閑話:陸軍航空士官学校
一旦、戦地から内地に戻ってきます。
どうしてこうなったあっ!
1940年12月乾辰巳准尉は、第21期少尉候補生として所沢の陸軍航空士官学校に入校した。
そこでは、ノモンハンでの戦友たちに再会する事になる。
飛行第64戦隊の上坊良太郎。飛行第59戦隊の樫出勇。飛行第11戦隊の加藤正治。そして、飛行第11戦隊の篠原弘道である。
「なぜ、篠原さんがここに?」
「なぜって、士官学校に入校するためさ」
「いや、篠原さんは既に少尉ですよね?もうすぐ、中尉になられて中隊長になられるって話も聞きますよ」
「その中隊長になるにあたって、戦術や将校としての素養を学んで来いとさ」
なるほど、この人にはそれは絶対に必要だなと、心の中で頷く処世術に長けた乾准尉であった。
「ん?なんか、失礼なことを考えてないか?」
「いえいえ、そんなことはございません! そうえば、100機撃墜おめでとうございます!」
戦闘機乗りのカンで何かを感じた篠原少尉を、爆撃機乗りの本能で回避する乾准尉。
そこで、上坊、樫出、加藤の戦闘機乗りが話に入って来る。
「篠原少尉、100機撃墜おめでとうございます!」×3
「まあ、おかげで100機撃墜のエースパイロットを撃墜されては困るってんで、士官学校へ入れられたけどね」
篠原少尉の乗機の操縦席側面には、撃墜マークが所せましと有り目立つことから、敵機に良く狙われた。
日本のエースパイロットが乗る固定脚の軽爆撃機に、中華民国政府は5万元の懸賞金を掛けさえしていた。
少尉候補者学生は士官候補生と違い、すでに軍人として十分な実務を行っている者なので、主に学科と校外演習を中心として戦術や将校としての素養を短期間で教育された。操縦者においても飛行教育はすでに経験済みのため、在校中は僅かな時間を技量維持飛行に充てるにすぎなかった。
少尉候補者学生は、200人ほどであり士官候補生の3分の1ほどだった。また、パイロットより技術・通信要員の方が多かった。
とりあえず、みんな近い年代だし学校にいる間は、階級関係なしで行こうとなった。
年齢的には、乾、樫出、上坊は大正4年と5年の早生まれで同学年。加藤さんが明治45年。篠原さんが大正2年で学年は1年違うが、軍への入隊は篠原さんが2年早く、5人の中では最先任だ。
上坊は、早生まれで一番若いことと苗字から、坊やと呼ばれるようになった。
日本一、いや世界一のトップ・エースパイロットの篠原さんは、陸軍航空士官学校の士官候補生達からは羨望の眼差しで見られ、「先生」と言われ助言を求める者が尽きなかった。
航空士官学校では、余暇に野球が盛んにおこなわれた。中学校でやっていたやつも多く。中には甲子園に出場したやつも居たりする。
我々もチームを組み、自分は外野を守ることから、仲間内からいつの間にか外野と呼ばれるようになった。もっと、いい呼び名が良かったのだが……
陸軍航空士官学校の宿舎は、4人部屋で自分と樫出、上坊、加藤さんが同部屋になった。周りからはエースパイロット部屋だねと言われた。
篠原さんは、どうしたかと言うと、7月に内地に戻って栃木県の実家に戻った際に、地元の名士の娘さんと見合いし結婚していた。奥さんと一緒に士官用の官舎に住んで新婚生活を謳歌し、我々に聞かれても居ないのにのろけ話を毎日の様にしてくる。
それを聞く時の1歳年上の加藤さんの眼差しは、敵機を撃墜する時の様に冷たいものであった。
篠原さんが「戦いとは、常に二手三手先を読んで行うものだ。人生も同様、貴様たちも二手三手先を読んで見合いでもしたらどうだ?」と抜かした時には流石に「二手三手先を読む人が、後先考えずに敵の集団に突っ込んで、2回も撃墜されますかね?」と言ってやった。
とは、言っても生涯独身のままと言うのも寂しいので、実家に帰省した際に見合いしたり、上官の勧めの女性などと結婚し、年明けには皆宿舎から出て、営外から航空士官学校に通学する事になった。
