悪党を偽り
親父殿に初めて会った時の事はもう思い出せない。買われたのか、拾われたのか、少なくとも善意ではなくヤクザらしい理由で飼われたのは覚えている。
【暗器】即ち、邪魔者を消すための体のいい暗殺道具を育てるために。
そう。親父殿は完璧な善人じゃない。鈴宮彼方という幼子を殺人鬼に仕立て上げたのだから。ただ、あの人には良心の呵責があったんだと思う。殺人鬼に仕立てて起きながら結局使おうとはしなかった。
良心、人情、そして、孤独。妻子を失った心はもはやひび割れた碗、満たされることの無い幸福感といつ壊れてもおかしくない精神は新しく子供を迎えることで何とか形を保っていた。
使われない武器は錆びるだけ。でも、それでよかった。
一度孤独感を和らげる存在を知った親父殿は零士や源、姫野を連れ帰ってきた。
騒がしくなった。楽しくなった。鈴宮彼方だけを除いて。
ただ、零士には追手が居た。あの異能は使い勝手が良い上に素手で人を容易く殺せる。躾、調教し、従わせれば最高の鉄砲玉。それが財産だけ沢山持っていて、失脚し一人しか居なくなった反社会組織に引き取られたと知れば襲ってくるのは当たり前で……。
暗器の出番だった。
その日、人気の少ない夜の道路、雨が降っていたと思う。その中で五名の命を奪った。
「彼方……」
「親父殿……」
親父殿はまるで、苦虫を噛み潰したような顔をして鈴宮彼方を見ていた。
「……これで最後?まだ居る?」
親父殿は強く抱き締めて頭を撫でながら絞り出した声で伝えてくれた。
「ここに居るので全員じゃ。すまん。本当にすまん……彼方……」
謝りながら親父殿は抱き締めてくれた。
鈴宮彼方の手は血に塗れ、足元には血の水溜まりが出来ていた。
初めて……心が空っぽになった。人を殺した罪悪感に耐えきれずに。
それから人を殺すようになった。源を売り買いした売人、姫野の家族を殺し執拗に追いかけてくる異能者狩りの面々、親父殿を脅かす連中。
百人を超えた辺りで数えるのを止めて、数えきれない人数をさらに殺した。
いつしか、この手から血は落ちなくなっていた。それが例え幻覚だとしても鈴宮彼方は触れたものが血に染まって汚れていくように見えてしまった。
空っぽの心にヒビが入る音がした。
中学に上がっても友達は居らず、家でも皆とは距離を置いた。触れれば、汚してしまうような気がして。
空虚な日々を過ごしていた。
そんなある日、彼女に出会った。
「ママー」
いつもの帰り道に小さな花屋が出来ていた。
「タンポポー」
「また取って来やがったですか?」
「うん!」
親子……にしては母親は酷く若く見えた。まだ学生にすら見える。
ただ、顔をはっきりと思い出せない。
「だってママ、タンポポ好きでしょー」
「好きだよ。でも、取ってきたらお花さんが可哀想でしょ」
ただただ、見とれてしまった。
「ん?お客さん?こんちは。若輩者ですが、よろしくお願いしやがります」
言うなれば、花のような人。可憐で、綺麗で、儚げで、でも力強く、今を生きる人だった。
知らなかった。この心に満ちる感情の名前を。後にそれを恋だと知るまでは。
それから、たまにその花屋さんに立ち寄った。
東雲此方、彼女の名前は此方と言うのだとまた会った時に教えてもらった。
鈴宮彼方は自分の名前が彼方だと教えると名前に親近感を覚えてくれて、数日もしないうちに笑い合えるぐらいには仲良くなれた。
「この子は遥。ほら、ご挨拶」
「うー……お兄ちゃん?」
「お兄……まぁ、いっか」
人見知りが激しく常に母親の後ろに隠れてこちらを伺っていた。
「こんにちは」
「こんちわー」
口調はどこか此方を引き継いでいた。
「なにしちょるん?」
「タンポポ探してる~」
