楽しげな笑い声が聞こえてくるという。




(終)

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