ノモンハンの戦い あの雲の上の敵を撃て
ノモンハンの戦いの最終です!
ソ連軍の SB2 は2万4000フィート(約7300メートル)以上の高度を飛んでくる。
この高度では、外気温は零下32℃、気圧は地上の39%程度になる。空気密度の小さい高高度では、プロペラ機は推進効率が落ちる。しかも、高高度では気温および気圧が低く、酸素も少ないので人間の生存に適さない。そのため、搭乗室に与圧および空調装置が必要である。
そして、日本陸軍の戦闘機にそんなものは付いていない。そんなものは、気合でなんとかしろ! と、言われて何とかなるものでもなく、SB2の張梁を許すことになっていた。
8月21、22日と続いたタムスク空襲により損失及び損傷した機体も多く、我が軍は積極的な作戦を控えていた。
ソ連軍も、タムスク空襲の損害からはかなりもので、今や少数のSB2の嫌がらせ程度の空爆のみとなっていた。
何故か、自分は飛行第11連隊の篠原准尉共々、傷だらけの愛機99式襲撃機の前で正座をしていた。いや! させられていた。どうしてこうなった?
「おりゃあねえ、何も篠原さんに文句が言いてえ訳じゃないんだ」
と、文句をたれてる黒メガネのおっさんは、榊整備班長だ。鬼の榊と呼ばれ恐れられている。
そもそも、普段から重い機械を扱っている整備班は力自慢が多く、同じく言うこと聞かない鉄の塊を扱っている戦車兵共々、憲兵たちからでさえ「戦車兵と整備兵には手を出すな!」と言われている。特に、江戸っ子の榊班長は、若い時にはヤ〇ザだったと言う噂が有るほどだ。*1
その鬼の榊に何故に二人は正座を強いられているかと言うと……
「篠原さん始め、第11連隊の兵隊さん達ゃあ~、そりゃあー良くやってらっしゃる。本当に頭が下がりやすぜ」
「ただ、もう予備の機体もねえ。補充も追いつかねえ。内地の生産が、戦地の消耗に追いつかねえ」
「そこの野口さんにも、くれぐれも損失の無いようにとお願えしといんただがねえ……」
「いや、それは今回の作戦を考えた辻参謀が……」
と、何故か直立不動で立たせられている野口戦隊長が、同じくこれまた何故か直立不動で立たせられているうえに頭に包帯した辻参謀を見る。
「作戦に関しては、整備兵如きに言われる筋合いでは無い!」と、作戦の神様。
「ガタガタぬかしやがると、馬糞の山にたたっこむぞ!」*1
「生半可な作戦で機材と人を何人損失すりゃあ気が済むんだ!この唐変木!」
「終いには、てめえも負傷してやがると来たもんだ! 97式司偵に乗るのはいい。後部機銃外して敵機に対応できなくて負傷するとは、どこの馬鹿がやることだ!」
辻参謀は、敵機の攻撃によりキャノピーが砕け、頭部にガラス片により外傷を負っていた。それよりも、敵機からの攻撃を避けるための急激な操縦により、風防内にて頭部を打撃、一時は意識朦朧となっていた。ノモンハン飛行場に帰り着き、助け出された際には「時が見える……」と訳の分からぬ事をうめいていたという。
「乾さんも乾さんだ。うちのシゲが散々ぱら、後部搭乗員載せずの単独飛行を注意したのに……」
「篠原さんを救出したのは、てえしたもんだが…… そこの馬鹿と同じく後部座席外して、敵機に追っかけ回されて機体損傷して帰って来るたあ、どういう了見だ!」
作戦の神様をバカ呼ばわりする鬼の榊。
憲兵たちからでさえ「戦車兵と整備兵には手を出すな!」と言われた整備兵の親分の迫力には誰も逆らえない。
将軍たちにも、直言する傍若無人の辻参謀でさえ逆らえないオーラを持っていた。
後に、辻参謀の顛末を聞いた第5軍の瀬島参謀は「惜しい。死なぬまでも、狂ってでもくれれば日本のためだった。いや、既に狂っているのか……」と、いったとかいわなかったとか……
「陣内軍曹、次の補充が来るのはいつでえ?」
「そうですね。9月にならないと機体の補充は難しいかと・・・」
と答えるのは、主計の陣内軍曹。主計には、もちろん士官も居るが実質的なノモンハン主計の親分はこの陣内軍曹であった。
整備班共々、我々搭乗員の逆らえぬ相手である。飯と整備を抑えられては、戦は出来ぬ!
