朝
「……リリー」
人形のように動かないリリーの横顔を見つめる。
「最初の頃を思い出すな……。よくこうやって、リリーの寝顔を見ていた。気づかなかっただろう? リリーが眠るのを待って、見るようにしていたのだから。最近は、ふと目を覚ました時リリーが隣にいて、とても幸せな気持ちになっていた。全てが満たされていて、充分で、『幸せ』という感情以外何もなくて、笑い出してしまいそうになるのを堪えて、もう一度目を閉じるんだ。ああリリー、君のおかげだ。こんな気持ちになれるなんて、私はなんて運が良かったんだろう」
冷たい唇に、そっと自分の唇を押し当てる。
「リリーに出会えて良かった。本当に、私は幸せだ。……リリー……お願いだ……置いていかないでくれ……」
リュカの頬を、涙が伝った。
「リリーがいなくなったら、私はどうしたらいい? リリーがいない世の中なんて、想像しただけでも息ができなくなる。絶望しかない。君を失ったら、私は、生きている意味を失う」
握り締める手に、いつまでたっても温もりは戻らず、閉じた目は開かず、唇は、何も語ってくれない。
「愛している。ああ……私がどれだけ愛しているか、リリーに伝えきれていない。知って欲しいんだ、私がどれだけ君を愛しているか。君をどれだけ必要としているか。リリー……私の大切な宝物。何よりも大切な、私が生きていく為に必要な女性。リリー、もう一度、その目を開いて私を見てくれ。笑って、私の名を呼んでくれ。お願いだから……リリー……」
いくら話しかけても返答はなく、いくら見つめてもその目は閉じたままで。
それでも、リュカはリリーを見つめ、話しかけ、子供の頃のように静かに泣き続けた。
十歳を過ぎると、『お前は伯爵家の跡取りなのだから』と言われる事が多くなった。
『次期当主が、使用人と気安く会話をするな。ヘラヘラ笑っていると、侮られる』
父親からそんな事を言われるようになり、真面目なリュカは言いつけを守るようにした結果、孤独になってしまった。
『誰も、僕を愛してくれない。言いつけを守ったって、父上も母上も、エヴァンばかりかわいがる』
どうしていいかわからず、とにかく寂しくて、部屋でこっそり泣いていた。
執事のロイドと、子守りメイドのエリナに『私達はわかっていますよ。大丈夫ですよ』と言ってもらい、『わかってくれる人がいるならそれでいい』と開き直り、『孤独を気にしない。愛されたいと思わない。当主とはそういうものなのだから』と納得し、成長してきた。
「そんな私が、リリーのおかげで変われたんだ。リリーと出会ってから私は、毎日が楽しくてしょうがなかった。リリーは私を愛してくれた。私を見ると嬉しそうに笑ってくれて、私の名前を呼んで、手を握ってくれた。抱きしめると、照れながらも微笑んで、抱きしめ返してくれた。私は幸せすぎて、どうしていいのかわからなかったほどだ。……リリー、愛している。リリーがいなくなったら、生きていてもしょうがない。だからどうか……どうか、私を置いていかないでくれ……」
どれくらい、そうしていたか……。
リュカの耳に、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「そんな……夜が、明けるのか?」
夜明け前にはいつも猫の姿になっていたリリーだったが、今は、人の姿のままだ。
「そんな、そんな……」
氷のように冷たい肌。
「頼む頼む頼む頼む!! 頼むから猫に変わってくれ!」
リリーの手を両手で包み、必死に願う。
しかし、リリーの姿は変わらず、そのうち、厚いカーテンの隙間から光が差し込み始めた。
「夜が、明けた……朝だ……」
恐る恐る、リリーの顔に手をかざしてみたが、呼吸を、感じる事はできなかった。
「……ああ、リリー……」
リュカは、よろめくように立ち上がり、窓に向かった。
カーテンを開くと、太陽の光でベッドが照らされた。
「……リリーは、日なたが大好きだったな。よく日なたで昼寝をして、心配になるほど体が熱くなっていたが……この姿を、日の元で見るのは初めてだ」
太陽の光の中で、輝いているかのように見えるリリーに、リュカは近寄った。
「こんなに、薄い色の金髪だったのだな。私と、同じくらいか?」
長い髪を手に取り上げ、サラサラと落としてみる。
「肌も、思っていたよりずっと白い。やはり、夜見ているのとでは違う。……まるで、微笑んでいるように見える。良かった……苦しくはなかったのだな」
