中国戦線 漢口の奇跡
中国戦線を1話でまとめるつもりが、1話で終わりませんでした。
史実同様に中国戦線にハマってしまいました。
1941年9月漢口。我々は戦場に帰っていた。
窓際の席に黒メガネで、机に手を組んだ肘を乗せている初老の男性。隣の直立不動の副官と逆光のせいも有り、悪の組織の親玉にしか見えなかった……
「15年ぶりだな。乾」
「あっ、そのネタはもうやったので、話進めて貰っていいですか?」
「オヤッさんが、一生懸命芝居をなさってるでしょうが! それに付き合わないってのはどういうこってすか? エンジンプラグ2~3本抜きますよ!」
「おい! シゲ。整備に手を抜いちゃいけねえなあ。オレは、そんな風にお前を育てた覚えは無いぞ……」
「失礼しました! オヤッさん」
「あのう、それで呼ばれたのは何でしょうか?」
「そう、てえした話でもねえんだがね…… こちとら、ノモンハンからこの方ずうっと戦場に居ぱなしでよう。おりゃあ、いいんだが、内の若い衆達が忍びなくてよう…… 内の若い衆に内地の香りがするものを分けてくんねえか?」
要は、日本本土のものを分けてくれというものであった。糧食は、支給されているとは言え、嗜好品の配給は限られており、娯楽品に至っては皆無であった。
長谷川市子の「ハ109整備手帳」が、ボロボロになるほど愛読されるくらいであった。
まあ、ノモンハンからお世話になっている整備隊の皆さんへの慰問の意味も有り、内地からの持参物から諸々の娯楽物*1が榊親分に奉納された。内地から漢口に進出した第6戦隊、第11戦隊、第59戦隊の隊舎から、嗜好品の私物の何品かが忽然と消えた。篠原中尉の秘蔵の李香蘭のプロマイドと資生堂のポスターが無くなったのは、中国4000年の謎とされた。
首都であった南京が陥落すると、1938年に蔣介石の中国国民党は首都機能を重慶に移転させた。そして、漢口を攻略した日本軍は、重慶に対する空襲を実施した。いわゆる、重慶爆撃であった。この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍戦闘機の航続距離が、爆撃機のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。
それは、十二試艦上戦闘機が零式戦闘機として制式化、戦線に投入されるまで続いた。
零戦は、初陣で13機で27機の国民党軍機を全滅させるという華々しい戦果を上げた。
この初陣を飾った13機の零戦は、味方機に損失を出さずに、機銃が故障した白根斐夫中尉以外の12機全てが一機以上を撃墜する戦果を上げた。進藤大尉はそれぞれの戦果を加味した結果、撃墜は27機*2と判断、マスコミはこの戦果を一斉に報じた。ただし、零戦隊は13機中3機が被弾、また一機が主脚故障のため着陸に失敗し転覆した。 この際、操縦士たちから防弾について「攻撃機にあるような防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、高山捷一技術大尉は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し、効果を発揮するべきと説明した。大西瀧治郎少将はそれに対し「今の議論は技術官の言う通り」と言って収めて操縦士たちは黙ったと言う……
これを伝え聞いた九州に覇を唱える別府造船グループ総帥、来島義男社長は、
「あの人は、水平爆撃無用論だったり、戦闘機無用論だったり、水からガソリン作るって詐欺師に騙されたりと、軍人としての先見の明が無いどころか、ただの馬〇なんじゃないか? だから海軍大学落ちるんだよ! あの人は」と言い放ったという。自分は、海軍兵学校落ちたくせにとは周りの人は言わないだけの分別があった。
第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将も、
「操縦士一人を一人前にするのに幾ら掛かると思ってるんだ! 無防備で墜とされる戦闘機なぞ、いいカモでは無いか!」と憤ていた。
第64戦隊の加藤少佐も
「高速性、戦闘性を活かして活動しって、サーカスの曲技飛行じゃないんだ。どんなに、警戒しても一連射くらいは食らう時がある。その一連射で墜ちるか、耐えて反撃できるかで大分違うんだがなあ」と海軍の人命軽視に疑問を呈していた。