「97式戦闘機は、最優先でお願いしてるんですが、生産が追いついてません。次回の補充では、95式戦闘機が補充されるとのことです」
「だとよ。悪いけど、今度ばかりは篠原さんに乗せる機体はねえ!」
「いや、しかし榊班長、エースの篠原が乗機が無いのでは、戦況を維持できない!」
「野口さん、無い袖は振れねえんですよ。それでなくても、あのえすべえの野郎が毎日嫌がらせにちょこまか爆弾落として行くもんだから、整備も捗らねえ」
「そうですね。あのSBのおかげで補給線も度々やられてます。我々、主計としてもあいつは何とかして欲しいですね」
エスベー、ツポレフSB 2 爆撃機は、7月以降に戦場に投入された高速爆撃機であった。
当初、日本軍の97式戦闘機隊は、SBの脆弱な防御(無線手が背部と下部の両機銃を操作していた)を突く攻撃で撃墜しまくっていた。
日本軍からの損失を抑えるためにソ連軍は戦術を変更し、SBは日本軍が迎撃困難な20,000ft(6,100m)以上の高空からの爆撃をするようになった。
高空からの爆撃であり正確性は欠き、被害も少なく嫌がらせ程度のものであったが、嫌がらせ程度でも諸々の活動の妨げになることは間違いなく。
後の太平洋戦争では、日本陸軍が連合軍に対して効果的な嫌がらせをする事になる。
「よし! 俺がSBを墜としてやる!」
「いや、だからあ、あんたに乗せる機材は無いといってるだろう」
「97式じゃない。 99式襲撃機でやる! なあ、乾軍曹!」
「いや、99式襲撃機は爆撃機ですよ?」
「爆弾と燃料も半分にすれば、7,000mまで上がれないか?」
「一応、上昇限度は8,000mとはなってますが…… つうか、何で自分も何ですか?」
「俺とお前の仲じゃないか! 7,000m以上の高空だと酸素吸ってても意識低下は免れない。二人で上がれば、補えるだろう?」
「面白え! シゲえ! 大至急、乾さんの99式襲撃機を修理しちまえ!」
「陣内さん、酸素瓶はどんだけ残ってる?」
「ええ、そうですね。辻参謀が、97式司令部偵察機を破損させましたので、それを使えばいけますね」
「ようし、そう言う訳だ。 ロ助の爆撃機どもの鼻をあかしてやれ!」
そうして8月27日、自分は愛機と共にホロンバイルの空に居た。
愛機の後部搭乗員席でだ……
どうしてこうなった!
愛機は、今回も後部機銃を外している。今回の作戦で後部機銃を使うことは無いので、重量軽減と幾らかでも高空の寒さを和らげるため、後部キャノピーは閉じられ、あまつさえハンダ付けされて隙間を埋められていた。
「篠原准尉、司令から SB 3機が北西より進行中と連絡あり!」
ノモンハン飛行場から周囲に事前に軍偵を哨戒に出し、発見次第に打電し、それを地上の司令が無電でこちらに連絡するというのが今回の作戦であった。
ノモンハン飛行場から100km先で敵を見つけて、その間に8,000mまで上昇し待ち構える作戦である。
連絡までは、5,000m付近で周回し、酸素の消費を極力抑えるのがみそである。
8,000mの高空で酸素便からの酸素を吸いながら待つこと暫く、遂にSBを目視確認した。
「ようし、やつら下は警戒しているが、こっちには気付いていない。太陽を背にして一気に行くぞ!」
そうして、99式襲撃機は急降下を開始する。もちろん、垂直降下だ。
まだ、点に見えるくらいの距離から発砲する。そして、それはSBの主翼をへし折った!
