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無明の昇華  作者: 面映唯
第二章
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〈五年前〉



「君に何の得がある。そいつは君に何を与えてくれた? 深く愛情を注いでくれたか? 一緒に食卓を囲んでくれた? 家事をしてくれた。寝床を与えてくれた。居場所を与えてくれた。高校へ行かせてくれた。飯を食わせてくれた。学費を出してくれた。だから何だ。そんなもの君とは何の関係もないだろう。思い出してみろ。お前が今手を繋いでいるそいつは母親でも何でもない。まったくの赤の他人だ。君が頑張ってまで繋ぎ止めている理由はあるのか? 自分を犠牲にしてまで助けようと思える人間だったか? 確かに君から見れば曲がりなりにも母親という肩書を持った人物だろう。君が見ていた、という日常の部分だけで言えばな。薄汚い人間だよ。肩書だけの息子のためなのか己の淫欲を満たしたかったのか知らないが、君の前では優しい母親を演じる裏で、君が高校へ登校した後、その醜い阿婆擦れは何をしていたと思う? 誰彼構わず目に留まった男を抱き、行為の最中はまるで長年連れ立った恋人のそれだが、行為後はメンヘラだ。インチキだ。抱いたことをいいことに弱みを握り、体内の水分をすべて蒸発させるまで金を搾り取る詐欺師だ。高級ブランドの服をまとって清楚にしていれば男もまんまと騙されるわな。着飾っただけの阿婆擦れの本性は高級ブランドのコート一つで隠せてしまうんだよ。それだけ視覚の印象ってのはでかいんだ。雑巾を絞るように抱いた男から金を搾り取るんだよ。お似合いだよな。清楚で凛々しい女性の正体は、実家でこき使われた家政婦なんて呼べもしない奴隷。このご時世に毎日毎日雑巾がけだ。渡されるのは古びたバケツと黒くくすみ、縫い目がほつれて破けそうな布切れ一枚。破れれば旦那様に怒られる。破かないようにと力を入れずに拭けば汚れは落ちない。かといって力を入れて雑巾がけをすれば、古びた布切れだ。すぐに破れ、旦那様に叱咤(しった)される。お湯なんてものは使わせてもらえず、バケツの中に入るのは冷たい井戸水。手はふやけ、やがて指紋がなくなり手相もつるつるだ。ハンドクリームなんて大層なものはない。庭の雑草取りをしながら、その雑草の汁を掌に広げ、何とか手の感覚を保った。いつかこの家をやめてやる。君の母親は昔、ずっとそう思っていたそうだ。


 インナーチャイルドだか愛着障害だか何だか知らないが、それが君の母親という肩書の正体だよ。自分の股座から産み落としたのではない、血の繋がっていない息子だ。血の繋がった息子がいたとしたら、この女が同じだけ愛情を注げると思うか? 君か実の息子かどちらかを選ばなくてはならない局面に面したとき、この女は間違いなく実の息子を選ぶだろう。なあ、そう思わないか? だって血が繋がっていないんだからな。赤の他人なのだから。君の見ていた主観は、他人からの客観ではないんだよ。主観は主観でしかない。客観しようとしても、それはそいつの持ち物だ。どこまで行っても他人の視点を他人が見破ることなどできやしない。


 さて、今の君の目に、その手の先にいる女はどう映る? 母親でも、恩人でもないただの女だよなあ? 信じ込んでいたそれが虚像だと知ってどう思った? 落胆しただろ? 裏切られたって。そう思わないか? 騙されるってそういうことだろう。その女に騙された数々の男たちも同じ目にあったわけ。気味も被害者だ。俺たちと同じ。不憫だと思わないか? そして今まさに君も不憫だ。君だけが今までその女に対して優しいだとか母親だとか、温かい印象を持ってたわけ。幸せなことだよねえ。その女で褒められるのはそこだけ。君は恵まれてたの。幼い頃から殺人だ、賄賂だ、事件だ、って汚いニュースが脳に垂れ流されてきたこっち側の人間とは違って、君は恵まれてる。裕福だ。ね?」