白い頬に手を添え、リュカはリリーに口づけた。
『私の命を、吹き込めたらいいのに……』
そんな事を思いながら、口づけをするリュカから、リリーの顔にポタポタと涙が落ちたとき、
「……プッ」
重ねたリリーの唇から、音が漏れた。そして、
「ケホッ、ケホッ」
リュカは驚いて体を離した。
「ケホッ、ンッ……はぁ……あ、リュカ様……」
「リ、リリー……?」
目の前で起こっている事が信じられず、一瞬でも目を閉じたら消えてしまいそうな気がし、リュカは瞬きせずリリーを見つめた。
「リリー……大丈夫、なのか?」
「あー……はい、眠ったら良くなりました。あれっ? もしかしてリュカ様、寝ずに見てて下さったんですか!? やだわたしったら、一人でベッドを占領」
「リリー!!」
大きな声を出し、リュカは覆いかぶさるようにし、リリーを抱きしめた。
「リリー! リリー!! ああ……リリー……」
「えっ? えっ?」
困惑するリリーを抱きしめ、リュカは名前を叫び続けた。
「ああ! もう! 本当に! 死んだと!」
「えっ? リュカ様? 泣いて……?」
「……リリーを、失ったと思った……もう二度と、リリーの目は開かないと思った」
両手でリリーの頬を包み、見つめる。
「リリーの瞳……こんなに美しい水色だったのだな」
「え? あ、あの……えっ?」
戸惑っていたリリーだったが、ここで初めて、自分が日の光を浴びている事に気が付いた。
「あ、朝ですか? 今」
「そう、朝だ」
「わたし、猫じゃない?」
「ああ」
「ええっ? どうしてそんな」
「私にもわからないが、それについては後だ」
リュカはリリーの手を引っ張り、ベッドの上で上半身を起こしてから、ギュッと抱きしめた。
「戻ってきてくれて、ありがとう。リリー、愛している。ずっと一緒にいてくれ」
「……リュカ様……ご心配を、おかけしました。わたしも愛してます。ずっと、一緒にいますね」
そう答え、リュカの気が済むまでそのままでいようと思っていたリリーだったが、しばらく経ち、そっと目を開けてみたところ、
「!!」
寝室の出入口の所に、人だかりができていることに気がついた。
皆、俯きがちに立っている。
『えっ!? カミーユさんにお母さんに、ロイドさん、エリナさん、キャシーもミッシェル様も! あれは誰? ああ、ニックだ、どうしてあんなに真っ黒なの? スピカお姉さまとチェイスまでいる! どうしてみんないるの!? というか、わたし達、みんなが見てる前でこんな!』
慌ててリリーはリュカの背中を叩いて小声で言った。
「リュカ様、リュカ様! なんか、みんなが!」
その言葉に、リュカはようやくリリーから離れた。
「申し訳ございません、旦那様。私達も、リリーさんに……」
伏し目がちに話すロイドの言葉に、ウッと両手で顔を覆うエリナとキャシー。しかし、
「あれ? リリー、起きてるよ?」
明るいミッシェルの声に、皆、ベッドの方を見た。
「リ、リリーっ?」
主人の前にも関わらず、キャシーが悲鳴のような声を上げる。
「あなた! 生きて……えっ? えっ? カミーユさん! さっき『リリーは?』って聞いたとき、駄目だったっていうような感じに、首を振ってませんでした!?」
「い、いや、わたしはてっきり、死んでしまったかと……リュカ様が、絶望したような声でリリーの名前を呼んでたから……だって普通、大丈夫だったら『やったー!』とか言わないかい?」
「……リュカ様は、あまりそういう喜び方は……でも、良かった」
エリナが泣き笑いしながら言う。
「父上! 近くに行っていいですか?」
「ああ、おいで」
「はいっ!!」
ミッシェルは喜んで駆け寄り、ベッドの上によじ登った。
「リリー、大丈夫なの? リリー、すごく具合が悪かったでしょう? もういいの?」
「えっ? わたし、そんなに悪かったんですか?」
リリーの質問に、リュカは深く頷く。
そして、ベッドの横にやってきたカミーユも、リリーの手首を持って脈を計り、信じられないように首を横に振る。
「問題ないね。しかし、本当に死んでしまったかと思ったよ。あの状態からよく……。それに、この姿って……」
「そうですよね……後でしっかり診てもらえますか」
「承りましょう。だが、とりあえず今は、皆で喜ぼうじゃないか。ねえ」
その言葉に、その場にいた者皆、かわるがわるリリーを抱きしめたり手を握ったりし、心の底から、リリーの無事を喜んだ。




