向き合わなければならない現実
「リリー、いないのか?」
屋敷に帰り、自室に入ったリュカは中に向かって声を掛けてみたが、返答はない。
ぐるりと見て回ったが、寝室にも、続く奥の部屋にも姿がない。
「……どこかで眠っているのか? まだ時間は大丈夫だが……」
なんとなく気になり、ミッシェルの部屋へ行ってみる。
「あ! 父上! おかえりなさい!」
「ああ、ただいま。今日は釣りに行く約束を守れず、すまなかった。」
「いえ! 大丈夫です!」
嬉しそうに腰に抱き付くミッシェルの頭を撫で、さりげなく部屋を見回す。
ソファーの上にスピカとチェイスの姿があるが、リリーはいない。
「旦那様、おかえりなさいませ。」
深くお辞儀をするキャシーに頷き、『ところで』と尋ねる。
「リリーは来ていないか?」
「えっ? リリーさんですか?」
「猫の方だ」
驚いたように顔を上げたキャシーに、リュカは即答する。
「あ、ああ、はい、あ! いいえ、リリーは来ていません。そういえば、午後からずっと見ていないような……」
「父上! 僕も見てないです!」
元気に手を上げるミッシェル。
「そうか……」
他も見て回った方がいいかと考えていると、
「キャンキャン!」
「スピカ」
自分を見上げ、吠えるスピカは、何かを伝えているように見える。が、
「私には、お前の言っている事がわからない。すまないな」
リュカはそう言いながら、スピカの頭を撫でた。
そんなリュカに、ミッシェルは首を傾げて尋ねる。
「あの、父上、リリーは父上のお部屋にいないんですか?」
「ああ。まあしかし、ちゃんと探したわけじゃないから、もしかしたらどこかで寝ているかもしれない」
「僕も探しましょうか?」
「いや、大丈夫だ。それじゃあ、夕食で」
そしてリュカはミッシェルの部屋を後にし、一応、屋敷内を見て回ったが、リリーの姿はなかった。
『突然人間の姿になってしまった時、隠れる事がでるようにと用意していた部屋にもいなかった。やはり、出かけているのだろう』
夕食後も、ずっと姿をみせないリリーを思い、自室でお茶を飲みながらリュカは考えをめぐらせていた。
これまでリリーが、無断で屋敷を出た事はなかった。と、いうより、一人(一匹)で屋敷を出るという事自体なかった。
しかし、リュカはあまり驚いてはいなかった。
『昨日、様子がおかしかったからな……。おそらく、カミーユ殿の所に相談にでも行ったのだろう。いつもならそろそろ人間の姿になる頃だ。今日は向こうに泊まるのかもしれない』
昨日、弟のエヴァンがいきなり屋敷にやって来た。
そして、かつての自分の子守りメイドの目を盗んで屋敷内を歩き回り、酷い振る舞いをした。
その時何があったのか尋ねたとき、リリーの説明は、どこか隠し事をしているように感じられた。
そこでリュカは、その場に一緒にいた現子守りメイドのキャシーに話を聞きに行ったのだが、
『やはりリリーは、重要な事を隠していた。エヴァンがシェリンの事を、リズ、と呼んでいたという事を……』
その名の女性を、ここ数日ずっと探していた。リリーがそれを聞き漏らすなど、考え辛い事だ。
『リリーはきっと、私の事を心配しているのだろう。弟が今回の事件に関係していた場合の、私の立場を。確かに、それはそうだが……しかし、このままにはできない』
そう思い、リュカはリリーには内緒で、昨夜のうちにシェリンにも話を聞いていた。
「急なお呼び出しでしたので、お待たせしてはいけないと思いまして。こんな恰好のままですがよろしいでしょうか? 着替えて来た方が?」
応接室に入って来たシェリンは、夜着に、ショールを羽織った格好だった。
「いや、構わない。そこに掛けてくれ」
「はい」
リュカの向かいの椅子に腰かけたシェリンが胸元で抑えていたショールから手を離すと、大きく開いた夜着の胸元が露わになった。