重慶爆撃のなかでも特に大規模な絨毯爆撃であったのが、海軍主導によって行われた1940年5月17日から9月5日までの百一号作戦、および1941年5月から8月までの百二号作戦である。日本の軍中枢で日中戦争とは別に対アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が取りざたされはじめたことから、海軍、特に中国方面で作戦指導にあたっていた井上成美支那方面艦隊参謀長らが、日中戦争の早期終結を目的に提言した作戦であった。
これに対して、「海軍は、早期終結を目的にと言って新しい戦争おっぱじめるよなあ」と思ったものだ。
陸軍ではこの百一号作戦と百二号作戦に対して飛行部隊を一時協同させたものの、効果が薄く無意味かつ来るべき対ソ戦・対米戦に備えるべき中で燃料の消耗が激しいこと、非人道的・国際法に反する行為であるとして絨毯爆撃に強く反対する声があり、第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団長木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を1941年9月3日に提出している。
遠藤少将は、実際に重慶を爆撃する九七式重爆に搭乗し、絨毯爆撃を行った旧市街はたしかに民家も何もかも灰燼に帰しているが其の周辺には新市街が出来て広がっているのを確認、それを理由に、重慶爆撃の無意味さを主張している。
この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍のその後の重慶爆撃中止に影響を与えたという。
しかし、海軍航空隊の重慶爆撃が1941年9月1日の百二号作戦の打切りにより完全に終了したのちも、陸軍航空兵団によるいわゆる援蔣ルート遮断を目的とした重慶周辺に対する爆撃自体は続けられることになった。
重慶周辺への前進基地として、宜昌と南寧が使用された。
重慶まで約480キロと最も近く、漢口を重爆や整備の後方基地とし、宜昌を戦闘機や軽爆の前進基地として活用した。
同じく南寧も、援蔣ルートの昆明ー重慶の中継としての要衝である貴陽まで約460kmであり、こちらも広東を重爆や整備の後方基地とし、南寧を戦闘機や軽爆の前進基地として活用した。
陸軍は、単座の戦闘機や複座の軽爆撃機において、往復3時間以上の飛行は操縦士への負担が大きすぎると考えていた。事実、漢口からの長距離爆撃においては、疲労から来る着陸時の事故が多かった。
漢口から重慶まで直線で約700km飛んで、1,000kgそこらの爆弾を投下することは、非常に効率が悪いと思われた。
帝国陸軍の爆撃機に対する設計思想は、爆弾搭載量や航続距離を多少犠牲にしても、敵戦闘機の邀撃を振り切れる程度の高速性能を確保する事を重視し、爆弾搭載量の不足は反復攻撃を行う事で補うという思想だった。1930年代中後期以降の陸軍が重軽を問わず、爆撃機に第一に求めていた任務は、飛行場の在地敵機を捕捉し破壊する航空撃滅戦にあった。
この考えから、前進基地として宜昌と南寧が選ばれた。
漢口に進出した第11戦隊と第59戦隊のキ44一式戦闘機「鍾馗」は、昨年の零式艦上戦闘機以上の衝撃的な実戦デビューを飾った。
試作機のハ41からハ109への換装、照準器も鏡筒式射爆照準器から映像式射爆照準器の九八式射爆照準器に変更されたことによる空気抵抗の減少により、離昇馬力1,500馬力で最高速度610km。ホ103を機首と翼内に各2門、合計4門の火力と合計130kgにもなる防弾装備により、中華民国パイロットを恐怖に陥れた。
零戦の進出から1年、中華民国パイロットは零戦が96式艦上戦闘機や97式戦闘機同様に、格闘戦に非常に優れた戦闘機ではあるが、同様に防弾装備を持たないことにも気づいた。
また、上空からの一撃離脱に対してどういう訳か追尾を途中で諦めるため、以前に増して徹底した一撃離脱戦法が取られていた。
零戦の20mm機関砲は、当たれば強烈だが200m以上は垂れて当たることは無く2連射もすれば弾が無くなった。そして7,7mm機銃は操縦席背部の防弾鋼板を打ち抜くことは出来なかった。
そして、日本軍が新鋭機を出してきたように、中華民国もアメリカからP40を供給されていた。