 男は望月を見て首を傾げて見せた。


「君が今、母親もどきと手をつないでいる理由は何?」


 理由――と言われても思い浮かばなかった。それは単に望月の語彙が少ないせいだろう。


 物事には因果関係があるはずだ。「こうだった」から「こうなった」。その「こうだった」の部分に母と僕との今までの過去を当て嵌めてみる。二人で旅行に行くこともよくあった。北は北海道。函館の夜景。青森の恐山。白神山地。青葉城跡。南は宮崎。高千穂。長崎の五島、友が島や佐渡、軍艦島も二人で行った。旅行だけが二人の過去ではないだろう。日常――朝食、リビングの戸から漏れる味噌汁の香り。焼き魚の匂い。煙い。何かしていても必ず手を止め、毎日欠かすことなく玄関まで見送りに来る顔。表情。


「そうか……これが理由ってやつか」生まれて初めて物事の理由を探り当てた。


「何?」男がニタニタと笑っている。「だいぶ長い時間黙り込んじゃって。母親もどきとの在りし日の思い出にでも浸っていたか?」


 確かに浸っていたのかもしれない。現に過去の出来事を一つひとつ巡っていた。


「だいぶってどれくらい?」

「五分くらい? 君と母親もどきとの足並みは五分のダイジェストで収まったわけだ。まるでエンドロールにふさわしい。走馬灯にしてくれてもいいんだけど?」

「そのもどきって何?」


 男は目をぱちくりさせた。はっ、と間抜けに口を開き、歪める。今まで散々説明しただろうと言いたげな顔だった。しかし、そのすべてを再び話す気にはなれないようで、地団駄を踏んだ。


「お前がそこまで馬鹿だったとはな」

「どうして馬鹿だと決めつける?」


 男は面倒臭そう溜息を吐いた。


「あのなあ、今まで散々熱弁した俺の話を一つも聞いてなかったのか? そいつはお前と血の繋がった母親じゃないの。おまけにお前の前では優しい母親を演じてるけど実際は阿婆擦れなわけ。息子を育てるためとか、生活費が欲しいなら素直にそう縋ればいいものを、こいつはお前の生活費だけはお願いしますと頭下げるどころか、自分の欲求まで同時に手に入れようとしたんだ。烏滸がましいだろ。素直にお願いします、って言えば俺だって金には余裕がある。一緒に暮らそうって言えば一緒に暮らしたさ。ただし、他の男とは関係を持てなくなるがな。当然だろ? 俺が間違ってるか? 自分の欲求だけを満たしたいんだったら息子なんか切り捨てちまえばよかったんだ。でもこいつは、お前の生活を守りながら自分も満足することを選んだ。それがこの始末だ。お前ひとりに母親演じるために、何人の男を食い物にして虐げてきたかわかる?」

「わからない」当然だ。見ていないのだから。


 男は舌打ちを鳴らした。「話にならない」


「僕はこの目で見たもの以外は信じらない」

「その見ていたものが嘘だったって教えてあげてるんだけど?」

「根拠は? あんたの目が節穴じゃないって」

「あ? そんなもの俺の目から見えたものなんて俺にしか見えないんだから証明しようがねえだろ。医者に診断書でも出してもらえっていうのか?」

「ああ、そうしてもらいたい。あんたが視覚障害じゃない……幻視、幻聴、幻嗅、幻触の類、心因性、妄想性、解離性、とん走……そこら辺のことも知りたい」


 男は舌打ちを鳴らした。荒々しく溜息を吐く。


「馬鹿かお前。俺が障害だって言いたいの?」男は鞄の中からスマートフォンと紙の束を持ち出した。紙の一枚が宙を舞い、橋の下、三百メートル下の川へとひらひら舞い降りていく。その残像を望月は眺めていた。


「この紙にお前の母親の被害者の話が事細かく書いてある! 一枚一枚だ! スマホには録音だってある。書面が信じられないなら声紋認証でもしてみろ! まぎれもなくお前の母親の声だ! だからさっさとその手を放せ! お前が信じた優しい母親なんてどこにもいないんだよ! 夢見てんのはお前の方だ! お前の母親が死ぬことをこの書面を書いた全員が望んでる! いいから早く……」