シェリンはあえて胸の谷間を見せるように、リュカの方へ前かがみになって身を乗り出したが、リュカは見るでもなく、目を逸らすでもなく、全く気にせず話を始める。
「単刀直入に聞く。君は、エヴァンから何を言われてここに来たんだ?」
「え? いえ、別に何も……エヴァン様の奥様が、わたしとエヴァン様の仲を疑っていらっしゃって……勿論、そのような事はなかったのですが。それで、コールドウェイ侯爵家にそのままいるのは辛いだろうからと、こちらを紹介して下さいまして……」
「君には、蝶の形の焼印はあるのか?」
「……なんの事か、わからないのですが……」
「シェリンとリズ、本当の名前はどちらなんだ?」
「えーと…………」
自分の回答を無視し、矢継ぎ早に問うリュカに、困ったように首を傾げていたシェリンだったが、
「ジフリー・コッティは知っているな?」
そう言われ、思わず驚いた表情をしてしまい……、
「……存じ上げております」
誤魔化しきれないと思ったらしく、ふーっと息を吐き、夜着の胸元をグイッと下げてみせた。
「この通り、わたしの胸には蝶の焼印があります。借金のカタに、娼館に売られたんですよ。で、お話しするのはいいですけど、お金、頂けますか? 金貨を3枚」
「いいだろう」
リュカが頷くと、シェリンはあっさりと話し始めた。
「わたしが働いていたのは、『蝶の館』という所です。ただの娼館ではなく、貴族や金持ちの社交場、というような所で、エヴァン様とはそこで知り会いました。リュカ様の愛人になれたら、わたしの借金を肩代わりして下さると仰るので、このままじゃいつ出られるかわからないし、チャンスだと思って引き受けました。エヴァン様は、リュカ様には恋人がいないし、しょっちゅう顔を合わせるような所に配属させてやるから、簡単に愛人になれると仰っていましたけど、実際は全然違っていて……最近では、屋敷内の様子や、恋人の女性がいつ来るかとか、そういう事を報告させられていました」
その話に、だから今日、タイミング良くやって来たのだと納得する。
「エヴァンはそこへ、客として行っているのか?」
「さあ……わたし達がお客様の事を詮索するのは禁じられているのでよくはわかりません。でも最近、そこの女主人のマダム・アドニアと一緒にいらっしゃるので、特別な方なのかもしれません」
「最近、というと、以前は違っていたのか?」
「以前は、もっと年配の方が、マダム・アドニアと一緒にいらっしゃいました。その方は、かなり地位の高い方だという噂でした。最近は全く見ませんけど」
「そうか……」
『ただの客ならまだ良かったが、そうではないようだ』と心が沈む。
「ジフリーとは、どういう仲なんだ?」
「ジフリー様ですか? ジフリー様はただのお客様です」
シェリンはそう答えたが、先ほどの、その名を聞いた時の様子から『それだけではないのだろう?』とリュカは重ねて尋ねたが、
「それだけですよ」
そう言い、しかし、シェリンは少し悲しそうな笑顔を浮かべた。
「ジフリー様はよくご指名してくださる御贔屓様でしたけど、それだけです。貴族様のようでしたし、独身と聞いてましたけど、いずれは家柄の良いお嬢様を奥方に迎えるんでしょう。わたしを身請けして、愛人として囲って下さるほどのお金持ちではなさそうでしたし、良くしてくださいましたけど、それだけですね」
「そうか。……では、彼がエヴァンに何か頼まれたとか、そういうことは聞いていないんだな」
「はい、何も。さっきは、懐かしい名前を聞いてちょっと驚いただけです」
「なるほど。……ジフリーは、近衛騎士団の団員だ。私の息子のミッシェルと、団長のご息女、アンジェレッタ嬢を誘拐したのは、彼だ」
その言葉に、シェリンは驚いたように目を見開いた。
「え……でも誘拐犯は、街の悪党だって聞きましたけど……」
「内密にしていたが、それを指示していたのがジフリーだ。そして、その男達はジフリーが口封じとして殺害した」
「ジフリー様が……」