彼女達と一緒に居る間はどこか心が落ち着いた。
彼方の知らない穏やかな時間。ひび割れた心が少しずつ治っていくような、そんな気がした。
それでも、この手は血に染まったままだった。
凄腕の暗殺者、たった一人で数百人を相手に出来る存在となれば他の組織が黙っていない。鈴宮彼方は自信の存在が抑止力であると同時に目の上のたんこぶであると知ったのは此方が拐われてからだった。
一人残さず撫で斬りにした。何処の誰とか、他所の誰とか、一切知らない。お前達は彼方の最も踏み込んではいけない聖域を汚した。
「すまん……頼む……命だけは……この子の命だけは……」
拐った奴らのボスの最も大事な人達を殺した。彼方にしようとしたことをそのまま返してやった。
無関係の命を奪った。何も感じずに……。
「彼方……」
彼女と彼方は生きる世界が違う。血塗れの道を歩む愚か者とは違う。彼女が生きるべき世界はこんなのとは無関係の世界であるべきだ。
「……これが僕だ、此方。今まで……黙っててごめんなさい」
怯えた目だった。信じられないものを見る目だった。人殺しを……見る目だった。
この心を満たしてくれた感情の名前を知る前に彼方は距離を置いた。
置いた……筈なのに。
「彼方」
「お兄ちゃん!」
帰り道、彼女達に出会ってしまった。道を変えた筈なのに。
「……それじゃ、失礼します」
「遠慮すんなですよ!茶でも飲んでいきやがれです」
「行きやがれだす!」
「いや、でも……」
ヘッドロックされながら無理矢理家に連れていかれた。
此方は少しだけ怯えて、でも、真っ直ぐに彼方を見て言ってくれた。
「助けてくれてありがとうね」
「……」
違う。あれは彼方がばら蒔いた種だ。彼女は巻き込まれただけ、悪いのはこっちだ。
「いや、感謝なんて……悪いのは……僕だ」
心が罪悪感で潰れいてく。あんな怖い目に遭っておきながら彼女は彼方へ感謝の言葉を口にして……。
居なくなりたかった。
でも……
「悪くない。悪くないよ」
汚れた手を彼女は包むように取って、見上げるように彼方の顔を見る。
「彼方は、何も悪くない」
日向の花のように、彼女は笑う。その笑顔を今でもはっきりと思い出せる。
色褪せた茶髪を後ろで纏め、ヒマワリのような模様と色の瞳を瞑り、少しだけ大人びた顔立ちを崩してくしゃくしゃに笑う。地に咲いた星のような花の人。
僕は彼女の手を握って、初めて人前で泣いた。初めて惨めでみっともなく泣いた。初めて心の悲鳴を口にした。
もう人なんて殺したくない、って。
その願いは聞き入れられた。親父殿は僕に仕事を回すことはなくなった。それ以前に仕事が来ないように手配してくれた、のが正しいかもしれない。
とにもかくにも僕は出来るだけ普通の人生を歩むようになった。
幸せだった。帰りに毎日彼女の元へ通い花屋の手伝いをするようになって、何気ない会話が、何ともない日常が、変わり無い日々が、僕にとっては幸福になった。
ある祭りの日、三人一緒に赴いた時に露店に飾ってあった安物の指輪を彼女に贈った。タンポポの装飾の。
「大きくなったらもっと良いものを贈るよ」
「期待しとくね」
人生の絶頂期、この日々がいつまでも続きますようにと、願い星に祈って。
そんなある日……
「貴女が妻の浮気相手、ですね」
……その幸福を壊すように、あの日、あの男が現れた。
身なりの良い、三十半ばの男。西園寺十夏。
遥は西園寺の血筋を持つ子供。それ故、西園寺家の子供として引き取るとの事だった。
多額のお金を積まれ、それでも、首を横に振った彼女。しかし、彼女の両親の説得により、十億という大金と引き換えて遥の親権を譲り渡した。
「これは慰謝料として受け取ってください」
