9 お屋敷の犬と人と
振り返ってはいけない。
勢いが大切だ。
小さい身体ではなかなか進めないが、物陰には隠れやすい。
声を出さず、目的をもって進むリリーは、誰にも見つからず裏庭を横切り屋敷の表へ向かった。
(裏からだと、坊ちゃんに会う前に使用人さんに見つかってつまみ出されるかも。表の方が探しやすいと思う!)
急ぎつつも慎重に進み、正面に出た。
屋敷から門まで、広い庭が広がっている。
整えられた木々、色とりどりの花が咲く花壇、薔薇のアーチ……そして、
(……見つけた!)
芝生の上で、小さな男の子が遊んでいる。
周りには、子守りらしきメイドや護衛の姿も見えるので、この屋敷の大切なご子息様で間違いないだろう。
(よしっ、ここからは愛くるしい子猫ちゃんモードでいくわよ。カミーユさんに好評だったピョコピョコ歩きで……)
ちょっと飛び跳ねるような歩き方で、男の子の方へ近づいて行った、その時、
「ニャッ!!」
何かがぶつかってきて、リリーは吹き飛ばされた。
コロコロと、芝生の上を転がってしまう。
(なっ、なにっ?)
驚いて横を見ると、
(ああ……これが例のワンコね)
舌を出してハッハッハッと荒い呼吸をしながら、自分を見下ろしている子犬。これが横から体当たりしてきて吹き飛ばされたのだ。
白っぽい毛色で短毛、たれ耳の可愛い子犬。だが、
(お、おっきい……顔は子犬だけど、ホント、お母さんくらいの大きさがある)
芝生に転がったまま、茫然と見上げていると、
『きみ、だれ? どっから来たの?』
キャンキャンという鳴き声と一緒に、子犬の言っていることが聞き取れた。
『ぼくチェイッ! ぼくチェイッ! イエーイッ!!』
そしてキャンキャン吠えながら辺りを一周して、また戻ってきた。
『ぼく知ってるぞ! きみ、ねこだろ? バカでよわっちいヤツ!』
『はぁっ? バカなのは、』
『イエーッ!!』
自分の言いたいことだけ言うと、また走りに行ってしまう。
(はぁぁ、孤児院にもいた、こういう男の子)
げんなりしながら起き上がり、あんなのには構ってられないと、男の子に向かってもう一度ピョコピョコ歩きで近づいて行ったが、
『やーいチビチビ~』
また戻ってきた子犬に体当たりされて転んでしまった。
さらに子犬は倒れたリリーの上に乗ってきて、踏みつけ、本気ではないが首元に噛みついた。
『やーっ、やだ止めてよっ!』
『止めて欲しかったら逃げてみろよ~』
もがくが、子犬が重くて逃げ出せない。
『痛いーっ、重いーっ、離してーっ!』
『じゃあ、ごめんなさい、負けましたって言えよー。』
リリーが弱いとわかり、どんどん調子に乗る子犬に『なんで謝らなきゃならないのよ!』と怒鳴ろうとした時、
『お止めなさい!』
鋭い、たしなめる声が響き、子犬の動きが止まった。
『チェイス、いい加減になさい』
声の方を見ると、茶色いフワフワの毛玉のような犬が立っていた。
(あ……これが前からいるって言ってた犬? で、この子犬はチェイスって名前なんだ。何チェイチェイ言ってるのかと思った)
叱られてもすぐにはリリーを離さなかったチェイスだが、
『チェイス! さっさとなさい!』
重ねて叱られ、ようやく離れた。しかし、
『べっつに、ホンキじゃなかったもんねー。かりごっこなのにさー』
反省も謝りもせず、また走って行ってしまう。
(……あの犬、いつか泣かすっ)
リリーは固い決心をしながら起き上がり、急いで茶色い毛玉犬の側に行った。
子犬のチェイスとあまり大きさは違わない。小さな耳と小さく細い足が付いたまん丸の茶色の毛玉に、目鼻口がある、というような、とても可愛い姿。しかし、威厳と気品がある。
『あ、あの、助けてくれてありがとうございます』
『…………』
無言のまま自分を見下ろす犬に緊張するのは、さっきの叱り方が、お世話になった孤児院の院長先生を思い出させるからか。
『リ、リリーと申します』
『……幼いわりに、しっかりとしているようね』
鳴き声はキャンキャンと高音なのだが、言葉として伝わってくる声は低めで落ち着いた年配女性のものだ。
『そのリボンは、あなたのご主人様が?』
『は、はい』
『では、早くそのご主人様の元にお戻りなさい。ここには躾のなっていない幼犬がいます』
うんざりしたように目を向けた先には、自分の尻尾を追いかけてグルグル回転しているチェイスがいる。
『どこから来たのです? 帰り道はわかりますか?』
『あ、あの、実は事情があって、こちらのお屋敷でお世話になれないかと……』
『ここで?』
『はい……できたら……どうにか……』
毛玉犬は、びくびくしながらそう言うリリーをジッと見ていたが、
『……決めるのは、ご主人様です。今はお留守なので、まずはご子息のミッシェル様にご挨拶なさい。さあ、ついてらっしゃい』
『はい』