「私は、彼も何か、取引を持ちかけられたのではないかと思っている」
「……そうですか……でも、わたしには関係ない事です」
シェリンはきっぱりと言った。
「君を手に入れる為に、した事ではないかと思っているのだが」
「もしそうだとしても、わたしが頼んだわけではありませんし、なにも聞いていませんので」
「そうか。ではもう一つ、その『蝶の館』の場所はどこだ?」
「すいません、それはわかりません。わたしは目隠しをされて、そこに連れていかれたんです。出る時もそうでしたし。屋敷の窓には太い鉄格子がはめられていて、そもそも、外を見る事自体禁じられています。たまにカーテンの隙間から見えるのも、木ぐらいでした。お客様に、ここはどこなのかと尋ねる事も禁じられていたし、お客様の方も口止めをされていたようです。場所がわかったら、逃げ出そうとする者が現れると用心していたのではないでしょうか」
「なるほど……わかった。もう戻っていい。時間をとらせて悪かった」
そう言うとリュカは、上着の内ポケットから財布を出し、金貨3枚をテーブルの上に置いた。そして、シェリンの前へと押しやる。
「ありがとうございます」
手早く金貨を取り、シェリンはギュッと手に握り締めた。
「……金貨3枚……」
「ん?」
「こうやって簡単にいただけて、ありがたいと思いまして」
苦笑し、シェリンは言った。
「月に金貨3枚以上稼げないと、借金は減らないんです。人気があってお金を積まれたり、指名されたりしないかぎり、毎日言わりれた通りに客を取って、ようやく金貨3枚程度。年齢が高くなってくると、御贔屓様でもいない限り稼げなくなってきて、そういう人は、いつの間にか姿を消してるんです。もっとひどい所に売られるって噂でした。まあ、『蝶の館』だって、酷い所ですけどね。お金のある方、権力のある方は、何をしてもいいんですから。社会的に高い地位にあり、尊敬されている方が、酷く残酷な欲望をお持ちという事もよくあって、酷い辱めを受けたり、暴力を受けたりする事もあります。中には、殺された人もいるし……旦那様が、調べている事件がそうですよね?」
「ああ、そうだ」
「わたしは、あそこで生きる事に必死でした。怪我や病気をして働けなくなったら、たとえそれが客のせいであっても借金が増えてしまうんです。借金を返せなきゃ、みじめに、短い一生を終えるしかないんです。最初の頃は、誰かが救い出してくれないかと思っていましたが、すぐに、自分でどうにかしなきゃこのままだと気づきました。だからわたし、エヴァン様の話にのったんです。……ジフリー様は、苦労知らずの、バカな坊ちゃんです。なんて……なんてバカな事したんでしょうね。大人しく、安全な道を歩いていれば良かったものを……」
そう言うと、シェリンは立ち上がった。
「では、失礼致します」
そして、部屋を出かけたが、不意に立ち止まり、『あの……』と小さい声で言った。
「あの、ジフリー様は今どうされて?」
「投獄されている。何も言わないので、投獄されっぱなしだった。しかし今回、蝶の焼印を押された女性の死体が発見されたという事を知り、その女性の特徴を知りたがってな」
「そうですか……」
それだけ聞いて、シェリンは下がって行った。
『……なんやかんや言って、シェリンはジフリーの事を愛しているのかもしれない』
昨日の彼女の様子を思い出し、リュカは溜息をついた。
『だが、彼女は借金のせいで自由がない。だから、エヴァンの話に乗った。ジフリーは、彼女を自由にし、自分だけのものにしたかったから、エヴァンの話に乗った。そういう事なのだろうが……エヴァンは、何がしたかったんだ? 私を嫌っての事なのだろうが、正直、そこまで嫌われているとは思っていなかった。今日、話をしようと屋敷まで尋ねて行ったが、肝心な話はほとんどできなかったし……』
尋ねた時エヴァンは出かけていた。しばらく待ってようやく帰ってきたので、前日の事を抗議したところで、また出かけるからと逃げられてしまった。
