3
その後、駅に着いた望月は電車に乗り込んだ。一時間かけて自宅アパートの部屋にたどり着くことになる。
二階建ての賃貸アパートの二階に、望月の部屋はあった。築三十年。1LDK。玄関、廊下と続き、廊下の扉を開けると、八畳のダイニングキッチン。その奥に同じ広さの洋室、といった間取りだった。
酸化して赤みを帯びた手すり階段を上り、部屋の扉の前に立った。ポケットから鍵を取り出し、ひねる。カチャ、という音とともに取っ手を引き、三和土に上がる瞬間、肩を掴まれた。
既視感を覚える。物好きだなあ、と思いながら振り返ると、やはりそこには先程の男性がいて、あろうことかにやにやしながら立っていた。きったねー顔だなー、洗顔させてハトムギ化粧水、ボトルごとぶっかけてやりたい。しょうがねえから皮膚科に入院したらアルビオンをお見舞いしてやる。
後ろには女性も付いて来ていた。その女性の顔を確認したせいで反応が遅れる。振り返った途端、男性は望月の左頬を殴りつけたのだった。望月は後方に尻もちをつく。うお、結構力あるなあ、と感心している場合ではなかった。見上げると目の前の男性はもう一度腕を振りかぶっていた。ぎりぎりまで引き付け、望月は身体を逸らした。勢いの止まらない男性の拳は三和土を殴った。間一髪。もう右手は痛くて使えないだろう、と溜息をつこうとした矢先、再び男性が振りかぶった。咄嗟に望月は避ける。全然右手遣えてんじゃねーか、と男性の拳に注視すると、鉄製のナックルダスターが嵌められている。世に言うメリケンサックというやつだ。現実に付けてるの初めて見たー、と冷静になっている場合ではない。
望月は尻を突いたままゆっくりと後退する。男性は狙いを定めるようにゆっくりと近づいてきた。前傾姿勢で迫られるのは意外と怖いものだった。男性が望月の目をじっと睨み続けているのも理由の一つだった。男性の後ろで女性がドアを閉めたようだ。内鍵をかけた音がする。望月の背中に扉が当たる。ゆっくりと取っ手に手をかけ、背中で押した。
「おい、包丁」男性が呟く。
すると、あろうことか女性が男性の横を抜けて近づいてきた。望月の横を抜け、ダイニングへと入った。次の瞬間、「きゃ」という声、床に腰を付く音が続けざまにする。女性の声に反応したのか、男性が望月から視線を外す。その瞬間にはすでに、望月は両足を振り上げていた。
逆上がりをする要領で両足を振り上げ、後方に飛ぶ。腰の後ろに付いていた両腕は、蛙の脚のように曲がって伸びた。上下逆さまの女性が望月の視界に映る。両足が彼女の頭を通り越したとき、彼女の肩に両足を着地させるようにして首を挟んだ。女性の体重も乗った遠心力を使い、もう一度足を振り上げ、彼女の身体ごと宙を回り、バク中を完成させる。彼女は背中から床に落ち、仰向けに伸びている彼女の顔を挟むようにして望月は直立した。脊椎は行ってねーだろーなー、多分。
男性は何が起こったのか理解していないようだった。望月が女性を足で挟んで回転する、という妙技に感動して言葉を失っている訳ではなさそうだった。恐らく、望月の部屋に置かれている飾り物が目に入り、絶句しているのだろう。
「美しすぎて?」
男性は顔を振った。そして、腰を抜かした。
「右から佐々木加耶、井上栞奈、田村夏、一条渉、緒方久智に名取丈一郎。奥の部屋には浅間浩三もいる。あんたも知ってるだろう? 十年前くらいに一世を風靡したアーティスト。音楽に始まり、最後は油画まで書いてたって噂だ。そんな美しさの塊が火に浄化されたり土に還っていいはずがないじゃないか」
望月は一歩足を踏み出す。
別に脅かそうとしたつもりはなかったが、廊下を見ると水溜りができ始めていた。雨漏りでもしているのだろう。
望月はもう一歩踏み出した。
別に男性を痛めつけようとは思っていない。寧ろ、「だいじょうぶ?」と声を掛けようと思った望月の優しさに反して、男性は腰を浮かしてどたばたと歩き、玄関の扉に張り付いた。鍵を開けるのに手間取っていた。焦っているのだろう、痙攣したようにおぼつかない指先でどうにか鍵をひねり、外へと飛び出していった。「五十万はいいのー? 一応あげようと思ったんだけどー!」叫んでみるが、静寂が返ってきた。