緊張し、可愛いピョコピョコ歩きも忘れ、リリーは後ろをついて行った。
「あら? スピカ、何か見つけてきた、やだっ、猫ちゃん!」
黒いワンピースに白いエプロン姿の若いメイドが、両手で口を覆う。
「ああああ、かわいいっ! おいでおいで猫ちゃん、おいでっ!」
必死の形相で両手をパンパン打ち鳴らして呼ぶ姿にはちょっと引いてしまうが、それでも、有り難い味方だと思い直して近寄ると、そっと頭を撫でられた。
「どこから来たんでちゅか~、いい子でちゅね~。スピカは優しいね~、子猫ちゃん連れて来たの~?」
茶色の毛玉犬は、スピカという名前のようだ。
「ミッシェル様、スピカが黒猫ちゃんを連れてきましたよ!」
「え? くろねこちゃん?」
金色のクルクル巻き毛の小さな男の子が近寄ってくる。
『ミッシェル様よ。ご挨拶なさい』
『は、はい。』
スピカに促され、リリーはミッシェルに向かって「ニャーン」と鳴いた。
「ねこちゃん、おいで~」
言われた通り足元に行くと、頭をグリグリと撫でられた。
五歳の子供なので力加減ができていない。
抱き上げられギュッとされると、息ができなくなる。
(ぐるじい~、でもにげぢゃだめ~、ごごはがまん~)
爪を出さず、暴れず、ルウに学んだ『良い猫』に徹する。
「ねえキャシー、このねこちゃん、ぼくといっしょに暮らすの?」
「ん~、どうでしょう? 旦那様が良いと仰って下さらないと……。ミッシェル様からお願いしてみてはいかがですか?」
猫好きらしいメイドのキャシーは、さりげなく坊ちゃまにおねだりを勧めてくれている。
(やっぱりこの人は味方だ!)
お礼の気持ちを込め「ニャーン」と鳴くリリーを見て、キャシーはメロメロな顔をしている。
一方、護衛の若い男はそうでもないらしい。「新しい犬が来たばっかりだからダメじゃないかー?」なんてあっさり言う。
「えーニックったら、そんな事言わないでよぉ。大丈夫よ。だってほら、こんなに可愛いんだし」
「いや、可愛いくてもこんな小さな猫、世話が大変だろう? チェイスの躾にも手間がかかるし」
「チェイス……奥様が亡くなられてから元気がないスピカの為に飼う事になったけど……正直スピカ、迷惑してると思うのよね」
「あ~、まぁ、そうだな。スピカは10歳超えてるんだよな? 初老のスピカにチェイスのパワーはキツイよな」
「そうそう。その点、この子猫ちゃんはスピカが連れて来たのよ?」
「う~ん、確かに……」
自分を見つめる二人に、リリーは最高の笑顔で「ニャーン」と鳴いた。
「そろそろミッシェル様のお勉強の時間ですよ?」
新しい人物が登場した。
白髪で背が高く、細身の年配の男性だ。
黒の燕尾服がよく似合っている。
「余裕をもって部屋に戻るように言っているでしょう。家庭教師の先生が間もなくいらっしゃいますよ」
「えっ? もうそんな時間ですか?」
「やっば……すみません、ロイドさん」
二人の様子から、このロイドさんは執事だろう。
「申し訳ありません。実はスピカが子猫ちゃんを連れて来たんですよ。ほらほら、すごく可愛いですよ」
「……黒猫、ですか。」
高い背を窮屈そうに丸め、ミッシェルの腕の中のリリーを覗き込む。
「リボンに刺繍がされている。……ミッシェル様、この子猫、私にも抱かせてもらえますか?」
「いいよ。はい、どうぞ」
ミッシェルから受け取ると、小さい体をそっと抱き、リボンをつまんでみる。
「リリー、と刺繍が入っている。この子の名前でしょう。」
「ってことは、飼い猫っすかね」
「違うわよニック! そう呼んでくださいって事よ。ロイドさんもそう思いませんか?!」
必死なキャシーに苦笑しながら、ロイドはリリーの頭を撫でた。
「……実は生前、奥様が猫を飼うと仰っていたのですよ。旦那様にもお許しを頂いたので準備を整えておくようにと指示を受けていて……黒猫だと思うと仰っていたので、もしかしたらこの子かもしれませんね」
「きっとそうですよ! 世話はわたしがしますから、飼いましょうよ~」
「旦那様がお決めになる事です。近くのお屋敷で飼っていた猫ではないか、確認もしなければ。さあミッシェル様、お勉強の時間です。お部屋に戻りましょう」
「ねこちゃんは? 一緒に行く?」
「もちろんですよ~、一緒に行きましょうね。リリーちゃんって名前だそうですよ。あ、わたしが抱っこしていきますね~」
キャシーは、ロイドからリリーを受け取った。
「チェイスー、戻るわよー。……ダメ、全然戻ってくる気配なし。ニック、お願い」
「へいへい、お任せを。おーい、チェイース。……チェーイス! チェーイス! 戻れって!」
名前を呼ばれても無視して走りまわっているチェイスを護衛のニックに任せて、皆は屋敷の中に戻る事にした。
スピカはポメラニアン、チェイスはラブラドール・レトリバーのイメージで書いています。