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何をどうすれば満たされるのか、まるで想像がつかなかった。
三十歳の誕生日になる八月三十一日、ニ十三時五十九分五十九秒に、しまなみ海峡から瀬戸内海の渦潮に飲まれることを決意した十九歳の夏。あれから七年近くが過ぎた。振り返ってみれば早いものだが、一日一日を過ごすには長すぎた。余命をあと十年と決めたところで決意が揺らぐことは何度もあった。毎日明日がやってくる。学校に通う。職場に通う。何か成し遂げたいことがあるわけでもない。三十歳で死ぬ人間と十年だけ結婚してくれるもの好きはいないだろう。相手が不憫に思えて恋愛には手を伸ばせなかった。そもそも恋愛には向いていないのもあった。他人に干渉して相手の人生が悪い方角へ向かうことに怯えていた。心で震えるその文の上に、体裁染みた文を張り付けた。
ただただ過ぎていく日々と景色の移り変わりだけを目に焼き付け、自分と比較したところ、自分は何一つ代わり映えしない。
変わっていたのは部屋の景観。B5のルーズリーフに描かれたクロッキー。
形の捉え方、影、物の距離感、奥行き。代わり映えしていたのは、二千枚近くに上るクロッキーの方だった。
慶は部屋の隅にあるイーゼルの前に立った。キャンバスの上には油絵が描いてあった。
この油絵も描き始めて四年が経った。完成間際だった。絵のことなど慶にはさっぱりだった。絵を習うにしても金がない。美大に行って生徒に金を払って助言してもらいながら描いた絵だった。すでに完成としても遜色のない絵だったが、ちょっとずつちょっとずつ筆を重ね、未完成にしていた。
床に転がっている筆を手で転がしながら、キャンバスに目をやった。そこに描かれている絵の中に、昔の嫌いな自分の姿は見当たらない。一筆、一筆、どこを見ても片鱗すら見当たらなかった。
こんな単純なことで自分を変えられてしまうとは、昔の慶では思いつきもしなかっただろう。
正論は文字通り正しいが、正論を武器にする人間が正しいかどうかはわからないのと同じように、死にたいのに生きろと言われたところで、慶は何一つ救われなかった。救ってくれるのは刹那の没入――映画館でエンドロールが流れるまで――美術館で出口の隣の絵画を見るまで――ごめん、と別れを告げる恋人との終わりまで――そのときだけが醜く八方ふさがりの自分を忘れさせてくれる。
恋愛がいかに依存からきているか分かった瞬間だった。依存は心地がいい。余計なことを忘れ、我に返ることすら忘れ、ただ相手のことだけを想像し、日常の至る所を埋め尽くす。だが、反映された日常は、エンドロールを迎えればあっけない。何一つとして大事なものがなくなる。溢れていた日常から相手の顔すら消えてしまう。
嘘でも誰かを愛すことが、これほどまでに人生に影響を与えるとは。「好きです」と相手に伝えなくても、「付き合ってください」「結婚してください」と結ばれなくても、ただ好きでいるだけでこんなにも見える世界が美しくなるなんて――。
筆を床に置きなおした。
マットレスの上にシーツを掛けただけの寝床に入り、布団を被った。
今日はいい景色を見たが故に、ちょっと疲れた。明日のためにも早めに寝てしまおうと瞼を閉じた。