『それと、娼館の女主人と以前一緒にいたという貴族……もしや、コールドウェイ卿ではないかと思ったのだが……』
出かけているというエヴァンを待つ間、少し前から病気で伏せているという現当主の侯爵を見舞ったが、ずっと寝ていて、言葉を交わすことはできなかった。
「お医者様の話では、難し状態だそうで……」
あまり交流をもっていない侯爵の娘である義妹と、ミッシェルより数か月の下の甥にも久しぶりに会ったが、
『……やはり、あの人達とは合わないな……』
義妹は、ディガル侯爵家のアンジェレッタ嬢とミッシェルが婚約するという噂は本当なのか、自分の息子の相手にと思っていたのに、家柄的にはこちらの方が釣り合っているのに、というような事をくどくど繰り返していたし、その息子はというと、つまらない、お菓子が食べたい、おもちゃが見つからない、と些細な事で癇癪を起しては、子守りメイドを叩いていた。
『それを叱りもしないし、止めようともしないのだからな……いくら年が近くても、今後もミッシェルと遊ばせたくはないな』
そう思いながら、リュカは目を瞑った。
今日は、エヴァンの所へ行く前に城へ行き、近衛騎士団団長のデューイと副団長のダイアンに、シェリンから聞いた事を報告した。そして、弟のエヴァンが、事件に関わっている可能性がある事も話したところ、二人は親身になってくれた。
「リュカ、お前このまま捜査を進めていいのか? 弟が、罪に問われるかもしれないんだぞ? そうなると、お前にも何か影響が出るかもしれないし」
「いや、もう婿に出ているんだし、あいつはもうコールドウェイ侯爵家の者ということでいいだろう」
「そうは言っても、いろいろ言ってくる奴もいるだろう?」
「そんなのは無視すればいい。もし近衛騎士団内でそういう声が出たら、デューイ、お前が団長として、どうにかすればいいだろう」
「どうにかって……まあ、そうだな」
「とはいえ、あまり関係ないようだったら、今後関わらないよう事前に忠告はしてもいいだろう。どうせ、貴族が係わっているとなれば、大事にせず、内密に娼館だけ潰す対応になるかもしれん」
「それは言えてるな。とにかく、弟と話してこい」
団長、副団長にそう言ってもらって、エヴァンの所へ行ったのだが、
『さっさと重要な話をすれば良かったのに、比較的話しやすい、昨夜の振る舞いについて話をしてしまった。そして肝心の、誘拐や殺人事件や娼館の事について何も聞いていないうちに、また出かけられてしまった。……自分では気にしていないつもりだったが、やはり怖いのだ。たった一人の弟が、私の事を嫌っていて、さらに、犯罪に関わっているかもしれないという事を確認するのが。知りたくない事であっても、それが本当ならば、しっかりと向き合わなければならないのに……』
大きく溜息をついたその時、扉の向こうから猫の鳴き声がした。
『リリー!?』
驚き、リュカは慌てて扉を開けた。
「ニャーン」
「リリー! いたのか!」
スルリと部屋の中に入ってきた黒猫を抱き上げ、リュカはフワフワの首元に顔を埋めたが、
『ん? リリーじゃない?』
慌ててまじまじと顔を見る。
「……これは! 義母上殿でしたか」
「む、息子よ……じゃなくて!」
義母と呼ばれ、なんと返答すればいいか戸惑ったルウだったが、すぐにプルプルと頭を振り、リュカに言った。
「ルウって、名前で呼んでくれればいいから。それにしても、よくすぐにわかったわね」
「匂いが違っていたので。ルウ殿からは、甘い香のような香りが」
「ああ、なるほどね。カミーユがよくお香を焚くから。って、それどころじゃないの、リュカ様! リリーが、誘拐されちゃったのよ!」
「え……誘拐?」
「そうなの、ごめんなさい! 近くにいたのに助けられなかったわ!」
思いもよらないルウの言葉に、リュカは茫然と立ち尽くすことしかできなかった。