「紙に書いてある文字、全部読んで。あとその録音も聞かせて。でも仮にそれが母親の声だったとして、それが母親の本音とは限らないけど」


 その瞬間、男は口を半開きにしたまま動きを止めた。声を失った。熱弁していたその熱意は瞬時に浄化されてしまったように、静止した。


 呆れる、それを通り越したのか、そもそも呆れるという意味合いについて改めて考えているのか、口の動きを止めたまま次の言葉を発しようとしない。


「あんた、そもそも自分に非があるって考えたことはないのか?」望月は敵意を言葉に込めたが、彼が反論する気配はなかった。


「自分にも一割は非があった、自分がもしこうしていたら、そう思えるなら大概のことはやり過ごせるし許せる。それに、仮に自分の非を知った上でも尚許せないって思うのだとしたら、こんな汚い手を使って母を殺そうとせずに、法律だの裁判だのもっと正攻法で戦うでしょう。お金がもったいない、手続きが面倒だ、そう思っている時点であんたも、あんたが散々揶揄(やゆ)し罵って阿婆擦れ扱いした母、彼女と同じなんじゃないかな。まあ、恋愛ってのはそう簡単に割り切れるものでもないから、ストーカーだったり、どうしても許せない、どうにかしてこの感情を葬りたいって気持ちもわからなくない。法じゃ殺人でもない限り被疑者を殺せないもんね。憎き人間を葬れない……いや、そもそも自分のこの怒りは、被疑者を殺すことで本当に風化できるのか? 殺したところで何が満たされるだろう? そう思ってたりした?」


 男は口を半開きのまま、首を傾げた。曖昧だったが、肯いたことにした。


「うん。だとしたら、態々(わざわざ)僕に母の本当の(つら)を見せびらかしたりしないでさっさと殺しなよ。まあわかるよ。殺すだけじゃなんにも満たされないものね。だから拷問とか、社会的に抹殺するだとか、生け捕りにするわけよね。いやだ、やめて……そうやって下等をなぶるのは楽しいものね」


 男は瞬きを数回繰り返していた。顎が引いている。上半身をやや後方に。「お前まさか……」その先は言葉になっていないので、何を言おうとしたのか知ることはできなかった。


 大体想像はつく。どうせ、望月が人を殺したことがあるとでも思っているのだろう。


「でも司法国家じゃ難しいよ。もし仮に拷問できて殺せたとしても、そのあとは生き永らえられない。司法に裁かれる、か、自分で自分の首を絞めるか。善良な普通の人は、人間の後ろめたさに毎日魘(うな)されるんじゃないかなあ。拷問したときの描写が鮮明に脳裏に浮かんでさ、そこから血生臭い匂いが漂ってくる。裸の女はロープできつく縛られていて、それを解いてやるとくっきりと赤い筋が残っている。まるでシマウマだ。横断歩道に見えて彼女の上を歩いたら、口から内臓飛び出ちゃったりして。女性の身体ってのは面白くてさ、男の身体よりもずっと綺麗なんだよ。すべすべしてて、つるつるで、滑らかで。そこに擦り傷のような凹んだ蚯蚓腫れ。へその下のそれにナイフをそっと近づける。力を入れるとぷつっと沈んだ感触があって、鮮やかな血液が半球体みたいに膨らむ。円周を膨らませていき、やがて球体が崩れて筋が垂れ落ちる。その筋が股座に向かって垂れ落ちる。途端に自分の下半身が反応するんだよ。どうせ殺すんだから、どうせこいつを殺したら自分は自殺するんだから――そうやって心の中で言い訳しながら女を犯すんだ。その時点であんたは道理を外れた。その外れたことが自分の首を絞め始めるんだよ。人間が人を殺さないのはね、殺せないからじゃないんだよ。殺すことに慣れてこなかったからだ。耐性がないんだよ。今話した通り、現代人は善良な血が流れてるから、殺すときの覚悟よりも殺した後に患う弊害の方が大きい。戦国時代は遠い昔。今は平和な国家。箸の持ち方を教わってこなかった少女、挨拶や一般的な礼儀を教わらなかった少年、彼らが社会に出て苦しむのと一緒だね。少女は会社の会食で怒鳴られるけど、なぜ怒られているのかわからない。少年は言葉遣いを完治するのに数年かかった。殺すのにも慣れが必要。殺した後のことは想像にお任せする。幼少期の思い出と一緒でついて回るのは確実だ。


 さて、君に何の得がある。母が君に何を与えた?