そんな戦闘から離れ平和な学生生活を楽しんでいた中、我々は次期主力戦闘機の開発に意見を求められ、度々、立川の陸軍航空工廠に通っていた。
「いや、自分は爆撃機乗りなんだけど……」
「いいじゃないか、次期襲撃機の開発に関しての意見聴取は、終わったんだろ?」
そう、自分は夏に内地に期間後、航空士官学校に入校までの間、高空本部でノモンハンの戦訓と襲撃機についての意見聴取を行われていた。本来は上官の仕事だが、戦車・装甲車100両撃破のノモンハンの英雄の意見が聞きたいと言われ、航空本部に通うはめになった。
次期襲撃機と言うか爆撃機は、500kg以上の積載能力と爆弾搭載時でも500kmを越える速度、そして何よりちょっとやそっと撃たれた位では墜ちない防御力が、必要であると意見具申した。
事実、99式襲撃機は相手が7,7mmの機銃と言うこともあるが、ノモンハンでの撃墜は一機も無い。それに比して、防御力が皆無な97式戦闘機は数多くの指揮官ごと撃墜されている。
自分の要求を満たすには、単発機では不可能と言われた。エンジンが非力なためだ。
それなら、双発にするべきで、爆撃機に戦闘機の様な軽快性は必要ないことも告げた。
また、ちゃんとした装甲が有るのなら後部機銃は必要ないことも付け加えた。
「後部機銃なんて飾りです! 偉い人にはそれが分らんのです」とは、心の中で叫んだ……
立川の陸軍航空工廠において、篠原少尉を始め皆が次期主力戦闘機に対しての要望として、速度と防御力、そして12,7mm以上の武装を求めた。武装は、12,7mmを4門。将来的には、20mmに変更可能なこととした。
「あれ?オレの襲撃機への要望と同じだな」と乾准尉。
「欧米の開発状況から考えれば、戦闘機の速度は600kmに迫るだろう。こちらも、それ位でないと追いつけない。それにノモンハンでの戦いで防御力、防弾鋼板は必須であること。逆に、向こうの防弾鋼板を打ち抜くような機銃も欲しい」
戦闘機、爆撃機と訳隔てることなく、これからは速度と防御力は上がっていくだろうとの意見の一致を見た。
それと、風防の枠も極力減らすことを全員一致で要望した。
戦闘において何より重要なのは索敵、つまりは見張りが一番重要だと常々士官候補生達には言っていた。太陽の中にも、垂直尾翼の影、風防の枠に敵機が居ると考えろ。直線飛行はするな、常に小刻みに動き死角の無いようにしろと。
その様な意見を7月に内地に戻ってきたから、篠原さんは航空本部に伝えていた。
1941年2月、陸軍航空工廠 立川飛行場。
2月の寒風吹きすさぶ中、無料で配布される日の出食品の即席麺をすすっていた。
「いやあ、寒い日はこれに限りますねえ! 戦線でもこいつにはお世話になりましたよ」
日の出食品の開発したお湯を掛けるだけで食べれる即席麺は、調理時間など無い戦線で兵隊に大喜びされた。時間があれば飯盒で野菜や卵などと煮れば、より一層美味しい野戦料理となった。
「おーい! 食ってばかりじゃなくて、ちゃんと見てくれよ」
そう、今日は次期主力戦闘機の飛行試験があり、我々も模擬戦のために呼ばれていた。
陸軍は、従来通り格闘性能を重視した「軽単座戦闘機」、重武装かつ対戦闘機戦にも対大型機戦にも対応できる速度重視の「重単座戦闘機」、どちらを次期主力戦闘機にするか悩んでいた。
すなわち、中島飛行機の「軽戦」キ43と「重戦」キ44のどちらかにするかであった。
キ44に対して軽戦主導者からの不要論があったが、ノモンハン航空戦においてソ連赤色空軍戦闘機が一撃離脱戦法を駆使していた戦訓と、篠原達の意見要望によりキ44は開発促進され、この日の試験となった。
97式戦闘機に乗り慣れた軽戦主導者からは、当然キ43を推す声が強かった。
1月に陸軍航空士官学校教官として着任した黒江中尉などは、中国戦線での海軍の零式艦上戦闘機の活躍を見て来たので、零式艦上戦闘機と似たようなキ43こそ次期主力戦闘機にふさわしいと熱弁していた。