墜落していく敵機には、目もくれず隣の敵機に発砲。距離500mからの攻撃は操縦室を穴だらけする。その機体も、機首を下に降下を始める。撃墜確実である。
そして、最後の敵機へは距離200mからの発砲となり、敵機の防御機銃も打ち返してくる。
「ふっ、当たらなければ、どうということは無い!」
「いや、准尉! 当たってますよ! 装甲で弾いてますが!」
最後の敵機を撃墜した時は、爆弾倉をぶち抜いたらしく目の前で盛大に爆発し、危うく巻き込まれるところだった……
炎の中を潜り抜けた時の焦げた匂いが鼻に残っている。
この後、めでたくSB 3機を撃墜した我々を待っていたものは、鬼の榊からのカミナリだった。
「てめえら、また機体を穴だらけにしやがって! しかも、今回は黒焦げにもなってるじゃねえか!」
乾軍曹は、辻参謀といい、篠原准尉といい、振り回されてばかりの人生に
「どうして、どうしてこうなったあ!」と叫ぶしか無かった……
この後、ノモンハンの戦いは9月15日の休戦協定を持って終了した。
休戦協定までの約2週間、篠原准尉は我が中隊の空きの99式襲撃機を乗機として、撃墜数を81機までに伸ばし遂に本家リヒトホーフェンを抜き、この時点で世界一のエースパイロットとなった。
そして、篠原准尉は少尉に昇進し、篠原少尉となって中国戦線に異動していった。
そして、戦車・装甲車100両を撃破し、敵機5機撃墜のエースパイロットとなった乾軍曹は2階級特進し、乾准尉となった。
99式襲撃機をいたく気に入った篠原少尉は、ノモンハンから中国戦線に移った際も99式襲撃機を愛機として使用した。後部搭乗員席を外し燃料タンクを増設し、重慶爆撃の護衛にも加わって活躍したという。
どこから見ても固定脚の爆撃機が、護衛とは思わず重爆を狙っている内に99式襲撃機の12,7mm機銃によって撃墜されていった。
いわゆる篠原専用機と言われた99式襲撃機改は、その装甲板で幾度も篠原准尉を助け、12,7mmの火力で敵機を一撃で撃ち落とすことから、97式戦闘機で何度も死ぬ思いをし、7,7mmでは防御の固いソ連製や米国製の戦闘機に手を焼いたベテラン搭乗員が我も我もと求め、1940年の中国戦線では97式戦闘機よりも多くの撃墜数を上げていた。
99式襲撃機改の活躍は、海軍が零式艦上戦闘機を前線に配備する1940年夏まで続いた。
夏以降は、重慶爆撃の護衛は零式艦上戦闘機が受け持つ事になる。
陸軍も、97式戦闘機に代わる主力戦闘機を開発中であり、制式化間近であった。
次期主力戦闘機は、ノモンハンや中国戦線での戦訓から、速度と火力そして何より防御力が求められた。
ノモンハンで指揮官を大量に失った陸軍は、1940年夏以降に戦線から下士官パイロット達を引き上げ第21期少尉候補生として、12月に所沢の陸軍航空士官学校に入校させた。
乾准尉も、上官の推薦により陸軍航空士官学校に入校することとなった。
入校した乾准尉は、同じ第21期少尉候補生として「あの人」が居る事をこの時点では、まだ知らなかった……
*1 怖いもの知らずの新兵が「榊班長は、昔は博徒だったんですか?」と聞いた際に、「あんな、素人を食い物にするような連中と一緒にすんじゃねえ! おりゃあ、神農の民だからよ」と答え、本物であったことが発覚。
*2 榊班長の名文句。
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