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気づけば、カメラで夜景を撮る男性もベンチに座る老夫婦もいなくなっていた。
いつの間にか手元にあった履歴書がなくなっていることに気が付いた。落としたのかと見回すが、ない。まさか線路に……そう思って立ち上がって振り返ろうとしたときに、後ろに人が立っていることに気づき、思わず慄いた。彼は確か……さっき手帳か何かにペンを走らせていた青年だ。彼の手元には私の履歴書らしきものがあり、彼はそれを広げて読んでいた。
「あの……」
「へえ、すごいですね。アイドルだったんだ。それも五年も。今後はタレント業か……それとも起業でもするんですか? ほら、自分のブランド作るとか。五年も続けられていればファンはそれなりにいるんでしょうし」
青年はそう言うと、ベンチの後ろから移動し、夜景を背に手すりに寄りかかった。彼は私の顔を見ていた。私が何も答えないのを察してか、「あ、そうか、そうですよね。起業するなら態々履歴書なんか書かないか。でもまたどうして? 普通の企業に勤めたい理由でも?」
仮に理由があっても、今会ったばかりのそれも自己紹介も済んでいない人に答えようとは思えなかった。
「まあそうだよねえ。言えないから辞めたんだろうし」そう言うと、青年は立ち尽くしていた私の元まで近づき、手を取って履歴書を握らせた。
「次はどうやって人を感動させるんですか?」青年が私の目を見つめた。
数秒経って、彼は振り返った。夜景に向かって歩き、手すりに肘をついて棚田の夜景を眺め始めた。
「たかが五年……いや、長かった五年か。俺はアイドルに詳しくないからあなたが売れっ子でファンに惜しまれながら辞めたのか、それとも限界を感じて辞めたのかわからないけど、その履歴書に書いてあった事務所ぐらいは知ってるよ。有名どころだ。五年アイドルをやっただけでも、あなたはもう、一人の表現者のはずだ。次はどうやって人を感動させる?」
青年は夜景を眺めながら私に尋ねているようだった。彼の背中が私に問いかけていた。
「私は……人を感動させたいってよりは、自分が感動したいっていうか……」
「同じだ」
思わず、えっと思う。俯きがちだった顔を上げると、青年が振り返った。
「自分が感動したいから踊ってたんでしょ? 楽曲の世界観を代弁するアーティストに感動するから自分も歌ったんでしょ? 俺も同じ。俺が芸術的なものを見たいから芸術を作るんだ。じゃあ、なんだ、あなた結構クリエイター気質なのに、何でまた普通の企業に就職しようと? あ、それともそういう系の会社?」
「いえ……」
私が俯いたのに気を遣ったのだろう。「あんまり聞くもんでもないか」と、青年はまた手すりに肘をついた。
「綺麗だよな。なんで綺麗だと思うんだろうな」
「綺麗だって教わったからですよ」私は手すりまで歩き、青年の隣に立った。
「誰に?」
「……神様」
「じゃあ神様は他に何を綺麗だと思うんだろうな」
「お花畑とか、花火とか?」
「花ばっかりだな」
「ええ、花のこと汚いっていう人見たことないので」
「どうしてこんなに人間ってめんどくせえんだろうな」
「初対面なのに質問が多いですね」
「あなたはなんか……俺と同じこと考えているような気がするんですよ」
「同じこと、とは?」
そう訊いて、ふと横を見たとき、なんて綺麗な横顔だろうと思っている自分がいた。決して整っているとは呼べない顔。少し吹いた風が前髪を靡かせ、彼の額に街灯の明かりを注いだ。その光と影のグラデーション。目じりに皴が寄った。それを見て彼が微笑んでいることに気づいた。
「無粋だね。墓場まで持っていこうよ」
そう言い残して青年は跨線橋を渡り、線路の向こうにある駅舎を抜けていった。
彼の姿が見えなくなった。私は浅く息を付き、ベンチに腰を下ろした。
期待すると、期待した分だけ未来は遠く離れていく。
救われた、と思った人の隣に誰かがいた現実を知った途端、救いは落胆と見紛いに変わる。救われた、という事実は決して変わらないというのに。
私は無造作に首を振っていた。髪をかき上げ、左手で額を覆った。
ふと、思った。改めて思った。
信頼できるものなどこの世に存在しない。
信じる、信じようとするその心が美しい。そこに嘘はない。
だから、己も然り。
現実は、薄く、平たく。そして、虚像。嘘が前提の下で生み出されたそれは、信頼するに値する。それを享受している間だけは己を忘れ、その世界観に没頭順応する。
世界は思ったよりも優しいようだ。
息を止めれば苦しく、堪らなくなる。あらゆる生物よりも。