 大したことだとは思えなくならないか。馬鹿げたことをしようとしていると思っていないか。人間生きてればどうとでもなると思えてこない?


 この世は不条理だ。家族……それもあんたが言うように昔のそれじゃない。勘違いしてるようだから言うけど、僕はこの人を母親だと思ったことは一度もない」


 最初で最後の嘘だった。手汗がじっとりとしている。珍しく動揺しているようだ。母には勿論聞こえていたはずだ。繋がれている手から手が滑り落ちそうだ。ここ数か月、握力を鍛えていなかったらとうに母親は奈落の底だ。


 望月は橋の上で俯せになりながら、橋の下で宙ぶらりんの母の手を握っていた。望月が手を離せば母は落ちる。水の泡だ。しかしそろそろ腕が持ちそうにない――。


 男は引き攣らせた顔を強張らせた。そして恐る恐るといった風に、望月の手元を注視しているようだった。


 何もない右掌を見た男は、突然人格でも入れ替わったのかのように子どものようにはしゃいだ。何度も飛び跳ねながら、「俺はやったぞ、やってやった! 俺が殺したんじゃないからな。こいつが手を離しただけだ! やった、これで皆に合わせる顔がある!」そう言って、地面に落ちていた自分の鞄を引っ手繰った。まるで大金でも入っているかのように抱きしめた。誰もそんなこ汚い鞄、奪おうとはしないだろうに。


 ボイスレコーダーと散らばった嘆願書の束には目もくれず、口が開いたままの鞄を抱えていた。


「じゃあな!」望月に背を向けて勝ち誇ったように、勝ち逃げする様に駆けていく男の背中が見える。楽しそうで何よりだ――いや本当に。


 痺れた掌をぐーぱーしていると、橋の鉄骨裏に身を隠していた母親は、鉄棒でもするように橋の上に身を乗せようとしていた。すぐに望月は母親の手を持ち、橋の上に引っ張り上げた。橋の上で四つん這いになった母親は、尻もちをつくようにして手をパンパン、と払っていた望月を見るなり抱き着いた。


「なになに、どうした?」


 望月は母親の背中をさすった。彼女は泣いていたようだった。声を挙げずに。彼女の(ひたい)が望月の右肩に擦り付けられる。生温かい体温を感じ、彼女の涙がシャツに滲んでいるのだとわかった。


 しばらく望月の肩に顔をうずめていた母親は、(おもむろ)に顔を上げた。


「ありがとうね」


 母親の目は真っ赤に染まっていた。涙で化粧が崩れ、頬に赤みを帯びていた。まるで子どもが駄々をこねて泣き出した後、仕方なく買い与えた玩具(おもちゃ)を目にしたときのような顔に思えた。


 くしゃくしゃになった顔。お礼の言葉。再び抱き着いた母親の背中を見ながら、母に騙されてきた男性たちはいつもこんな風に抱き着かれていたんだろうなあ、とぼんやり想像していた。


 男はプライドが高い生き物だ。男でなくても泣きながらお礼を言われて悪い気がする人間は少ないだろう。どうせ今だけだろ、心の中ではしめしめと思っているんだろ、そういった邪念の類は彼女と密着した身体からは伝わってこない。まるで長年付き合い、親密な関係性を築いてきた人間のそれだ。初対面の人間にでも親密性を抱かせる猫や可愛い動物のような母親。恐ろしい。