武装も機首12.7mm機銃2門に加えて、主翼へ7.62mm機銃2門となかなかに協力であった。
「隊長! 日帝の戦爆連合です」
「ようし、やつら今日も迎撃は無いとたかをくくってるな。P40全機、降下して攻撃する。第1目標、敵戦闘機。くれぐれも格闘戦に持ち込むな、一撃離脱したらそのまま降下して一度戦域から離脱しろ!」
「I16、I153は、戦闘機を引きはがした後の爆撃機を攻撃しろ!」
その日、重慶への日本陸海軍合同攻撃隊は、48機の中華民国戦闘機の迎撃を受けた。
その内18機のP40が、急降下で日本軍の戦闘機に襲い掛かった。
何機かは被弾したものの、被害のほどは見られなかった。
時速700kmで降下するP40。追って来る日本軍戦闘機は居なかった。今までは……
「隊長、日本機が追い付いて来ます!」
「そのまま、降下を続けろ! 絶対に水平飛行にするな! 速度を落とすな!」
急降下で離脱を図る中華民国P40をその日本軍戦闘機は、追いつき更に一連射して追い越して行った。そして、先行する隊長機にも追いつき、銃撃を加え撃墜した。
18機のP40を追尾したのは、24機の一式戦闘機「鍾馗」であった。第11戦隊第1中隊12機、第59戦隊第1中隊12機であった。
「篠原中尉! 少しは獲物を残してくださいよう!」
「おう、樫出悪かったな。獲物は、まだ居るみたいだし上昇して爆撃機の護衛に戻るぞ」
第59戦隊第1中隊の樫出少尉は、ノモンハンから陸軍航空士官学校と馴染みの絡みで篠原中尉に文句を言う。それは、第59戦隊第1中隊全員の代弁であった。
敵の新鋭戦闘機P40、18機中の3機を篠原は撃墜していた。
中華民国戦闘機は、爆撃に対して急降下からの銃撃を加えた。いつも通りに狙いやすい端の機体を狙い、機体中央に銃撃を加える。7,7mm4挺の連射は、防弾装備など持たない日本機を穴だらけにしていった。いつもなら……
「くそ! こいつ、固いぞ! 防弾鋼板が有るぞ。弾をはじいてやがる」
その機体は、7,7mm機銃弾を幾ら浴びせられても、穴も開くことも無く、火を吐くことも無かった。
そうして、機体上部の円形キャノピーの機銃が、中華民国戦闘機を銃撃した。
1連射食らったI15は、エンジンから煙を噴いて離脱したところを護衛の零戦に撃墜された。
一撃離脱で降下した中華民国戦闘機は、P40を上昇してきた鍾馗の餌食となった。
中には、逃げおおせた機体も有ったが、獲物に飢えた樫出達の餌食となって中国の大地に還っていった。速度が、100km以上も違う機体から逃げることは不可能だった。
一式重爆撃機「呑龍」は、この日の重慶爆撃が初の実戦であり、それまでの97式重爆撃機が750kgの爆弾搭載量のところを、2,000kgの爆弾搭載量と防弾装備での生存性の高さを示した。
鍾馗と同じハ109を搭載し、機体上部に電動のホ103連装機銃を装備し、機体前面の操縦席と爆撃手席の間に7,7mmの八九式固定機関銃を2挺。機体尾部に遠隔操作式の八九式固定機関銃1挺を装備していた。乗員は、正副操縦士に爆撃手と上部機銃手の4名と、97式重爆の7名から減じていた。
防弾装備は特に強化され、正副操縦者席・上部機銃手席へ16mm厚防弾鋼板および、正副操縦者・上方砲塔の風防に70mm厚防弾ガラスを設置、出火対策も全燃料タンクの被覆は16mm厚ゴムに変更され、外翼および中央翼部の燃料タンクには窒素を用いる自動消火装置が導入されていた。
乗員を減じたことにより、装甲部分をコンパクトにまとめ上げ、スペースの確保に繋げた。これにより爆弾搭載量も97式重爆の750kgから2,000kgへと増加した。
この日、48機もの戦闘機を撃墜され、重慶の鉄道操車場、長江の桟橋などを破壊された中華民国空軍は復讐に燃えて、鍾馗が飛び立った宜昌への夜間爆撃を行ったが、21機出撃し帰還した機体は1機も無かったと言う。
日本陸軍は、零式艦上戦闘機以上の成果を出したこの日の爆撃及び迎撃戦を「漢口の奇跡」と称え、内外に宣伝した。
*1主に、中国大陸で手に入らない、日本酒、甘味物、歌謡曲のレコードなどであった。
*2実際の中国側記録によると、被撃墜13機、被撃破11機。うち10人戦死、負傷8人であったという。
あれ?99式襲撃機が出て来ないW
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