いわく、浮気と言うには関係性は薄く、ほぼ一方的な恋慕だったらしく、子供の妊娠も望んだものではない。それでも、お腹を切ってまで産んだ娘を好きにならない筈がなく、彼女は若くして母親になる覚悟をした。
だから、数日間彼女は泣き続けた。
何も言えなかった。何もしてあげられなかった。何も、助けられなかった。ただ、手を握ることしか……。
あの日、僕にしてくれたように。
「ありがとう。ありがとうね、彼方」
「ううん」
少しでも心が軽くなるようにと願って。
それからは一人暮しの彼女の元を訪ねるようになった。
少しづつ元気を取り戻すも時折遥の事を心配して外を見て悲しそうな顔をしていた。
泣いてないだろうか、ちゃんと笑っているだろうか、好き嫌いをしてないだろうか、元気しにているだろうか。心配事を上げればきりなんて無く。
この胸に満ちる感情の名前を恋と知っても口に出来ないまま。
三年ほど経って、朝から花屋の手伝いに行った日、開店時間になってもお店は物静かなままだった。
心配になって彼女の住んでいる家を訪ねた。合鍵を渡されていたから鍵を開けて。
風邪だろうか、それとも脳梗塞とかの動けなくなる病気?
内心不安で、部屋の中に入って……
彼女の首なし遺体を見つけた。
部屋中に血が飛び散り床は血の水溜まりになっていた。いつか見た光景のように。
「此方……」
分かっている。それはしてはいけないことだと。散々気を付けてきた、証拠を残す行動。
僕は泣き叫びながら彼女の遺体を抱きかかえてしまった。
僕の声が原因で近隣の住人が警察を呼び、何人かその惨状を見て吐いていた。
僕の背景、即ちヤクザのお抱えの子供と知った警察は僕が犯人だと決め付けて捜査したが証拠は出ず、留置場から出た時には此方の葬儀は終わっていた。
その日から僕は壊れ始めた。
また、人を殺し始めた。あくまでも仕事の範囲内で。
空っぽの心は少しづつ磨り潰れていって、跡形もなくなって、気付いた時には本当の自分が分からなくなっていた。殺人鬼が人の皮を被って人真似をし始めた。
僕の名前は鈴宮彼方、って。
でも、次第に元の自分も思い出せなくなって行って……。
■の名前は■■彼方……。
方言を使っていた、名字は、何処に居て、どんな人間で……。
いつの間にか近くに居た人の真似をし始めた。
「ワシの名前は彼方……彼方じゃ」
その様子を親父殿は病床から悲しそうに見ていた。
「お前だけが心残りだ。彼方……」
そう言い残して親父殿は死んだ。
涙を流すことはきっと無かった。
それからも邪魔者を消して、皆殺して、仕事が無くなって、この胸に残る感情、復讐心を燻らせながらほつき歩いていた時、泣いている少女を見付けた。
酷く痩せた体、ボロボロの服に片方しかない靴、ボサボサの膝下まである髪の毛、今も思い出す陽の花の瞳。
「……なして」
遥だった。
「……お前さん大じょ……」
手を差し伸べようとして、血塗れに幻視した手を引いてしまった。
その手を、縋るように少女は掴んだ。
「助けて……助けてください」
涙を流すその子を、彼女の忘れ形見をワシは……
「あぁ。あぁ。助ける。助けちゃる。安心して」
……見捨てるなんて出来なかった。
彼女を連れ帰り零士に預けた。どうしてもワシは自分の手が汚れているようで触れることが出来なかった。
幸せそうだった。皆が笑っておった。いつか見た幸福がそこにあって、まるで違う世界を見ているようで……。
最後の仕事が決まった。
ワシはこの幸福を守らないと。鈴宮彼方が居ては邪魔だ。
せめて居なくなったあとも彼女達の幸福が末長く続くように、邪魔者は消しておかなければ。
「彼方~!早く此方に来やがれです!」
「ワシは……彼方で良い」
さぁ。仕事を始めよう。殺すべきものを……殺さねば。




