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無明の昇華  作者: 面映唯
第二章
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 自宅に戻ると、玄関にクロッキー帳と画用紙の入った手提げを置いた。手を洗い、部屋着に着替えた。ワンルームの部屋に置かれたテーブルの上には、ルーズリーフと鉛筆が雑に置かれていた。袋から一枚取り出し、慶は筆を滑らせた。


 ものの数分で一枚出来上がり、袋からもう一枚取り出す。その一枚もすぐに出来上がり、もう一枚、もう一枚、と計六枚のルーズリーフに鉛筆だけで書いた絵が完成していた。


 時間は一時間が過ぎようとしていた。慶の右手指には脂汗がじっとりと滲んでいる。床に置かれていた箱ティッシュから一枚抜き、拭った。四枚のルーズリーフを机の上に並べた。白黒だと味気がなかった。短時間で書くクロッキーだというのもある。そういう意味で言えば、どことなく裁判の様子を描く法廷画の雰囲気もあった。


 ビルの屋上から狙う狙撃手の絵。


 狙撃手に撃たれ、パタパタと倒れた通行人を眺めている慶を含めた絵。


 人混みの中でにんまりと笑う暗殺者の横で意識を失った瞬間の女性の絵。


 S字を繰り返すように歩いた暗殺者の軌跡に沿って両側の歩行者が倒れていく図。


 信号が青になっても渡ろうとせず、横断歩道の両側で互いに直立し、見つめ合う絵。


 最後の一枚は、鹿や鷹などの多くの動物の剥製が入っている大きなショーケース、子どもが動物園の柵に指を掛けパンダを眺めるように、ショーケースのガラスに指先を付け、虚ろな目で見上げる男の絵。


「一度あったことは忘れないものだ」とアニメの登場人物が言っていたが、その登場人物が危惧した通り、忘れはしないが思い出せないのはよくあることだという。思い出せないまま死ぬのはちょっと嫌だな、そう思った慶は、その日から絵を描き始めた。自分の目に見えた景色、妄想の範疇、幻覚幻想の類も頭で見たときは絵に描き起こした。


 テーブルの上に並べられたルーズリーフを眺めながら、馬鹿だなあと慶は思った。こんなことをしたところで誰もこの絵を見ないだろうに。自分ですら見返さないのだから、結局書いても書かなくても思い出すときは思い出すし、忘れているときは忘れているのだから一緒である。


 慶が死んだときに遺品整理に来た両親が見るかもしれない。息子の見ていた景色、見えていた光景を知って、両親は何を思うだろうか。感動? 悲観? どちらにせよ泣くのだろうか。


 誰にも見られない芸術作品に価値はない。


 価値があるとするのなら、たった一人、こうやって今眺めている自分だけが、自分が見出さなければ、この乱雑なクロッキーは焼却炉で焼いてもらえず、ゴミ倉庫の横で忘れ去られて地面に張り付いた紙っぺらと一緒だ。ゴミ倉庫に持ってきてもらえたのならまだいい。幾人かの人々の目に触れていたかもしれない。でも、こいつは、こいつは書き手の目にしか触れられていない。作者が捨てれば、忘れれば、誰にも気付かれずに、生まれてきたのに役割を待たないまま死んでいくだけだ。


 教室の隅で膝を抱える同級生。


 彼は確かに教室にいたはずなのに、誰も彼のことを見なかった。


 もしかすれば、卒業式には出席せず、卒業証書だけ担任から受け取ったのかもしれない。普通に考えれば彼も一緒に卒業したはずだが、彼が卒業したという事実に当時、慶を含めたクラスメイトのほとんどが気が付けなかった。数年後、区の図書館の屋上で干からびた遺体が発見されたというニュースを見るまでは。


 人間すら大事にできないのなら。いや、傲慢な人間だから、人間を大事にできないのだろう。人形も、このクロッキーも、言語を喋らないのだから。価値ある人間様だから命を大事にしなければならない。物は捨てられて当然。思想は、慶の見た景色は、紙の上に描かれて初めて命を灯した。


 俺だけなのだ。


 自分だけがそいつの運命を変えられる。そう思い至って泣いたのは、小学生の頃から十年近くが経ち、大人になってからだった。教室で陽を浴びなかった同級生。図書館の屋上で干からびるほど日を浴びたあいつ。性悪説とやらの運命に胸を握りしめて泣いた。ベッドの上で嗚咽を漏らした。次の日には何事もなかったかのように過ごした。


 慶が泣いたのはその日が最後だった。


 外側だけ見れば淡々と過ごしていった慶だったが、内面には一つの目標ができていた。


 元々慶は絵を描くのが得意だったわけではなかったが、その日から下手でも何でも絵を描こうと決めた。バイト先の先輩がイラスト系の専門学校を出ていたこともあって、普段から「元々絵が下手だろうと、書き続けていれば少なからず上手くなる。俺もそうだった。別に絵に限ったことじゃない」と聞いていた。別に上手くなりたいとは思っていなかった。下手なままでもよかった。上手くなるに越したことはない。自分の見ていた景色を現物に描き起こしたいという欲求だけだった。


 たとえそれが大衆の目に触れることのない芸術でもよかった。


 この絵の価値を決められるのは自分だけだった。自分で書いて、自分だけが見る絵。


 自分がこの先十年間生きるための絵だった。


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