この日、キ43は97式戦闘機にもキ44にも勝てなかった。キ43に旋回性能で劣り最大速度も30km程度の向上で、これでは97式でいいのでは? との声も出たほどだ。
そして、キ43はキ44との模擬空中戦でも、ほとんど勝てなかった。
一撃離脱戦法に慣れた上坊が乗ったキ44に、黒江中尉のキ43は一度も後ろを取ることは出来なかった。
キ44を格闘戦に巻き込もうとする試みはほとんど失敗し、失敗すればキ43は必ず負けた。
「篠原さん、簡単に黒江中尉負けちゃいましたね。最高速度が100km以上と機体の性能の差が有りすぎますね」
「坊やだからさ……」
「えっ? どういうことですか?」
「乗ってたのが、上坊だからさ。 あいつは、オレが居なかったら間違いなく日本一のエースになっていただろう」
「じゃあ、篠原さんがキ43に乗ったらどうなります?」
「乗ることは無いから、回答は出来ないね。あんな、やわな飛行機には乗りたいと思わないね」
「やわって言っても、海軍の零式艦上戦闘機なんかも似たようなもんでしょ?」
「知ってるか? 零式艦上戦闘機の降下制限速度は630kmだ!」
「えっ! 99式襲撃機でも700km以上いけますよ」
「1グラムでも機体を軽くするために、部材に穴開けて肉抜きして重量軽減してるんだ。非力なエンジンで、速力、上昇力を優れたものにするため、そして長い航続力を得るためやわな機体になったんだ。それと防弾鋼板なんか無いから1発食らえば終わりだ!」
「あえて言おう、カスであると!」
「あー、言い切りましたね。まあ、海軍さん居ないからいいですし、嫁を貰った身としては自分も乗りたいと思いませんね」
キ44は、99式襲撃機のバスタブ型防弾鋼板ほどでは無いが、随所に防弾鋼板が装備されていた。99式襲撃機ほどにしなかったのは、襲撃機と違い地上からの銃撃を考えなくていいことと、戦闘機である以上は速度が求められるため重点個所の装甲のみとした。
箱型トラス構造の桁を使った一体成型主翼を使い、800km以上の降下速度に耐えれるとの事だった。
「あれの降下速度制限は、どのくらいなんでしょうね?」
何気なく言った自分の独り言に、篠原さんが
「900kmまでは行ったんだが、速度計が900kmまでだから、それ以上は解らないなあ……
「えっ! 乗ってたんですか? キ44に」
驚く、自分に対していたずらがバレた子供の様な笑顔を見せて、
「さあ、どうだかなあ……」とごまかす世界一のエースパイロットだった。
この後に、機銃の試験があり、使用しなくなった99式襲撃機に対しての射撃が行われた。
97式戦闘機とキ43を想定した7,7mm2丁は、50mの距離からの100発の射撃で穴を開けることが出来なかったのに対し、キ44に搭載予定のホ103は200mの距離から99式襲撃機のバスタブ型防弾鋼板を穴だらけにした。
しかし、はじき返した弾丸もあり、最初の1連射では撃墜は難しいと再評価を受けた。
来る将来に向けては、更に大口径の機関砲が求められることになる。
ブローニングのM2ならもう少し貫徹力があるのだが、いかんせん供給が出来なくなっていた。
元々、九州に覇を唱える別府造船グループ総帥、来島義男社長が400挺と弾丸100万発を輸入していて、その在庫処分に99式襲撃機の武装として強固に押し込んだ物であったという……
経緯はどうあれ、ノモンハンと中国戦線での活躍により、12,7mm機銃が強く求められホ103の開発を1年は早めたと言われている。
翌3月、キ44は制式化が決定し一式戦闘機と名付けられ、大量生産が開始された。
11月卒業予定を7月29日に繰り上げ卒業した少尉候補生・第21期生達も、一式戦闘機に搭乗し戦地に戻っていった。
続きは、明日から出張なので週末に書きたいと思います。
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