 きっと母に騙されてきた男性たちは、少しでも母に喜んでもらいたかったはずだ。母と時間を共有した後、風呂に入っている間、煙草を吸っている間、電気を消しベッドの上に寝転がって意識が遠のくまでの間、きっと母の笑顔を思い出してはまた、その笑顔が見たいと思ったはずだ。


 見返りを求めないプレゼント、サプライズ、それに無邪気な印象を持つ母の行動は汎用的で、普遍的で、目の前の人間に好かれたはずだ。息子の望月でさえそう思ってしまう。一歩間違えれば、家族であるのにより深い関係性を抱きたいと思ってしまってもおかしくはない。


 望月は、母親の魅惑、あどけなさを知っても踏みとどまっている。


 騙された男性たちは、その一歩を踏み出してしまったのだ。


 寝床を共にした後、母は、些細なことから見返りを求め始めた。最初は見返りだと疑われぬように「ごめん、ちょっと今現金持ってなくて……」と、小銭を借りて自販機で飲み物を買った。「節約しなきゃ」と普段から味気ない手料理を作ることで、「今日ぐらいは外で食べよう」「駅前でケーキ買ってきた」と言わせた。それでも男性たちは母が純粋だと信じて疑わない。


 少しずつ、少しずつ、見返りの負荷を大きくしていき、気づけば母の沼に男性たちは嵌まっている。気づけばあれだけ余裕があったはずの貯金が一桁減っている。貯金をしなくては、でも母をもっと喜ばせたい。


 ギャンブルと同じだった。この母親はパチンコ台と同じだ。最初に何度も当てさせたのをいいことに客を掴むのだ。一度、二度、当てさせることで夢を見させ、あとはずぶずぶと追いつかない下りエスカレーターを上るように堕ちていくばかり。男が暗い顔をしていれば「どうしたの?」と声を掛け、優しく身体を抱く。寝床での素肌と素肌の密着。弱っている人間にこれ以上の優しさはない。薬はない。


 羨ましいよ。何かに夢中になれて。


 好きなことがないと人間はどうなると思う? 誰かと結婚し、家族のために働くごくごく一般的な家庭を築き、豊かな生活を営むだろう。


 結婚する相手もいないと人間はどうなると思う? 自分の弱さにいつしか説き伏せられ、次第にあらゆる自分の行動に意味を無くしていく。


 だから、無理やりにでも何かに対する熱を持っていなければならなかった。


 望月は肩で泣く母親の頭を撫でた。


 誰に対しても平等に泣ける。仮に思惑があったとしても、並の人間ができることではない。一瞬だとしても人の心に共感し、本来己以外の誰もが触れることのできない感情を、彼女は優しく掬って飲み込むのだ。自然と涙が溢れ、数時間後には男の元からいなくなり、また別の男の胸で心から泣ける母親。


 罪だ。


 誰のものにもなれないのは清純派アイドルだけで十分だろう。


 ふっ、と母親の身体に重みを感じる。


 力のなくなった母親の身体を優しく抱いた後、背中に担いだ。ボイスレコーダーと散らばった数枚の嘆願書を橋の下へと蹴り落とす。車に戻ろうと橋の上を歩く最中、ふと幼少の頃を思い出す。その記憶のどれもに共通して言えるのは、家族というより姉弟や友人のような間柄で接してくる母親の顔だ。無邪気――くしゃくしゃの笑顔――手を取って走る二人――。


 だが、決して彼女が望月の名を呼ぶことはなかった。


 望月は首をひねり、自分の右肩を見た。さっきまで母の泣いていた右肩を名残惜しく思う。残像が流れ、母が触れていたときの(ぬく)みと感触を思い出すが、どうやら涙は流れてくれないようだ。

風が吹いてきた。


 その風が母親の体温を奪っていくかのように、歩きながら、背中から伝わる体温が消えていくような気がした。


 空を仰いだ。


 ありがとうね、という母の言葉が耳鳴りのように鳴る。


「こっちの方が……」


 嗚咽で喉が詰まっていた。




 その日、望月は母親の裸体をホルマリン漬けにした。

 後日、惜しみながらも肌に傷を付け、内臓を取り出し、皮を剥ぎ、剝製にした。


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