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目を覚ましたとき、この部屋の異常さに視界が揺らぎ、再び失神しかけた。確かにそれは人だ。人だが人ではない。目の前に見えるこれをどう表現すれば伝わるだろうか。二年前、出棺のときに見た祖母の顔が思い出される。それとはまた違う。これは、これは……。
霞は後ろに手を付き上体を起こす。意図的に瞬きを繰り返す。しかし、見える光景は一切変わりなかった。部屋の壁に沿って並べられているのは人体模型ではない。いや、もしかしたら模型なのかもしれないが、釈然としない。目の開いた裸の人間が、ガラスのショーケースに個々それぞれ入っている。まるで博物館の様だった。小学校の理科実験室を思い出す。
霞は這ってショーケースの前へ移動する。ガラスに手を付き、中を確認する。血色が悪く色白だが、それはどう見ても人間だった。どの角度から見ても人間にしか見えなかった。精巧に作られた模型、とはなぜだか思えなかった。自分の皮膚と見比べた。人間にしか見えないというのは、皮膚が精巧すぎるからかもしれない。
ふいに焦点がショーケース手前のガラスに移る。そこには霞の背後、湯呑みを二つお盆に乗せて立っている男の姿が映っていた。
驚いた霞は振り返り様、ショーケースに背中をぶつける。内部の模型が揺れている振動が、床からも背中からも伝わった。明らかに表情筋が強張っているのが自分でもわかった。恐怖、とはこのことを言うのだろう。数年前、強姦の被害に遭ったときの情景が蘇る――。
人間、恐怖を感じ取ると身体が言うことを利かなくなる。声が発せなくなる。ジェットコースターで叫んだ後のような喉の痛みだけがじんじんと残る。たとえ向かってくる対象が優しい人だったとしても、簡単には拭えるものではなかった。
男は何も言わなかった。床にそっと湯吞みを置き、キッチンへと戻った。キッチンにあるらしい椅子に腰かけ、湯吞みの淵に口を付けた。ごくり、という音が静かな部屋に響いた。
「家に帰りな」独り言ともとれる言葉によって、霞の呪縛は解かれる。恐怖、というどうすることもできない感情が、砂がサーっと一面に広がるみたいに引いていき、強張っていた肩からゆっくりと力が抜けていく。
霞は腰を浮かそうとした。が、こちらは力が抜けたままの様だった。無理にでも立ち上がろうと試みるが、上手くいかなかった。両手を床に付けて踏ん張るのだが上手くいかない。試行錯誤していると、ふいに右手が持っていかれた。気づけば立っていた。
「人の身体って正直でね、苦しい時に手を差し伸べてやれば簡単に立ち上がれるんだ。恐怖を抱いている時は手を差し伸べてやっても拒否反応が出るだけだけど、なぜか苦しい時は従順になるんだ。本当の恐怖は、救いからは程遠いところにあるのかもね」
言い終えた男は、どうぞ、とでも言うように玄関へと手を差し伸べた。霞は、恐る恐る右足を前に出すと、以前と同じように踏み出せていた。玄関へと向かう。自分が土足で上がっていたことに気づいた。「あの」振り返っていた。
「ごめんなさい、土足で上がってしまって」
「全然。僕も土足で生活してるし」言われて彼の足元を見るが、靴を履いているようには見えなかった。
「あの、もう一つ……」霞は顔を上げた。男は首を傾げている。「本名を聞いても」
「望月蓼科」
彼がそう言った瞬間、なんて不釣り合いな名前だろうと不覚にも思ってしまっていた。本来、それを聞いたら一刻も早くその場から逃げるべきなのに。実際に彼の恐ろしさを身をもって目の当たりにしたはずなのに。数分前の出来事を思い出す――。
どうしてか、霞には彼があの望月蓼科には思えなかった。