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無明の昇華  作者: 面映唯
第三章
37/48

11

 霞は線路に飛び降りようとしていた日を思い出した。ホームで望月に言われた言葉と重なる。


 霞は自分の右手を眺める。人差し指にリングが嵌められていた。キャンバスを床に置き、リングを外した。立ち上がる。慶の前に立った。彼の右手を取る――。



「そのリング可愛いですね」

「えっ。安もんだよ、こんなの」

「うそー。じゃあ私もらっていいですか?」


 その回答は想像していなかった、という顔をあからさまにした。口をもごもごさせる慶。少しして首の後ろに手を回した。チェーンを外し、リングを霞に手渡す。


「え、ほんとにいいんですか?」

(ばち)かな」と呟いた後、「大事にしてくださいよー。それ高級なんですから」と慶は口を尖らせた。



 霞は慶の右手の指にリングを嵌めようとした。人差し指、中指と嵌まらず、小指に嵌める。


「世の中から殺人関連の報道は消え、書籍にも残っていない。それでも僕のことを探し当ててやってくる人はいた。殺してやろうと思ってくる人もいたし、自分を剥製にしてくれという人もいたし、単純に会って話がしたいという人もいた。彼らは民間人だった。民間人でも探そうと思えば探せちゃうんだよね。君は偶然かもしれないけど、それすらも必然のように思える。不思議だよ。彼らは人殺しの僕のことを求めて来てくれたんだ。自分が殺されるかもしれないとわかっていながら僕の元に来た。剥製もそう。隣の部屋も僕が借りてるんだけど、そっちは完全な剥製部屋。剥製と手術台くらいしかない。面倒でいつからか鍵を開けておくようになったんだけど、どこから聞きつけたのか稀に客人が来るんだ。彼らは写真も撮らずに見物したらそっと出ていく。それを監視カメラで見たとき、なんだ、ここにもいるじゃないかって思うんだ。ガキみたいに陳腐だけど、うれしいんだ。


 僕さ、夢があるんだ。いつかとっても優しい子が現れて、その子が剥製の作り方を教えて欲しいって言うんだ。でも、そんなの教えたくない。命を粗末にしているかどうかは別として、命を奪う行為をその子にさせたくないからね。だから、そのときが最初で最後なんだ」


「何が?」


 望月は何も言わなかった。


 部屋を出ていこうとする望月の背中を霞は追った。ルーズリーフを踏み、滑りながら廊下に出た。望月が玄関の戸を開ける。霞は望月の肩を掴んだ。


 望月が振り向いた。


 振り向き方に違和感があった。霞が肩を掴んだから振り返ったにしては不自然だった。何かに気づき、或いは何かを見て振り返ったような動きに思えた。


 次の瞬間、望月が右手で勢いよく霞の身体を押した。押された霞は後方に飛び、尻もちをつく。押された胸と強打した臀部に痛みが走った。顔を顰めながら痛みに耐える。


 奇声が聞こえる。


 視界が細い。細い目つきで見上げる。


 何が起こったか霞はわからなかった。霞の細い視界に映っていたのは、半開きのドアの隙間を埋めるように立つ望月だった。表情を無くしている。その後ろに誰かがいるのだろうが、望月の身体で何も見えなかった。


 奇声が続けざまに鳴る。奇声とともに鳴るこの鈍い音は何だ。望月の顔を見る。表情に変わりはなかった。猫目で、前髪が目深で、若干微笑んでいそうな表情。


「ひゃはっはっはっ、はっ、やって、やったぞっ、はっ、俺がっ、俺がっ」


 廊下を走っていく足音。

 階段を下りていく音。

 アパートのドアが閉まる音。

 鼓動を押さえるかのような息遣い。

 近づいてくる望月。

 迫力に押され、いつかの望月のように後ずさる霞。

 洗面台から聞こえる流水音。

 てくてくと部屋へと歩く望月。

 指先に何かが触れた。水のような感触。

 水道は流れ続けている。

 水滴が床に落ちた。

 電気の点いていない部屋で、窓のない廊下で、その水滴は黒かった。

 部屋でドン、ゴン、と大きな物音がした。霞はすぐに振り返り、部屋に駆け入った。

 しばらくその場に立っていた。

 水道が流れている。

 目に焼き付いた。

 頭を抱え、顔を掌で擦り、唇を巻き込み、顔を振り、上を見上げ、ぱちぱちと目を(まば)たかせた。前を向き、髪をかき上げ、両膝を床に付けた。両手を付き、額を床に付ける。彼と同じ態勢になって言った。


「剥製の作り方を、教えてください……」


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